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2004年のハサカとアフリン

2015-10-02 23:34:52 | シリア内戦

         

シリアのクルド人は西クルドと呼ばれる。イラクのクルド人は南クルドである。トルコのクルド人から見て、両地域はともに南にあるが、イラクのクルド地域は、より南にある。シリアのクルド地域から見て、イラクのクルド地域は南東にある。

2014年の秋と冬、シリアのコバニのクルド人住民の多くが難民となった。「彼らは、「北や南に行った」と言われる。北はトルコのクルド地域であり、南はイラクのクルド地域である。

内戦以前、シリアのクルド人の人口は2百万人であり、シリア全人口の約10%にすぎない。居住地も、シリアの北端のわずかな地域であり、3つの地域に分断されている。

               ロジャバ3州

       

しかしハサカ県には油田があり、シリアの数少ない資源地帯となっている。

石油と天然ガスの産出はハサカ県に集中しており、他にデリゾール県でも産出する。

ISISはハサカ県の南部を支配しており、ハサカ県の石油・ガスの半分を得ている。デリゾール県の石油・ガスもISISの支配下にある。

     

 

   

    

     <2004年、ハサカ県のクルド>

2004年、アサド政権に対する暴動がクルド地域で続発し、ハサカ県は緊迫した状況となった。

カミシュリでのサッカーの試合で、喧嘩が起き、それがクルドの暴動に発展した。

地元のクルドのチームと隣のデリゾール県のアラブのチームの対抗試合が白熱し、アラブ側のファンがサダム・フセインの肖像画を掲げた。

サダムはイランとの戦争の末期、1988年に、イラクのハラブジャでクルド人数万人を毒ガスで殺した。クルドが裏切り、敵イランを利する行為を行ったとサダムは疑ったのである。クルド人が虐殺された3月16日は、クルド人にとって追悼の日となっている。

クルド人が悲しみの日としている虐殺について、アラブ人があてこすったのは、度を過ぎた野次だった。

隣県デリゾールのアラブ人に対するクルドの怒りに端を発し、クルド対アラブの暴力的な抗争が始まった。クルド人の怒りは統治の責任者である政府にも向けられ、クルド人は反政府デモを行った。彼らはクルドの国旗を掲げ、政治的・文化的権利を要求した。

        

 

シリア政府は、反政府的な動きは国家の分裂につながると考えており、過敏に反応する。クルドのデモを厳しく弾圧した。

クルド対アラブの暴力事件とデモの鎮圧で30人が死亡した。死者は100人だとする説もある。

以後数年間、デモ隊と治安部隊の衝突が起きた。

クルド人の反政府感情はこの時生まれたのではなく、長い歴史がある。政府はクルド人の存在を公式に認めていない。

1962年多くのクルド人が市民権をはく奪され、外国人として登録された。1920年のオスマン帝国の住民登録に、彼らの先祖が登録されていないからである。

クルドの言語と文化は抑圧された。

2011年、政府はすべてのクルド人に市民権を与え、クルドの不満をなだめようと試みた。しかし外国人とされている5万人のうち、市民権を得たのはわずか6千人だけだった。

またクルドに対する諸規制は廃止されなかった。クルド語を教えることは禁じられたままである。

(参考)Rojava Revolution wikipedia

 

     <アフリン自治州>

アフリンは2014年に成立したクルド自治州を構成する3州のひとつである。(最初の地図参照)

アフリンはアレッポに近く、アレッポ県に所属する地区であった。2014年に成立したロジャバ州のひとつで、西端に孤立している。

      

アレッポとその周辺には反政府軍の大勢力が存在している。トルコのキリスには、彼らを支える支援基地がある。キリスとアレッポを結ぶ地帯は反政府軍にとって生命線である。その生命線を脅かす位置に、アフリンが位置している。

反政府軍の心臓部に、クルド自治州が割り込む形になっている。 

     

        <2004年のアフリン>

2004年にシリア北部の各都市で反政府暴動広がった。一連の暴動で、治安機関や行政施設も次々と焼き討ちされた。シリア政府は「テロ集団の破壊活動」とした。アフリンのクルド人の反政府運動について、アジアプレスが現地取材した。

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アレッポの近郊に位置するアフリンは、中東でも名高いオリーブの産地だ。濃緑色のオリーブ畑が一面に広がる丘のふもとには、クルド人とアラブ人の村々が隣り合わせに並ぶ。

      

秘密警察ムハバラットに見つからないよう、日が落ちてから移動して、取材をすすめた。暗い路地を抜け、さびた鉄門を開け、あるクルド人家族のもとを訪れた。

この町では昨年(2004年)3月、ふたりの若者が治安部隊によって殺害された。

フセイン政権の毒ガス攻撃でクルド人が虐殺された3月16日は、クルド人は追悼の日として心に刻んでいる。シリアのクルド人も「ハラプジャの日」として各地で集まりをもってきた。地元治安当局は、「非合法集会」として集まりを禁止したが、路上に集まった若者たちはシリア政府を批判するスローガンを叫びだした。

「フセインは去った!つぎはアサドだ!」

            

裁縫店で働くジェラール君(当時17歳)は、友人たちと行進に参加した。彼は、胸に治安部隊の自動小銃の銃弾を受け、運び込まれた病院で死亡した。

事件の調査はおこなわれず、家族は当局を恐れ、声をあげることができないという。

 (出典) つぎはアサドだ」シリア・クルド人の苦悩(3)

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      <アフリンの歴史>

アフリン地区はアレッポ県に所属し、2004年の人口は、17万である。地区の中心となる町アフリンには3万6千人が住んでいる。アフリンという名前は、ここを流れるアフリン川に由来する。

      

町の南5kmのところに、新ヒッタイト王国の遺跡がある。ローマ時代、属州シリアの一部だった。637年アラブ領になった。

アフリンは十字軍時代、アンチオキア公国の支配下に入ったが、モンゴルの襲来により、1260年以後、再びイスラムの支配に戻った。

オスマン帝国時代、アフリンはキリス県の一部だった。

アフリン渓谷は、クルド地方から離れれているが、18世紀には、クルド人が住んでいた。人口の少ない村だった。19世紀に市場ができ、町になった。

 

     <キリスから切り離されたアフリン>

1923年、トルコとシリアを隔てる国境線が引かれ、アフリンはキリスから切り離された。、アフリンはフランス統治下のシリアに組み込まれた。

1929年、アフリンには500人しか住んでいなかったが、フランス統治時代に、バスの停留所を中心に町は発展した。1967年、アフリンの人口は7000人になった。

1939年、トルコがハタイ県を併合した。アフリンの西側はトルコ領になってしまった。(地図参照)


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