「持たざる国」への道

2016年05月01日 | 歴史を尋ねる
 宇垣一成は何度も首相と目されながら、大正デモクラシーの時代に陸軍大臣として大幅な軍縮を行ったこと等が禍して陸軍内部の反対でついに首相になれなかった人物であったが、戦後、昭和11年当時を振り返って「その当時の日本の勢いというものは、産業も着々と興り、貿易では世界を圧倒する。英国をはじめ合衆国ですら悲鳴を上げていた。この調子をもう5年か8年続けて行ったならば日本は名実ともに世界第一等国になれる、だから今下手に戦などを始めてはいかぬ」と宇垣一成日記で回想していると松元崇著「高橋是清暗殺後の日本」で記す。2・26事件の起こった昭和11年は、高橋財政の下で活況を呈しており、その時点で戦争を望んでいた国民はほとんどいなかった。昭和11年7月には、日本の紀元2600年(昭和15年)に合わせてオリンピックを東京で開催することが決定された。昭和15年には万国博覧会開催が予定されており、全国で観光施設の整備が、東京ではデパートの新築・増設計画が本格化していた。NHKはオリンピックに合わせて、テレビの実用化に本格的に取り組み始めていた、という。

 ふーむ、この辺の記述は意外感がある。確かに高橋亀吉もその著書で昭和7~10年を「世界恐慌後の日本経済躍進時代」と表題をつけて記述しているし、世界的日貨排撃に対する「太平洋調査会」の論戦で高橋が政府委員として活躍したことは、記述済みである。同じ高橋が、2・26事件を境に経済規制、統制経済に移ったとのコメントをしていた。そして日中戦争のたけなわの1940年(昭和15)11月10日、新装なった皇居前広場に昭和天皇と皇后を迎え、五万人が集まった紀元2600年式典を報じるニュース映画で、時の総理近衛文麿が「天皇陛下、万歳」という情景をテレビでも時々放映されるし、戦争に動員される国民のイメージに使われ、歴史学の世界でもこのイベントはこのようなイメージでとらえられてきた。古川隆久氏はふとしたことからこのことについて調べ始めとみると、ずいぶん話が違うことに気が付き、「皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展」という著書を出している。ちょっと回り道だが、古川氏の調査結果をかいつまんで見ておきたい。

 明治5年12月、政府は「神武天皇御即位をもって紀元と定められ候」という太政官布告を出した。皇紀が正式の紀年法と法制化された。皇紀誕生の事情は聖徳太子に遡る。602年百済の僧観勒が日本に中国の暦法伝えた中に讖緯説があった。これは十干十二支で1260年周期の最初の辛酉と甲子の年に大変革が起きるという説で、辛酉の年(601年)から1260年遡った紀元前660年を、伝説上の初代天皇(神武天皇)即位の年、日本国家創始の年として、史書「天皇記」を作成した。以後この紀年法は歴史書で使用され、明治の代になって、公文書で使用(元号、西暦併記)された。そして1890年は皇紀2550年というキリの良い年のイベントに、橿原神宮が創建された。
 それでは紀元2600年奉祝の発端は、1930年(昭和5)6月、東京市長永田秀次郎が日本チームの総監督だった山本忠興に東京市がオリンピック開催したき意向を伝え、欧州スポーツ界の状況調査を依頼、東京開催の可能性がある旨持ち帰り、12月永田がオリンピック東京招致の意向を公表した。勿論、紀元2600年に当たる1940年のビックイベントを意識していた。翌年東京市会に建議、満場一致で可決したが、可決理由は「復興成れるわが東京において開催することは、我が国のスポーツが世界的水準に到達しつつあるに際し、時あたかも開国2600年にあたりこれを記念するとともに、国民体育上裨益するところ少なからず、ひいては帝都の繁栄を招来するものと確信す」。
 万博の方はどうか。大正期以後、国内では産業振興のため様々な博覧会が行われ、海外への万博参加も拡大、1926年に博覧会倶楽部が結成された。1929年6月、内閣に日本での万博開催を建議し、全国の団体にも呼びかけた。この時の計画は、世界大戦終結20周年、関東大震災12周年で、不況打開を目的とした。ところがこの段階から1940年に開催を延期する主張があらわれた。1933年シカゴ万博の勅語では集客も難しく、オリンピックと同時開催してはどうかと永田市長が提案し、この案が強く支持された。

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中戦争が勃発したが、当初は局地紛争の一つと考えられていた。しかし7月28日華北で日本軍が本格的な軍事行動を開始すると、この紛争は全面戦争の様相を呈し始めた。9月9日には政府が国民に戦争への協力を呼びかける国民精神総動員運動の開始を告げる内閣訓令が発せられ、国家総動員計画の準備を開始、こうした中、紀元2600年奉祝の動きにも影響が及びはじめ、オリンピック返上問題が起こった。

 松元崇氏は次のように解説する。好調だった日本経済は、昭和11年の盧溝橋事件勃発後、日中戦争が泥沼化するに従い行き詰まり、国民生活は困窮して行った。生活の困窮化は、英米のブロック経済が「持たざる国」である日本を追い込んだためであると受け止められ、今でもそう信じている向きが多いが、高橋是清らが暗殺されたとたんに日本が「持たざる国」になってしまったわけではない。日中戦争が泥沼化する中で、経済合理性を理解しない軍部(関東軍)による華北分離工作などの無理な政策が日本を国際的に孤立させ、経済全体をじり貧に追い込んでいった。それを英米のブロック経済のせいと思い込まされた国民は、軍部の言うままに戦争への道に突き進んでいった、と松元氏は明言する。よし、では松元氏の主張を追いかけてみたい。