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南イタリアのギリシャ都市

2019-08-29 11:39:21 | 世界史

紀元前750年、現在のトスカナ地方にエトルリア人が12の都市を建設した。イタリアでは都市の形成が未発達であった中で、エトルリア人は12の都市を建設し、新しい文明を築いた。紀元前750年はローマ建国の年であるが、ローマは村にすぎなかった。(エトルリアについては、前回書いた。)

エトルリアの12都市に少し遅れ、ギリシャ人が南イタリアに多くの都市を建設し、7世紀にはエトルリアと並ぶ、イタリアの先進地帯となり、6-5世紀には経済財的にも文化的にもイタリアで最も繁栄した地域となった。6ー5世紀のイタリアはギリシャ人の時代であった。イタリアがローマ人の時代になるのは紀元前4世紀以後である。

 

 

エトルリアの12都市は、ほぼ同時に成立したが、ギリシャ人の都市は、紀元前740700年の間に少しずつ増えていった。そして、その後も紀元前5世紀末まで都市の建設が続いた。

  紀元前740年 クマエ(Cumae

     734年 ナクソス(Naxos)

     720年 シバリス(Sybaris)

     710年 クロトン(Croton

     706年 タレントゥム(Tarentum)

     540年 エレア(Elea)

     470年 ネアポリス(Neapolis

     443年 スッリ(Thurri)

     433年 ヘラクレア(Heraclea)

以上はイタリア半島のギリシャ植民市の成立年であり、代表的な都市だけである。このほかシチリア島にもギリシャ人の都市が建設された。

 

ギリシャに都市国家(ポリス)が成立したのは紀元前8世紀である。これらの都市の多くは海上交易を生業としており、早くからエーゲ海の島々、地中海・黒海の沿岸部に進出した。

 

 

 

ギリシャ人が最初にイタリアに来た場所はナポリ湾にあるイスキア島である。

 

 

ギリシャ人はこの島をピテクサエ(Pithecusae)と呼んだ。これは紀元前8世紀の半ばのことである。この時期のギリシャ人はすでに文字を所有していたが、彼らの歴史は始まったばかりであり、まだ発展段階は低かった。ミケーネ文明が1150年頃滅び、その後ギリシャ人が北方から移住してきたが、彼らは文字を持たなかったので、紀元前900年までのギリシャについては何もわからず、暗黒時代となっている。900年以後ギリシャ人は幾何学文様の土器を造るようになり、これがギリシャ文明の出発点となっている。ちょうどこのころイタリアではエトルリア人が、異様で独特な形の壺(つぼ)を造るようになり、エトルリア文明が始まっている。ギリシャ人の土器のほうが洗練されているが、ギリシャ文明とエトルリア文明の差はあまりない。エトルリア人は個性的で芸術的な素質があったが、ローマに吸収され、歴史から消えていった。

エトルリア文明とギリシャ文明の出発時期は同じだったが、ギリシャ文明が優位になって行った理由は2つある。ひとつは、ギリシャ人のほうが海上貿易に熱心であり、それによって富を蓄積したことである。ギリシャ本土は耕地が少なく、ギリシャ人は海上貿易によって生きるしかなかった。エトルリア人の港湾都市が貿易戦争に敗れそうになったとき、内陸部の都市はこれを見捨てた。イタリアの内陸部にはポー平原など、豊かな地方があり、エトルリア人は海上貿易に頼らなくても生きていけた。しかし海上貿易は利益が多く、これを失うことにより、エトルリア人はさらなる発展の機会を失った。

また文化の面でも、ギリシャ人はエトルリア人より優位になった。アテネなど一部のギリシャ都市は、紀元前1150年に滅んだミケーネ文明とある程度継続性があり、過去の文明の遺産がわずかに残っていた。エトルリアは急に独自の進歩をしたが、文字を所有していなかった。彼らはギリシャ人から文字を学んだ。

とは言え、ギリシャ人自身が少し前、フェニキア人から文字を学んだばかりであった。ギリシャ人は紀元前800年代末に文字を使用するようになったが、初期の文字はわずかしか発見されておらず、ギリシャ人は文字の必要を感じていなかったようだ。「イーリアス」が書かれたのは紀元前6世紀後半である。

 

      《イスキア島》

イタリア半島では、750年エトルリアに12の都市が成立していたが、ギリシャ人はその少し前にイスキア島に来た。イスキア島は重要な交易拠点だったが、支配秩序が存在しておらず、イスキア島は市場でしかなく、都市国家ではなかった。イスキア島は孤島で安全であったが、耕地がなく、住める人口に制限があり、正式な統治機構を必要としなかった。イスキア島のギリシャ人は740年、クマエ(Cumae)に都市国家を建設した。これがイタリアにおける最初のギリシャ人の都市(ポリス)となった。

イスキア島に来たギリシャ人はエウボイア島のエレトリア(Eretria )とカルキス(Chalcis)の出身である。

 

  

 

彼らはイスキア島に市場を開設し、エトルリアと交易を始めた。

イスキア島には良港があり、海賊に対し安全な場所だったので、ギリシャ人のほかにエトルリア人とフェニキア人も一緒に住んでいた。彼らはイタリア本土と鉄などを売買し、繁栄した。紀元前700年、イスキア島の人口は500010000だった。支配秩序が未発達であるが、イスキア島は交易で繁栄しており、ギリシャ世界で先進的な場所だった。この島で発見された壺(つぼ)などの交易品は、紀元前8世紀半ばの地中海交易の様子を知る手がかりを与えてくれる。当時イスキア島は重要な交易センターとなっており、エーゲ海、シリア、エジプトの物品が集まっていた。

また最初期のギリシャ文字がイスキア島で発見されており、イタリアに文字が最初に持ち込まれたのである。この時期はギリシャ本土がまだ黎明(れいめい)期であり、ギリシャ人はようやく文字を知ったばかりだった。ギリシャ文字は紀元前9世紀末に考案されたが、最初期のアルファベットは発見数が少なく、イスキア島での発見は貴重である。最初期のアルファベットは後のアルファベットと少し違っており、少しずつ改良され、古典期に完成された。

1953年イスキア島で古代の墓が発見され、埋葬品はワインを入れるためのカップと25個の壺(つぼ)があった。壺はどれも壊れていたが、ワイン・カップは壊れ方がやや軽微だった。

人間が死ぬと、壺も破壊され、死体と一緒に火葬された。火葬の火を消すためにワインがかけられた。ワイン・カップはその時用いられたのであり、壺とワイン・カップの用途が違っていた。

=========《ネストールのカップ》======

 Nestor's Cup (Pithekoussai)

             wikipedia 

    

1953年ピテクサエ(イスキア島)の墓地で幾何学文様のカップが発見された。墓は紀元前700年の少し前のものであるが、カップは8世紀ロドス島で造られたもので、イスキア島に輸出された。

派遣された墓は1014歳の子供の墓であり、カップのほかに壊れた25個の壺(つぼ)と銀製のフィブラ(衣服を留めるピン)が納められていた。遺体は別の場所で焼かれた。埋葬品は破壊され、遺体と同じ火で焼かれた。これは儀式だった。

カップの表面には3行の詩が書かれていた。これは壺の作製時にはなかったもので、ピテクサエ(イスキア島)のギリシャ人が後から(8世紀末)、刻んだものである。

「これはネストールのカップである。このカップでワインを飲む者は美しいアフロデティーに対する恋情を抑えられられなくなるだろう」。

ネストールのカップとは、ホメロスのイーリアスの中で、ネストールが愛用していたカップに違いない。

8世紀末、ピテクサエ(イスキア島)のギリシャ人が3行詩を刻んだ時、「イーリアス」は文字で書かれていない。ホメロスは紀元前8世紀半ばの吟遊詩人であり、彼は「イーリアス」を歌ったのであり、書いたのではない。現在知られている「イーリアス」は6世紀後半に文字にされたのである。それ以前の書かれた「イーリアス」は発見されていない。

ピテクサエのカップの3行詩は8世紀末「「イーリアス」が存在していたことを示唆している。

 

==============(wikipediaの訳終了)


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