金解禁準備不況

2016年05月14日 | 歴史を尋ねる
 浜口内閣が成立した時、民政党はその政策として掲げて来た金本位への復帰の実施に踏み切り、大蔵大臣には党外から井上準之助が起用された。日本銀行出身で、横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁を長く務めた井上は、日銀先輩の高橋是清に信頼され、つねに経済界に波乱を起こさない方針をとって来た。財界の信用の厚い人物だった。金解禁についても、井上は時期尚早を主張し、入閣直前の昭和4年6月当時、今解禁するのは肺病患者にマラソンをさせるようなものと公言してはばからなかった。その井上が金解禁を意図する浜口内閣に入閣したことは、世間一般の意外とする所であった。中村隆英氏は当時の井上を忖度して、政治家への転身を決意し、この難事業を成功させることによって、将来の首相の地位をかちとりたいと考えていた。金解禁が避けられないとすれば、自分以外にはこれを成し遂げられる者はないという自負心を抱いていたのかもしれない、と。蔵相となった井上は、準備のない解禁は危険であるが、準備の上で実行するのなら金解禁にともなう不況を招く恐れはない、自分はその準備を行うと明言して、金解禁に向けて経済政策を大胆に変更した。その肝は高橋是清の回想にもあるように「現在の財界を匡正するためには緊縮政策によりいじめつけて金解禁をしなければならぬ」という一言であった。高橋がこの言葉を回想することは、そこに井上の危うさを感じたのではないか。

 井上の打った政策の一つは、横浜正金銀行に指示して、意識的に為替レートを旧平価に近づける方針を進めることであった。1929年第二四半期100円につき対米レート44.6ドルを、第三四半期46.5ドル、第四四半期48.5ドルと急激に上昇を続けた。井上はまた、日本銀行に内命して、金利を高めに誘導し、金融を引き締めるようさせた。その一方で、実行予算を組んで財政支出を約9000万円削減して、16億8000万円とした。削減の対象は主として公共投資であって、折から進められていた国会議事堂、警視庁などの建設工事をはじめ、鉄道の新設などは全面的に中断された。(昭和4年11月の高橋是清の談話:先だって、永田町を通ってみたら、帝国議事堂の鉄骨がガランとして青空の上に空立っている。そうして仕事は中途半端で停止せられ、構内は寂として山寺のようである。・・・これらはすでに取り掛かって、現に進行中の仕事である。これを止めるとか中止するとかいうには十分に事の軽重をはかり、国の経済の上から考えて決せねばならぬ。その性質をも考えず、天引き同様に中止する事は、あまりに急激で、そこに必ず無理が出てくる。その無理はすなわち、不景気と失業者となって現れ出ずるのである。)
 官吏の減俸も企図されたが、これは司法官や中堅官吏が反対運動をおこしたりして挫折を余儀なくされた。反対の先頭に立ったのは、商工事務官岸信介である。なお減俸政策は結局2年後の1931年に実現を見た。一方、井上は消費節約、国産品愛用、産業合理化を訴えて全国を遊説した。この傾向を見て国内の卸売物価は1929年後半に5ポイント方下落し、株価指数は10ポイント、綿糸相場は13ポイントの低下を示した。銀行、会社の増資・社債発行は同年第二四半期の四億円から第四四半期の8600万円に落ち込んだ。物価も低落の方向に向かい、29年後半には不況の色が濃くなった。この不況は世界恐慌の影響がまだ表面化しないうちのことで、いわば「金解禁準備不況」であったから、井上財政のもたらしたものとみることができる、と中村隆英氏は著書でコメントする。貿易赤字のもとで、むしろ円レートを切り上げて金本位に復帰しようという計画を実行に移すためには、思い切って国内需要を収縮して物価を引き下げ、輸入を削減し、輸出ドライブをかける以外には手段がない、と井上は考えていたに違いないと中村氏。うーむ、円高で輸出ドライブをかけるということか。現在の経済常識の逆さまを考えている。

 金本位への復帰につては、経済学者や経済ジャーナリズムの大勢は、伝統的な教科書通りの考え方に従って、一も二もなく金本位に復帰すべきだというのであったが、旧平価解禁に反対する新平価解禁論者が少数ながらあったことは、本ブログで既述済みでる。インフレーションが好ましくないが、デフレーションもまた好ましくない、物価水準は安定させるべきものであり、もし金本位に復帰するなら、現実のレートに見合うように円の金価値を切り下げるべきだというのであった。当時の重工業、化学工業等、国際競争力の弱い産業の経営者たちも、口にこそ出さないが同じ考えであったろうと中村氏。産業人としては当然だろう、井上はそういう意味では金融人だったのだろうか。高橋是清もこの時期の談話の中で、金解禁を行うために最も必要なことは、産業の国際競争力を強化して、国際収支の均衡を回復する事であり、その努力なしに金解禁を急ぐことは反対の意向を表明していた。鐘紡の社長であった武藤山治は、石橋の説を聴いて新平価解禁論に転向し、東京海上火災専務の各務健吉はダイアモンド誌に一文を載せて、金解禁による不況は三年ほど続き、社会不安を引き起こすだろうという見解を表明していた。しかし一般には、井上の金解禁政策はむしろ経済政策の正道であるという見解が支配的だった、と。当時の状況は「経済国難来ーその真相と対策http://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/e/8bd48059eb7ac6be4e7be89ffae473f1で詳細に記述した。そして高橋亀吉の回顧によると、金解禁後経済界の悪化は新平価解禁論者が過度の前途悲観論を流しているからだとして、非国民扱いにする非難が上がった。昭和5年1月、反駁を某誌に発表した内容は「・・・某大新聞(朝日新聞)までが、堂々と自己の所信を展開する代わりに、反動的にも悲観論者を非国民扱いすることによって、楽観論者の主張を維持せんとする卑怯極る態度をとりつつある。・・・株価は単なる悲観論によって下落するのではなく、下落すべき実質的原因があるからこそ下落するのである・・・」 ついには4月読売新聞に「財界攪乱陰謀の主導的人物摘発か、警視庁の係刑事総出勤して某方面に活動」という見出しをうって、著名なる経済評論家を籠絡して、新聞雑誌を通じて、金解禁悲観説を協調せしめ云々、と。ここで詳細に記述したのは、当時の世相を記録しておきたかったためだ。

 ところが、1929年10月24日、ニューヨーク株式市場の暴落をきっかけに世界恐慌が勃発した。アメリカの景気はその年の初夏をピークに反落に向かっていたが、金融の逼迫から株価の暴落が発生した。恐慌の発生で欧米の金利が低下して日本の資金の流出が抑えられるから、金解禁には好都合だと考えられていた。しかし、恐慌はたちまちヨーロッパに波及した。1928年以来、アメリカの株高が進むにつれて、アメリカの資金がヨーロッパから回収されていたから、ヨーロッパでは金融が逼迫し、不況の色が濃くなりかけていた。世界に物価はつるべ落としの惨状を呈し、貿易は急激に縮小した。このために、金解禁のための緊縮政策と海外からの不況とが重なって、日本の恐慌は異常な激しさを呈した。卸物価は1929年から31年までに三割以上、横浜の生糸相場は約半分、株価は三割の下落を示した。