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(コバニ戦) クルドの援軍がスルチに到着 10月29日

2015-12-25 20:53:32 | シリア内戦

10月29日の早朝、トルコのクルド軍(ペシュメルガ)が重装備と共にスルチに到着した。クルド軍が待ち望んだ援軍と重火器であった。

        

米空軍の爆撃にもかかわらず、ISISはコバニ攻略をあきらめる様子はない。ISISが最初にコバニを攻撃したのは9月13日であり、1か月半、休みなく戦闘が続いている。数週間におよぶ空爆により、ISISは数百人の兵士を失ったが、コバニの包囲を解こうとはしない。今回のペシュメルガと重火器の到着により、流れが変わると期待されている。 

スルチでは、数千人が並木道を埋め、ペシュメルガの到着を迎えた。コバニからの避難民は「ペシュメルガがISISを追い出してくれること願っている。そうすれば家に帰れる」とかたった。コバニを追われた20万のクルド人が、テレビに映るペシュメルガをを見て、歓迎した。100人の将兵が前夜シャンルウルファに到着していた。重装備は陸路で、人員は飛行機で来た。空港からは、トルコ軍が護衛した。シャンルウルファはスルチに近く、歴史ある古都であり、シャンルウルファ県の中心都市である。コバニに近いスルチはシャンルウルファ県にある。ジャーナリストはスルチに宿泊し、国境のムルシトピナルに出向き、コバニの戦闘を撮影した。

      

 クルドのテレビ局が、武器を積んだ護送車列を放映した。トラックは北イラクからトルコに入り、シャンルウルファに向かった。そしてスルチを経てコバニに入る予定である。トラックの積み荷は、重砲と対戦車砲と装甲を貫通する重砲と言われている。小銃だけで戦っているクルド部隊が、これらの重火器を手に入れるなら、戦いの様相は一変する。これまで、ISISの戦車と装甲車に対し、なす術がなかった。これからは、戦車を破壊できる。

イラク・クルド自治政府のペシュメルガ担当大臣は、「ペシュメルガ部隊は無期限にコバニに留まる」と語った。「彼らは砲撃によってYPGを援護する」。

ISISは「コバニの奴らを皆殺しにしてやる」と公言しており、クルド側は危機感を抱いている。ISISの脅威に加え、最近ではヌスラ戦線も、穏健な反政府軍の支配地を奪い、領土を拡大している。

1000万人のシリア国民が難民となった。死者の数はまだ20数万とはいえ、シリア内戦は終わりが見えない。 

        <歴史ある都市シャンルウルファ>

シャンルウルファは、ガズィアンテプと共にシリアに近い大都市である。

   

「トルコ紀行2012」の著者が、ガズィアンテプから車でシャンルウルファに向かった。一部抜粋する。

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「東へと走った。緩やかな丘陵を暫く行くと川があった。ユーフラテス川だそうだ。この目で見られて感激だ」。

            

 「ガジアンテップとシャンルウルファの間の丘陵には麦畑の他に、ザクロとかピスタチオなどの林も見かける。どうやらシャンルウルファに近くなったようだ」。

     

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 スルチはコバニ戦によって有名になったが、シャンルウルファは昔からよく知られた都市であり、遺跡や名所が多い。古代・中世においてはエデッサと呼ばれた。

        

        《セレウコス朝の都市エデッサ》 

アレクサンダー大王の後継者であり、セレウコス朝の創始者セレウコス1世は紀元前303年、軍事植民都市をこの地に築き、ギリシャ人と東方の民族を混住させ、マケドニア王国の古都エデッサを記念して「エデッサ」と名付けた。 

        《エデッサ王国とキリスト教》

 セレウコス朝が滅亡し、紀元前132年、地方政権「エデッサ王国」が成立した。エデッサ王はイエスの存命中に改宗し、最初にキリスト教徒となった王であるという伝説がある。それは疑わしいが、キリストの死の直後ダマスカスに信徒団が成立しており、エデッサへの伝播が早い時期だったことは疑いない。パウロの活動の拠点だったアンチオキアからも近い。パウロ自身は地中海沿岸に布教したので、内陸のエデッサには来なかった。「エデッサ人への手紙」は存在しない。

          《独立を保ったエデッサ王国》

西のローマ帝国、東のパルチア帝国という2大帝国のはざまで、エデッサ王国は緩衝地帯となり、かろうじて独立を保った。 紀元68年の属州シリアに、エデッサ王国は含まれていない。   

    

しかし212年、ローマはエデッサとパルチアとの同盟を疑い、エデッサ王国を属州に組み入れた。

属州シリアの北部は現在トルコ領になっている。アンチオキアとエデッサは現在トルコ領である。

 2世紀のエデッサで、有名なシリア語訳聖書が誕生した。この時期エデッサの神学者は、聖歌の始まりにおいて重要な役割を果たした。続いて2世紀後半、グノーシス派の「トマスによる福音書」がエデッサで成立したといわれる。

3世紀半ばから4世紀初頭、デキウス帝やディオクレティアヌス帝の時代、キリスト教が弾圧され、多くのキリスト教徒がエデッサで殉教した。コンスタンチヌス帝は一転してキリスト教を保護した。325年の第1回ニカイア公会議に、エデッサ主教も出席した。

シリア語圏の中心都市エデッサには、様々な神学者が集まり、グノーシス派など無数の教派が乱立した。5世紀半ば、エデッサのネストリウス派は絶頂に達した。

       ≪東ローマ帝国時代≫

東ローマ帝国時代、エデッサにはオスロエネ府主教区があり、11の付属主教区が置かれた。11世紀以後はこれらコンスタンチノープルの正教会の主教管轄区は消滅した。東ローマの府主教区が置かれたにもかかわらず、異端のシリア正教会は残存した。シリア正教会はオスマン時代にも生き残り、1914年、ウルファ(エデッサ)には、5000人のシリア正教会の信者が住んでいた。同年ウルファの住民はトルコ人が最も多く45000人であり、次いでアルメニア人25000人だった。 

 シリア正教会はアッシリア東方教会に属する。アッシリア東方教会が分派=異端となったのは、451年である。コンスタンチノープルの正教会がローマ・カトリック教会から分裂したのは、11世紀である。   

         《イスラム帝国の時代》

イスラム帝国は戦いを交えずこの地方を征服し、エデッサはウマイヤ朝やアッバース朝に支配された。ローマ時代のウルファ城の円柱と、アッバース朝時代の城壁が現在も残っている。

              

            《十字軍の時代》 

第1回十字軍の際、ブーローニュのボードゥワンが、1098年、十字軍国家・エデッサ伯国を成立させた。ボードゥワンはアルメニア人領主のソロスに歓迎されてエデッサに入城したが、後にこれを退けたのである。 

第1回十字軍以後、エルサレム王国と他3つのキリスト教国家が成立した。エデッサ伯国とアンチオキア公国・トリポリ公国である。

                         

 1144年、アレッポの領主ザンギーは、エデッサ伯国の都を陥落させた。十字軍国家に勝利したザンギーは、イスラム世界の英雄として称えられたが、1146年に奴隷に殺されてしまった。

 ザンギーの二男ヌールッディーンは父に匹敵する武勇を見せた。エデッサ伯国は都を奪回していたので、彼はさっそくエデッサの都を落とした。1149年には十字軍国家アンティオキア公国の公爵レーモン・ド・ポワティエを戦死させた。1150年にはユーフラテス川の西に残っていたエデッサ伯国を滅ぼし、伯爵ジョスラン2世を捕らえた。

 ザンギー父子は対十字軍戦争で華々しい活躍をした。サラディンがこれを受け継ぎ、エルサレム王国を滅ぼした。サラディンが没した1193年には、エルサレレム王国とエデッサ伯国は地図から消えている。

        

 地中海から接近でき、援助が可能な二つの十字軍国家が残っている。アンチオキア公国とトリポリ伯国である。キリキア・アルメニア公国は十字軍国家ではない。キリスト教徒のアルメニア人が十字軍の遠征に乗じて建設した国である。

            <ザンギー朝>

ザンギー父子は、サラディンに負けない英雄だった。父ザンギーは武勲により、アレッポとモスルを中心とする広大な領土の支配権をカリフから認められた。

     

 サラディンは、アレッポの領主ヌールッディーン・ザンギーの家臣であり、ダマスカスの統治を任されていた。エジプトに内紛があり、解決に手を貸したサラディンはエジプトの宰相にとりたてられた。ヌールッディーン・ザンギーは、臣下のサラディンが大国エジプトの宰相になったことに衝撃を受けた。サラディンが臣従を拒否し、独立すれば、ダマスカスが失われる。しかしサラディンはダマスカスの支配権をヌールッディーンと争わなかった。 

           <アイユーブ朝>

ファティマ朝のカリフが死ぬと、サラディンはエジプトの支配者になった。これによりファティマ朝が滅び、サラディンのアイユーブ朝が成立した。アイユーブはサラディンの苗字である。

             

 サラディンは、アッバース朝のカリフを正統とし、エジプトのカリフ制を廃止した。自らをバグダードのカリフに仕えるスルタン(宰相)と称した。またファティマ朝のシーア派の教えを異端とし、カリフ・ハーキムが建設した図書館に収蔵されていた書物を売却した。

       ≪アイユーブ朝時代のエデッサ≫

1211年に、かつてのキリスト教会の聖堂を再利用しハリル=ウル=ラフマン(Halil-ur-Rahman)・モスクが建設された。モスクの中庭に、聖なる魚の池バルックル・ギョル(Balikligöl)がある。池の周りは庭園に囲まれている。 

 

               

この池について、アブラハムがニムロド王により火の中に投げられたが、火が水に変わったという言い伝えがある。大勢の魚が観光客の投げるえさに殺到しているが、白い魚を見たものは天国に行けるという言い伝えもある。

 オスマン時代には、メヴリディハリルモスクが建てられた。

                  

シャンルウルファ関連の日本語版ウイキペディアは充実している。「トルコ紀行2012」には、多くの美しい写真がある。

(参考)


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