高橋是清 昭和2年の金融恐慌を憶う

2016年05月08日 | 歴史を尋ねる
 前回に引続き、高橋是清随想録から。昭和金融恐慌についてはすでに詳細記述済みであるが、高橋を知ると同時に当事者の証言はやはりリアリティがあるので、採録したい。

 あの時のことを思い出すと実に感慨無量だ。昭和2年3月15日、「あかじ銀行」が休業し、その波動が八方に拡がり、毎日各地に銀行の休業、破綻が続出し、財界の不安は日増しに加わって、4月に入ると鈴木商店の整理が伝えられ、株式市場が一斉に崩落した。その一方で支那問題が紛糾し、中部方面で動乱が起こり4月4日には南京の日本租界が支那暴民の大掠奪が行われ、北京においても支那官憲がロシアの大使館に侵入して家宅捜索をなすなど、支那事態の重大を伝えて、諸株はいよいよ低落する一方であった。かくて4月8日、神戸の六十五銀行が休業し、鈴木商店の業態が危機を報ぜられ、神戸を中心として関西金融界の不安が著しく拡大し、コール市場は事実上閉鎖せらるるに至った。鈴木商店の危険、六十五銀行の休業が伝えられると、これに最も関係の深い台湾銀行に対する危惧の念を一層強からしめ、ここに至って急激なる取り付けを受けた。殊に同行に巨額のコールを貸し付けている銀行は、相前後して回収を始めたので、台湾銀行は窮地に陥り支払い停止をなすほか方法がなくなった。時の若槻内閣は、日本銀行から台湾銀行に二億円を貸し出させ、日本銀行に欠損が生じた場合、政府がそれを補償しよういう案を立て、緊急勅令をもって発令すべく枢密院審査委員会に付議したが、同会は満場一致で否決した。それでも政府は本会議で本案の通過を図ったが、その努力は水泡に帰し、その責めを負うて辞職した。

 そして台湾救済の勅令案が不成立に終わると同時に、台湾銀行の内外支店は一斉に閉鎖の止むなきに至り、これが財界に非常なショックを与えて、18日に至ると日本銀行の貸し出しは空前の激増を示しわずか一日で約2億9千万円増加した。19日に至ると全国金融界の動揺はさらに甚だしく、各地に銀行が相次いで休業するものも多く、対米為替も低落して、財界の不安はいやが上にも加わり行くばかりであった。
 この混乱の最中、4月19日組閣大命が田中男に降下した。田中は大命を拝すとその足ですぐに私を訪ね、大蔵大臣として入閣するよう要請があった。私は当時すでに74歳で、政界を隠退し、閑雲野鶴の見であったが、当時の財界は非常なる危殆に瀕していたのみならず、同時にわが国の海外における、財界信用も全く失墜し、外国の諸銀行が日本の銀行との取引を拒絶するような状態であったので、老齢であり、病後の衰弱がまだ回復していなかったが、国家の不幸を座視するに忍びないという気になり、三、四十日間という約束で就任を許諾した。私の見込みでは、三、四十日で一通り財界の安定策を立てることができると考えたからだ。4月、親任式、閣議後自宅に日銀総裁、副総裁、大蔵次官を招致し、数日前から取り付けを受けていた十五銀行の救済問題について意見を徴した。そして日銀に21日午前三時まで非常貸し出しを敢行するよう交渉し、各銀行の手元準備の充実に努めた。ところが21日午前二時半、十五銀行休業の報が一度伝わると、不安に脅えた預金者たちは21日の明けるのを待って怒涛の如く各銀行が押し寄せ、東京・大阪・名古屋・京都・神戸等の大都市においては勿論、地方の各市に至るまで、多数の預金者が銀行の窓口に殺到して取り付けを始め、ここに全国的の大恐慌が現出した。

 日本銀行はこの恐慌状態に応ずるため21日も非常貸出を続け、この日一日の貸出高は六億一千万円、貸出総額は十六億六千万円、兌換券発行高は二十三億円で、前日比六億四千万円増加した。元来日銀の貸出額は平常二億五千万円前後で、一番多い時でも四億八千万円を超えない、それが21日に一日で発行した分は六億三千万円、実に空前の発行高であった。日本銀行は兌換券が不足となり、金庫の中の破損札まで市中に出したが、それでも不足し、にわかに五円十円札と二百円札を急増することになった。昭和2年4月21日の財界は、前古未曾有の混乱状態に陥らんとしていた。
 21日には午前十時から夜中までぶっ通し閣議が続けられたが、午前十一時頃、私は二つの応急措置を取ることを決意し、午後の閣議に諮って各閣僚の同意を得た。1、緊急勅令をもって二十一日間の支払猶予令、モラトリアムを全国に布くこと。2、臨時議会を招集して、台湾金融機関の救済及び財界安定に関する法案に対し協賛を求めること。この二つであった。ところが緊急勅令発布の手続きを踏むには、急いでも二十二日一杯はかかる。発令までの二日間応急処置を講じなければ危険だと考え、閣議決定と同時に私は三井の池田、三菱の串田両君を招き、モラトリアム実施の準備行為として、民間各銀行は二十二、二十三の両日自発的に休業して貰いたいと相談した。両君は諒解して直ちに銀行団にその意を伝え、私の希望通り実行することに決定した。
 そこで一刻も速やかに国民に安心させるために、『政府は今朝来各方面の報告を徴し慎重考究の上、財界安定のため徹底的救済の方策を取ることに決定しその手続きに着手せり』という声明書を発表した。この応急処置は疾風迅雷的に決定し、間髪を容れる余地もなくとり行った。一方東京銀行集会所及び手形交換所連合委員会は臨時委員会を開いて、日銀の徹底的援助を待つのみであるが、これにより日銀の損失補償について決定し、池田、串田両君と日銀の市来、土方正副総裁が私に陳情に来たが、内閣ではその時すでに補償案を決定し、法文を練っているところであった。その夜十一時ごろ対策案が出来上がったので、私は直ちに倉富枢密院議長を訪問して、あす緊急勅令案が枢密院に諮詢になる手筈であるが、ついては事態の急に鑑み、一刻も速やかに議事を終了して、財界の不安を一掃させられたと述べ、一方平沼副議長には法制局長長官が行って諒解を求めた。
 かくて私が自宅に帰って床に就いたのは午前二時過ぎ、翌22日には早朝五時に起き、八時には官邸に出勤した。人間は精神が緊張している時は、割合疲れぬものだ。折り悪く総理大臣が俄かに発熱して一週間ばかり引き籠ることになったので、私は総理大臣の代理までしなければならぬことになり、午前九時赤坂離宮に参内し、財界救済の応急策としてモラトリアム施行の止むべからざる旨を上奏し、ご裁可を経た。枢密院とは打ち合わせが出来ていたから、諮詢案の回ってくるのを待ち構えていた様子で、午前十一時五十分頃全会一致で可決した。次いで午後二時半から天皇陛下親臨の下に本会議を開き、緊急勅令案を付議して、満場一致で可決確定した。

 全国銀行二日間の休業、モラトリアムの緊急勅令、臨時議会召集、この三大事を断行したが、全国大小の銀行を全部休業させるということは世界の歴史にも稀有のことで、休業後再び店が開かれた場合、取り付け騒ぎが再現しないか、これは神様以外に断言し得るものはない。もし同じように恐怖状態を繰り返すならば、内閣は成立後五日にしてその責を負わねばならぬ。このサイコロの動き如何によって財界の安否も内閣の運命も定まる。そこで私はこの三日間(日曜を含めて)にあらゆる努力を尽くして対応策を講じた。まず、日銀に、従来取引を許していた銀行以外にも資金の融通をなさしめ、担保物の評価に関して寛大の方針を取るようにした。24日は休日にも関わらず非常貸出を続け、また正金銀行の方でも海外支店に命じて、預金者や債権者の取り付けに応ずべき十分な資金を準備せしめ、その結果、内外の支店もことごとく再開準備を整えた。
 いよいよ25日の朝になって、各銀行はいずれも早朝から店を開いて綺麗に掃除し、カウンターに山の如く紙幣を積み重ねて、取り付けに応ずる姿勢を示し、甚だ平穏だとの報告があり、警視庁あたりの報告も同様で、まず胸をなで下ろした。全国各地からも頻々と電報が来たが、いずれも平穏を報ずるものばかり、21日に預金を引き下ろした連中は、その処置に困って一流銀行に持ち込むという有様で、一流銀行の預金者の殺到と変わった。

 銀行休業の非常手段は予期以上の好結果を収めた。まず第一の関門を通過すると、第二の関門は臨時議会は少数与党だった。議案がやっと衆議院本会議を通過して貴族院に回されたのは最終日の午後六時、午後十二時に会期満了となるので審議時間はわずか六時間、私は一日も早く財界救済法案を決定して、人心の安定を図らねばならぬと考え赤誠を披歴して貴族院の諒解をもとめたが、質問が相次ぎいつ果てるともつかない状況の中、坂谷男爵が俄かに賛成演説をなし、委員会、本会議を可決決定したのは十一時半であった。さらに第三の関門、二十一日間の支払い停止期間の期限満了時、各種債務の取り付けが行われる可能性もあったが、期日が到来しても何らの破綻も見ないで、無事に第三の難関を通過した。さしもに混乱を極めた財界もここの初めて安定の緒に着き、閉店中の台湾銀行各支店も一斉に蓋を開けることとなったので、私は6月2日にお暇を願って野に下った、と。うーむ、日本は当時本当に良き人に恵まれたものだ、そして田中義一の慧眼もさすがだった。