昭和維新運動の源流

2016年05月28日 | 歴史を尋ねる
 前回「当時の社会が生み出した悲劇」という言葉を使ったが、ではそれぞれのテロ事件やクーデター、二・ニ六事件に至る昭和維新運動はいつ始まり、どのように展開して事件に至ったか、この欄では取り上げたい。筒井清忠氏によると大正中期に成立した老壮会・猶存社(ゆうぞんしゃ)こそ昭和維新運動の源流だという。老壮会が設立されたのは大正7年(1918)、設立の背景にあったのはこの年に起こった米騒動であった。この騒動での示威運動発生地点は368ヶ所で、軍隊約10万人が出動、逮捕者は数万人、起訴者約8000人。近代日本史上最大の民衆騒擾事件だった。この事件に触発され、強い危機意識を抱いた人々が集まったのが老壮会であった。中心人物の満川亀太郎は、「米騒動によって爆発したる社会不安と、講和外交の機に乗じたるデモクラシー思想の横溢とは、大正7年秋期より冬期にかけて、日本将来の運命を決定すべき一個の契機とさえ見られた。一つ誤てば国家を台無しにして終うかも知れないが、またこれを巧みに応用して行けば、国家改造の基調となり得るかも測り難い。そこで私共は三年前から清風亭に集って、時々研究に従事しつつあった三五会を拡大強化し、一個の有力なる思想交換機関を作ろうと考えた。かくして老壮会が出来上がった」と後に回顧している。第一回会合(大正7年10月9日)の満川挨拶は、「今や我国は内外全く行詰り、一歩を転ずれば国を滅ぼすに至るの非常重大時となっている。英米の勢力益々東洋に増大し民主的傾向世界に急潮をなして我国に衝突しつつある。また貧富の懸隔益々甚だ布く、階級闘争の大波打ち寄せつつあるが、これらは三千年来初めての大経験である。こうした中、要は如何にしてこの国の立つべき所を定むるかであり、五十年前土間に蓆を布き、あぐらをかきて国事を議したる維新志士の精神に立ち返りてこの会を進めて行きたいものなり」と。

 第一回参加者は、満川亀太郎・大川周明・佐藤鋼次郎(陸軍中将)・大井健太郎(自由民権運動家で大阪事件の首謀者)・嶋中雄三(中央公論社社長)らであったが、後に、高畠素之(マルクスの「資本論」の最初の翻訳者で国家社会主義者)・堺利彦(幸徳秋水とともに日本の社会主義の草分け的存在)・高尾平兵衛(アナキスト)・権藤成卿(農本主義者)・渥美勝(桃太郎主義を唱えた宗教者)・伊達準之助(大陸浪人)・鹿子木員信(日本人初のヒマラヤ登山家で国家主義哲学者)・中野正剛(東方持論社社長で後に衆議院議員)・平貞蔵(吉野作蔵門下生で東大新人会創立メンバー)・大類伸(西洋中世文化史学者)・草間八十雄(都市下層社会研究者)らが参加、多彩な顔触れであった。中でも中心的メンバーは満川亀太郎と大川周明で、この二人が中心となってインドの独立運動家リハビー・ボースらも加わり、大正4年(1915)頃に三五会というアジア問題についての時局研究会を始めており、これが老壮会につながった。

 満川亀太郎は明治21年大阪生まれ、小学生時代、三国干渉の物語にナショナリズムを燃え立たせ、中学時代、幸徳秋水の社会主義文献に接し、早稲田時代、幸徳秋水、宮崎滔天を愛読したが、日本の革命はどうしても錦旗を中心としたものでなければならぬと考えた。さらに、発禁本北一輝の「国体論及び純正社会主義」を熟読、大学中退後亜細亜義会に加盟、新聞・雑誌の記者・編集者を勤めた。インド独立運動家ボースと知りあい、大川周明を知ることとなった。貧民生活研究家などとも知りあい、ナショナリズムとアジア主義と社会主義が渾然一体となってその思想的核は形成されたと筒井氏。
 大川周明は明治19年山形県生まれ、明治32年庄内中学に入学、西郷隆盛「南洲翁遺訓」を愛読、折から、日清・日露戦争勝利で国家目標の喪失により明治末期の青年たちが陥った「煩悶」の時代を迎えつつあり、キリスト教や社会民主党に関心を抱いたりした。「週刊平民新聞」を購読、「自由、平等、博愛」というフランス革命のスローガンや「平民主義、社会主義、平和主義」の主張に魅かれ、また、堺利彦・幸徳秋水・安部磯雄らの演説も聞いている。東京帝国大学宗教学科を専攻、宗教団体日本協会に入会、卒業後も宗教研究を続け、翻訳にも力を注いだ。ヘンリー・コットンの著作でイギリスの植民地インドの現況に衝撃を受け、日印親善会に加わり、インドの独立運動に積極的に加担、アジア主義的運動のリーダー的存在となった。

 満川・大川ら昭和前期の代表的国家主義者となる人たちですら、幸徳らの社会主義の影響を強く受けているところにこの時代のこうした運動の特質が見られると筒井氏。それらの人々が中心となりつつ、多くに立場の人々が集まったのが老壮会の特色であった。会で取り扱われたテーマも「世界の民主的大勢」「英米勢力の増大」「普通選挙の可否」「社会主義」「貧民生活」「ロシア問題」「アメリカ問題」「世界革命論」「山東問題」「婦人問題」等多様で、大正11年(1922)までに44回開催し、会員総計約500人となった。しかし会のその特質がかえって会の性格を曖昧にしてしまったので、大正8年(1919)満川と大川が結成した猶存社であった。「今や天下非常の時、何時までも文筆を弄しているべき秋ではない。我等は兜に薫香をたきこめた古名将の如き覚悟を以て日本改造の巷に立たねばならぬ。慷慨の志猶存す」と。この運動が目的とする「国家改造の気運を整調指導して貰う」ためのリーダーが必要だと考えた満川は、その頃中国革命に挺身していた北一機を日本に迎えることを提唱、大川が上海に出向く。
 大正8年(1919)5月、山東半島問題をめぐる排日運動の嵐、五・四運動が吹き荒れ、6月「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書いた北は、それを満川に送っているが、それを投函して帰れる岩田冨美夫が雲霞怒涛の如き排日の群衆に包囲されている有様を背景に、北は断食をしながら「国家改造案原理大綱」の執筆を始めた。この著作の執筆中に大川が来訪したのであるが、その中には、「ベランダの下は見渡す限り故国日本を怒り憎しみて叫び狂う群衆の大怒涛、しかも眼前に見る排日運動の陣頭に立ちて指揮し鼓吹し叱咤している者が、悉く十年の涙恨血史を共にした刎頸の同士その人々である大矛盾、自分は支那革命に与れる生活を一擲して日本に帰る決意を固めた。十数年間に特に加速度的に腐敗堕落した本国をあのままにして置いては明らかに破滅、そうだ、日本に帰ろう。日本の魂のドン底から覆して日本自らの革命に当ろう」と書いていた。その著書は完成、秋に秘密頒布されたが、翌年出版法違反となるが、北は12月上海を発ち帰国した。

 国家改造案原理大綱を改題して「日本改造法案大綱」に改題、伏字化版を大正12年刊行。内容は、天皇を中心にしたクーデターを行い、特権的な身分制度を廃止し政治を民主化する、言論・集会・結社に自由を奪っていた諸法を廃止、財産・土地の私有制度に制限を加える、」労働者・農民・児童の地位向上や保護を行うというのであった。これら国内施策のかなりの部分は、社会民主党の「社会民主党宣言書」と共通の内容であるが、天皇を立ててそれを行う点は違っていた。
 それに対して対外政策は北の独創性が高い。北は、英露は大富豪・大地主と主張、国際間に於ける無産者の地位にある日本は、正義の名に於いて彼らの独占より奪取する開戦の権利なきか。インドの独立及び支那の保全を成し遂げ、新領土は異人種異民族の差別を撤廃し、豪州に印度人種支那民族を迎え、極東シベリアに支那朝鮮民族を迎えて先住の白人種とを統一し、東西文明の融合を支配し得る者地球上只一大日本帝国あるのみ、と。
 北においては、国内的平等主義と国際的平等主義は完全に結合し、日本のナショナリズムは、北と猶存社によって、明治時代の士族的な古い体質を持ったものから、新しい時代の青年知識人にも受け入れやすい平等主義と世界性を持ったものに大きく転換した、と筒井氏は解説する。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。