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エトルリア

2019-07-31 07:20:07 | 世界史

フィレンツェを中心とするトスカナ地方において、ルネッサンスの文化が花開いた。偶然か、理由があるのかわからないが、先史時代のイタリアにおいて、この地域が最初に青銅器時代から鉄器時代へ移行した(紀元前900年)。紀元前7世紀には文字が使用されるようになり、洗練された文化が花開いた。この地域に住んでいたのははエトルリア人である。彼らはイタリアの他の地域にさきがけて、先史時代から歴史時代へ移行した。ローマは宗教・文化・技術を彼らから受け継いだ。ローマ人は道路、橋、建物の建造に優れていたが、彼らはこれらの技術を最初エトルリア人から学び、さらに発展させたのである。

エトルリア諸都市の宗教と言語は同一だったが、彼らは単一の国家を形成することはなく、ゆるやかな連合を形成し、軍事など重要な問題で協力した。紀元前4世紀以後、ローマに近い都市から順に、エトルリア諸都市はローマに併合されていったが、エトルリアの文化は紀元前1世紀まで続いた。紀元後1世紀になっても、ローマ人はエトルリアの文化に関心を示しており、第4代皇帝クラウディウス(在位:紀元後41年ー54年)はエトルリアの歴史を書いている。時がたつにつれ、ローマ人はエトルリアのことを忘れ、クラウディウス帝の「エトルリア史」も失われた。19世紀以後の考古学的発見により、エトルリアの文化の独自性が注目されるようになった。

初期のローマについて理解するためには、エトルリアについてある程度知らねばならない。ローマは紀元前753年に建設されたことになっているが、その年にはエトルリア諸都市の発展が確認されているが、ローマが誕生したというのは伝説であり、仮に事実であったとしても、ローマは小さな村に過ぎなかった。イタリア史の観点からすれば、ローマの最初の王ロムルスから5代目の王までの時代、続く共和制初期の時代は無視してもよいのであり、この時期はエトルリアの時代であり、エトルリアについて語るべきなのである。

エトルリアは次の4つの時代に区分される。

①原初期 紀元前900年ー675

 この時期の中頃の紀元前750年に都市が発展し、紀元前700年頃に文字が使用されるようになった。

②東方の影響を受けた時期  紀元前675年ー575

  ギリシャやフェニキアなど、海洋民族がエトルリア産の鉱物を求めて交易が盛んになった。また海洋民族はアルプス以北の物品にも興味を示し、エトルリアは中継貿易により栄えた。エトルリアは海洋民族から、美術品・工芸品を輸入し、これがエトルリア文化が生まれる基礎となった。

③前古典期  紀元前575年–480年

 エトルリアはさらに繁栄し、寺院が建築され、フレスコ画が描かれた。エトルリアとギリシャの交易は増大したが、どちらも影響圏を拡大しようとして対立した。フェニキアの文化的影響がなくなり、ギリシャ文化の影響が強まった。

④古典期  紀元前480年–300 年

経済的にも文化的にも、エトルリアの全盛時代となった。しかしローマに近い都市のいくつかが、ローマに併合された。

⑤末期  紀元前300年–50年

エトルリア諸都市はローマに併合された。独自の建築、工芸品、美術品の数が減少し、しばしばローマの建築、工芸品、美術品と区別がつかなくなった。

 

    《原初期 紀元前900年ー675年》

これまでエトルリアの生活文化はイタリアの他地域と同様であったが、紀元前900年以後独自の進歩を示した。冒頭で書いたように、他地域に先駆けて鉄器の使用も始まった。この時期はイタリアの先史時代であり、1850年の発見に始まり、その後の考古学的調査によってこの時代が知られるようになった。1850年ボローニャの南東20kmの村で、古代の墓地が発見された。遺骨を納めた骨ツボが独特の形をしていた。

続いて1893年アドリア海を望むリミニの近くの村で、埋葬地が発見され、遺骨が納めらた骨ツボはボローニャで発見されたものと似ていた。その後トスカナでも同様な発見が続き、これらが新しい文化であるとわかった。

     

これらの骨ツボは形が独特なだけなく、素材の粘土に石やシリコン(ケイ素)が混じっていた。最初に発見された村の名前にちなみ、この文化はヴィッラノーバ(Villanova)文化と名付けられた。ヴィッラノーバ文化以前の墓はどれも同じようなものであり、平等な社会を示していたが、ヴィッラノーバでは2種類の墓が発見された。発見された193の墓のうち、6つは他と区別された場所にあり、墓の造りと埋葬品が豪華であった。これは平民と指導者の分離が起きたことを示している。

       

その後骨ツボだけでなく、素焼きの粘土製の容器や、青銅の兜や馬具も発見された。これらは精巧にできており、製作者の技術の高さを示していた。

紀元前750年にはエトルリアに12の都市が存在した。

          

 

また紀元前700年頃からエトルリア人は文字を使用し始めた。ギリシャ文字で書かれているが、エトルリア語であるため、解読はあまり進んでいない。短い文章が刻まれた金属の板や石板などが1万3千枚発見されている。紀元前700年頃の碑文の写真はネットにないが、紀元前500年頃の、フェニキアとの条約文が英文ウィキペデイアに掲載されている。3枚の薄い金の板に、エトルリア語とフェニキア語で条約文が書かれている。

    

 現存するエトルリア語の碑文の数は多いが、すべて短く、46行からなる文章が最長であり、ペルージャ近郊で発見されている。

     

エトルリア人が短い文しか書かなかったわけではなく、長い文章は失われたのである。エトルリアには多くの書物が存在した。ローマの歴史家(リヴィウス)と著述家(キケロ)によれば、「エトルリア語で書かれた、宗教的な儀式に関する数巻の書物が存在した」。この宗教書の第4巻にはエトルリア人の生活が書かれていたという。第4巻は歴史書の側面を持っていたのであり、失われたのは残念である。またリヴィウスは次のように書いている。

「紀元前310年には、ローマの子供はエトルリア語を学んでいたが、その後ギリシャ語を学ぶようになった」。

 

  《東方の影響を受けた時期 紀元前675年ー575年》

紀元前675年以後フェニキアやギリシャとの交易が活発になり、エトルリア人は高度な地中海文明と接した。エトルリア人はギリシャ、エジプト、近東の美術品を輸入するようになった。特にギリシャからの輸入が多かった。ギリシャの職人がエトルリアに移住してきたので、エトルリア人は彼らから制作技術を学んだ。そしてエトルリア人は動物を描いたり、形にした。

  

外国との交易により、上流階級は豊かになり、彼らの墓所に貴重な品物を納めた。

エトルリアの職人は壺(つぼ)の製作にろくろを使用するようになり、独自の様式のツボを生産するようになった。

     

    《前古典期  紀元前575年–480年》

エトルリアの繁栄は続き、ギリシャの文化的影響が強まり、エジプトや近東の影響は少なくなった。寺院が建てられるようになり、屋根や壁はテラコッタ(素焼き粘土)で装飾された。テラコッタは明るい色で彩色された。人間や動物の姿が描かれたり、形作られるようになった。エトルリア人は熱心にギリシャ神話を取り入れた。紀元前546年ペルシャがイオニア地方を征服すると、多くのギリシャ人芸術家がエトルリアに避難してきた。ギリシャ人芸術家の影響により、エトルリアの文化は洗練されていった。繊細で独自なエトルリア美術が生まれ、墓所の壁にはフレスコ画が描かれた。この時期のフレスコ画はエトルリア文明を象徴するものとなっている。

 

 

 

     《古典期  紀元前480年–300 年》

この時期の初期、エトルリアの繁栄は頂点に達したが、その後衰退が始まり、繁栄の中心はトスカナからポー川流域に移動した。トスカナが本来のエトルリアであり、ポー川流域はエトルリアの影響圏である。

トスカナが徐々に衰退に向かったとはいえ、ブルチ(Vulci)の青銅品はイタリアで人気があり、外国にも輸出された。

この時期の中頃から、ローマに近い都市は、ローマの支配下に入った。例えば、ヴェイイ(Veii)は紀元前396年にローマによって征服された。

 

    《末期  紀元前300年–50年》

エトルリアのすべての都市がローマの支配下に入った。エトルリア美術はますますギリシャ的なものになった。エトルリアの職人はギリシャの古典美術に習熟し、写実的で繊細な作品を制作するようになった。エトルリア美術はギリシャ美術の模倣に終わらず、高い芸術性を獲得した。たとえばトスカナのキウジ(Ciusi)近郊の墓室に収められていた、テラコッタ製の女性像は造形美術の傑作である。


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