恐慌の展開と社会不安

2016年05月17日 | 歴史を尋ねる

 二・ニ六事件の首謀者の一人、青年将校の安藤輝三は事件後次のように証言している。安藤が国家革新運動に関心を持った契機は初年兵教育からで、兵の身上を通じて農山漁村、中小商工業の疲弊窮乏の状態を知り、世相の瀕廃人心の軽佻等に憤慨し国家の前途を憂えた。こうして軍人としては考えては不可と云われる政治問題まで考えを致さねばならぬようになりましたという。不景気の中、除隊した兵が就職口を探してくれと云ってくるのでそれらに補助を与えても焼け石に水で、私自身が破産する様になりました、と。筒井清忠氏の著書では時期を特定していないが、昭和恐慌の時期であろう。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校を経て昭和元年歩兵少尉として第三連隊に入隊。戸山学校・歩兵学校を経て昭和10年、歩兵第三連隊中隊長就任。昭和6年8月、菅波三郎が第三連隊に現れ手からは一層急進化し、十月事件クーデタ計画に加担している。北・西田に会い「改造法案」を読み、菅波が満州に去ってからは、歩兵第三連隊の国家革新青年将校の中心的存在となり、その人格から「安藤が起てば歩三が起つ」と言われるほどの存在になった、と筒井氏。

 前回は、井上蔵相の「金解禁準備不況」に始まって、世界恐慌の影響による「価格恐慌」が押し寄せたまでだったが、日本社会に与えた影響を中村氏の著書で見ておこう。とくに不況の影響が著しかったのは農村だった。農業所得はこの三年で半額以下に落ち込んだ。当時の農家の現金所得の柱であった繭価は、ニューヨークの生糸相場の下落に伴っていち早く落ち込んだ。米価の落ち込みはやや遅かったが、1930年が豊作であることが明らかになると、急に低落し、そのために31年には農家所得が急落した。当時の内務省社会局調査「農山漁村に於ける生活困窮状況」(昭和7年8月)によれば、地域的に見れば東北地方の困窮が一番甚だしく、その次は山陰地方が惨状をきわめた、と。農産物の値下がり、繭価の下落、労働需要の減退等のために、「糊口に苦しみ、米を食するを得ずして、アワ、ヒエ等を常食とするの状態なり。漁村の窮乏は山村に次ぎ甚だしく、漁獲物の価格低落、近年天候不良による不漁等、農漁山村の負債の逐年的増加、金融の拘束等、農漁民の生活を脅かすもの枚挙にいとまあらず」とされている、と。
 窮乏したのは農村ばかりではなかった。製造工業の分野でも打撃は著しく大きかった。代表産業であった防錆業ですら、急に製品価格が低落したために赤字に転落するものが多く、六大紡の一つであった大阪合同紡は東洋紡と合併、良好な労使関係を誇っていた鐘紡も臨時給与をカット、未曾有の大ストライキが勃発した。他産業は推して知るべし、倒産も相次ぎ、失業者は29年以降、32年までに20万人増加し、50万人に達した。しかもこれは特定の工業地帯のみを対象とした調査で、その実態はもっと深刻であった。

 この不況に対して、財政支出による公共事業を拡大して失業者を吸収すべきだという要求に対し井上蔵相は、この種の政策の効果は一時的にすぎず、恒久的な成果を上げ得ないとしてこれを拒否した。そこで考えられたのが産業合理化運動であった。商工省のもとに産業合理化の旗振り役として「臨時産業合理局」が設置されたのは、1930年6月であった。重要産業統制法が制定され、政府の指定する重要産業(紡績、鉄鋼、セメント、製糖、製粉、製紙、カーバイトなど)に属する企業の二分の一以上が加盟してカルテルを結んだ場合、政府に届けること、その加盟企業の三分の二以上が申請した場合には、カルテル未加入のアウトサイダーのもその統制を及ぼすことができる、というものであった。この法律の制定によって、不況カルテルは以後続々と形成された。操業短縮や価格協定なども実施されたが、国際ダンピングの影響もあり一時混乱したが、なんとかカルテルの効果が挙がった。さらに個別企業では合理化が進められるとともに、新しい産業(人絹、自動車関係など)が秘かに発展した。

 昭和恐慌の展開につれて、日本の社会は次第に不安定になっていった。1932~33年にかけての急激な政治的・社会的変動は、やはり深刻な恐慌の下で準備され、実現したと中村隆英氏。浜口内閣は海軍軍縮の実現と金解禁を主要な政綱に掲げて、組閣後一年以内にこの二つを実現した。しかし、この一年の間に、ロンドン軍縮会議が「統帥権干犯問題」を発生させ、海軍部内の動揺を来し、条約派の良識ある幹部(山梨勝之進他)が現役を退かされ、一方金解禁準備のための緊縮政策、その後の世界恐慌の深刻化によってもたらされた昭和恐慌が、社会的不安をいっそう激しくさせた。
 また、野党政友会は、田中義一総裁の死後、引退していた犬養毅を総裁に戴いて、民政党内閣の批判を活発に展開、その際金解禁政策を批判して金輸出再禁止を叫ぶとともに、海軍艦隊派に同調して統帥権干犯論を展開したことは、両刃の剣であって、軍部の政治的進出を容認し、議会政治の墓穴を掘る結果となったと言われている。

 その第一の表れが1930年11月14日、浜口雄幸首相が東京駅駅頭で狙撃され重傷を負った事件であった。続いて、養蚕不況によって農家の生活が困窮したのを背景に農民運動が激化、後の血盟団事件や五・一五事件につながるような運動も次第に準備されつつあった。このような状況はすぐに表面化しなかったが、これに敏感に反応したのは陸軍の中堅幹部で、31年3月のいわゆる三月事件クーデタ未遂事件。参謀本部のロシア班長橋本欣五郎はトルコ駐在武官として現地にあって、ケマル・アタチュルクの独裁政治を見聞きし、手っ取り早く有効な国家改造の手段は、議会政治を打倒して、ケマルが実行したような軍部の独裁に移行することであると考えはじめるようになっていた。そのため、陸軍省参謀本部の中堅将校を組織して、自らが中心となって「桜会」を結成した。桜会は1930年に結成され、以後、国家改造についての議論を闘わせていたが、31年初頭から、橋本を中心に急進派が中心となって陸軍首脳部を抱き込み、大川周明のグループとも連携して、宇垣一成内閣結成を目標に、クーデターを実行しようとしたものだった。結局この事件は一切表面化することなく、何人も責任をとることなくもみ消された。