探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

8月秋田調査

2010-09-29 08:41:18 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
8月はいろいろ調査に行ってきたのですがあまり写真の整理がついておらず、
なかなか投稿出来ておりませんでした。
申し訳ありません。

8月の中旬(15日~18日)に秋田へ調査に行ってきました。
ここは、江戸時代秋田藩20万石佐竹氏の城下町があった場所です。
佐竹氏はもともと源氏一族で新羅三郎義光の子孫です。
秋田県の日本海側南部には、岩城氏や六郷氏が配されていましたが岩城氏は佐竹氏の
一族であるためほぼ出羽国半分が佐竹氏の領地でした。
出羽のもっと南部に行くと庄内藩酒井氏などの領地もありました。
今回は、佐竹氏を研究している友人とともに佐竹氏・家老・家臣団などのお墓調査してきました。



まず天徳寺です。
このお寺は佐竹氏の菩提寺として創建されたお寺で本堂左に歴代の霊屋があります。
入口正面にあるのが初代佐竹義宣と2代義隆、3代義処が埋葬された霊屋です。
その右脇に歴代が並んでいます。
上の写真は、平成になってから改葬された東京板橋区総泉寺から改葬された合祀墓です。
埋葬者の記などは存在しませんでしたが最後の藩主佐竹嘉堯以降義栄以降が本葬されているようです。
一般墓地にも家臣の墓も多く須田家や大部家、小野崎家、塩谷家、県知事を務めた小畑勇二郎、秋田市長を務めた御代弦のお墓もあります。

   

その他は書くと長くなるので列挙のみにいたします。しかしあまり秋田における掃苔情報はあまりに少ないため今後調査に行く際に活用して頂けると嬉しいです。
ちなみに上記の写真は、左から佐竹義雄男爵(南家)、佐竹北家墓地、岩崎藩佐竹家、佐竹義子爵の墓です。
ちなみに訪ねた地は角館・横手・秋田市内・湯沢です。

角館
天寧寺
蘆名家墓地・真壁家・青柳家・河原田家・富木謙二
松庵寺
吉成家・小田野直武・茅根家・西宮家・石黒家
本明寺
佐藤義亮
学法寺
平福百穂・平福穂庵・宇留野家・二階堂家菩提寺(しかし見つからず)
常光院
佐竹北家・浜田謹吾ほか戊辰戦争戦死者
曹渓寺
佐竹北家

横手
龍昌院
戸村家・官修墓地
天仙寺
須田家・岩瀬御台・二階堂家・介川家・大部家

湯沢
清涼寺
佐竹南家・早川家・上遠野家・高畑家(会津藩士)

秋田市内
満蔵寺
岩崎藩主佐竹家
白馬寺
佐竹東家
テン信寺(テンは門がまえに眞)
佐竹義重・佐竹家子女・小野崎家・梅津家・船木家
鱗勝院
国安家・寺崎家・宇留野家・今宮家・梅津家・中安家・佐竹義重側室・佐竹義直正室・佐藤家
平田篤胤墓所
平田篤胤・正洞院
全良寺
官修墓地・介川家・竹貫三郎・渋江家・楠家・小野崎家(小野崎通亮あり)

その他寺院名を失敬しましたが疋田家・小貫家・岡本家・国鉄総裁長崎惣之助・梅津家・町田忠治・佐藤家などに行きました。

まだ大館にある佐竹西家の墓地に行けていないのでそちらも後に参りたいと思っています。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カトケンさんの講演会

2010-09-28 23:13:47 | 会員の調査報告
会員のカワチです。
先週の土曜日、土佐史談会関東支部第九回例会に参加してきました。



探墓巡礼顕彰会の仲間、カトケンこと加藤健太郎さんの講演「吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの~小田村素太郎(楫取素彦)を通して」が目的です。

土佐史談会会員の方々以外にも、釣先生ご夫妻や、加藤さんと親交のある「幕末酒場・新選組屯所」常連の方々など、合計30人近い方が出席し、会場は満員でした。
講演では同時代の資料や小田村の和歌などが多数紹介され、薩長同盟の知られざる立役者と言える小田村について知ることができました。
小田村素太郎について私はほとんど知りませんでしたが、派手ではなくても素晴らしい人物であることがわかりました。
配布した資料に参考文献を明記してくれていたのも良かったです。

加藤さんは土佐藩だけでなく幕臣や水戸藩なども調査されています。
これからも今回の小田村素太郎のように、知られざる偉人について調査し、発表していただきたいと思いました。
お互いにがんばりましょう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月10日 静岡市 蓮永寺 ふたたび

2010-09-22 20:10:55 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

静岡の実家に帰る都度、故前田匡一郎先生の著作をもとに幕臣墓を巡るのを常としています。

以前もご紹介したとおり、静岡市沓谷にある蓮永寺は幕臣墓の宝庫です。目下、平成大改修中で墓域の様相も変わりつつあります。

1月4日、1月17日 静岡市① 臨済寺 蓮永寺

今回訪れたのは、静岡のローカル書店である吉見書店を創った幕臣吉見義次の墓。(=写真)



場所はお万の方供養塔のほぼ傍らと言ってよく、本堂から墓域のある山側へ向かって伸びた通路の右手に位置します。

墓碑正面には戒名しか刻まれていないのですが、墓碑前にある両側の花立てに吉見と刻まれているため、見つけやすかったです。

状態がよく左右側面に刻まれた事績がたいへん読みやすくなっています。

銘に曰く、弘化2年7月24日生まれ(1845.8.26)、幼名銀之助。父儀助、勘定職。開成所教官、外国奉行配下、欧文を掌る。明治戊辰後静岡へ移住、静岡藩学校に奉職。

明治13年(1880)安西に書籍店を開店、のち呉服町の現所に移舗。国定教科書の特約販売所となる。

大正5年(1916)1月16日病没、享年71。撰者不詳。法名「荘徳院義次日正居士」(墓碑正面)。

妻八重の墓は背面の階段を登ると同じ向きで建っています。法名「荘妹院妙重日義大姉」(正面)、同じく大正5年11月23日、やはり享年71歳(左面)。

この吉見書店は、かつて静岡きっての中心街呉服町(伊勢丹のとなり)にありましたが、今は郊外へ移転。

まだその書店が呉服町にあったころ、少年時代の筆者は釣洋一先生の『新選組再掘記』(新人物往来社)にそこで出合ったのです。

初版は昭和47年ですが、小弟が手にしたころは版を重ねて平成になっていました。

当時は中学から高校へ上がる時分ですから1,800円ほどの新刊本など買えるような身分ではありませんでした。高校も終わりのころになって県立図書館に入っているのがわかり、坂道を自転車で駆け上がっては借りにいったものです。

ようやく手に入れたのは、社会に出るころになって高知の古書店でのことでした。

そんな思い出深い書店の創業者が幕臣だったとは、何とも奇しき縁と言えましょう。

幕臣の後裔として、今や直に薫陶を受けることになった釣先生に激励されながら、なかなか幕臣研究がはかどらず忸怩たる思いの今日このごろです。
(静岡市沓谷2-7-1)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9月19日(日) 三崎調査

2010-09-20 22:54:44 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
9月19日(日)は三浦半島の三崎へ行ってきたので2ヶ所で墓所調査をしてきました。

京浜急行三崎口で降り、バスで油壺へ行きました。
油壺マリンパーク正面入り口を右に進むと海岸へ下る細い道があり、その途中で2つ分かれる道を進むと戦国期にこの地にあった新井城主三浦道寸義同の墓があります。
墓碑正面に[従四位下 陸奥守道寸義同公之墓]と刻まれていました。
右側面に[三浦長門守]とありましたので、義同の子孫で紀州徳川家の家老となった三浦長門守家によって建てられたものと思われます。

この後、バスで三崎港方面へ向かい、日の出バス停で降り本瑞寺へ行きました。
この寺は源頼朝ゆかりの桜の御所があった所と言われ、三浦氏の菩提寺であったお寺です。寺紋は三浦氏の丸に三引両です。

境内に入りすぐ右側には美術評論家で男爵の岩村透の銅像があります。これは朝倉文夫の作です。
その右側には高浜虚子門人の俳人松本たかしの墓ががあります。自然石を置いただけの質素な墓でした。

境内の左に広がる墓地には岩村透の墓がありました。
石円墳の上に角柱を置いた形式で正面に[岩村透先生之墓]と刻まれていました。



父岩村高俊は宿毛伊賀家の家臣で戊辰戦争の際、長岡藩の河井継之助の嘆願を一蹴して長岡戦争の原因を作った人物としても知られています。高俊の墓は京都の東大谷廟所武家墓域にありますが、非公開となっています。

この後は折角、三崎港へ来たのでマグロ丼を食べて帰りました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月11日・12日 郡山・二本松調査

2010-09-18 00:07:20 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
8月11日(水)・12日(木)は両親の実家の二本松へ行き、市内の寺院を調査して来ました。

二本松に行く前に郡山で下車し、駅前にある善導寺の内大臣・男爵湯浅倉平の墓を見ました。
湯浅倉平は山口の生まれですが、実父が福島県士族湯浅家の養子になったため、山口県出身と福島県出身両方の記述が見られます。

墓地に入りすぐ左側に湯浅家の墓域があります。
正面に[湯浅倉平之墓]左側面には法名の[興昭院殿徳譽義道音城大居士]と刻まれた倉平の墓があります。左には夫人の墓、右には娘夫婦が建てた五輪塔がありました。



この後、二本松市へ移動して自転車で市内の寺院を巡りました。
二本松の寺院調査は昨年も行いました。

8月13日 二本松調査

私にとって二本松の人物を調べることはライフワークになっているので、何度も調査する必要があります。
今回は二本松の掃苔には欠かせない『二本松寺院物語』(平島郡三郎著)を元に訪問しました。

まず、寺院の密集している地域である竹田へ行きました。

真行寺では長州藩士白井小四郎の墓を見ました。小四郎は二本松少年隊士成田才次郎によって討たれました。



真行寺の裏山は隣の顕法寺と繋がっていて、顕法寺側の墓地に少年隊隊士田中三治の墓があります。



正慶寺は少年隊隊長木村銃太郎の墓があることで知られますが、今回は二本松藩弓道師範名幡家、家老の浅見家の墓を見ました。
浅見家は後年建てられた新しい墓碑でしたが、右側面を見ると[正慶院殿釋氏元鎧道清居士 淺見掃部介藤原忠政元和元乙卯年五月七日大阪夏陣天王寺附近ニ於テ戰死四十二才]と初代浅見忠政の名が刻まれていました。
忠政は丹羽長秀の妹を妻とし、子孫は江戸期を通じ丹羽姓を名乗っていました。

次ぎに隣の台運寺に行きました。
ここは昨年も調査しましたが、歴史研究会機関誌『歴史研究』にリレー連載している「掃苔行脚」の次回テーマをこの寺に葬られている儒学者岩井田昨非の墓を再調査しました。



岩井田昨非は霞ヶ城入り口にある戒石銘碑の発案者です。
左墓地の坂を登りつめた本堂裏山頂上付近にあります。
詳しくは『歴史研究』12月号に掲載される予定です。

この岩井田昨非の墓へ行く途中には江戸期の上級家臣達の墓が多く、青山家、久保家、江口家、矢島家、岡家、瀧川家、大山家などの古い墓碑が建ち並んでいます。中には倒壊している墓碑などもありました。

次ぎに善性寺で少年隊士大桶勝十郎(写真)、算学者磯村文蔵の墓を見ました。



大桶勝十郎の兄は警視庁に出仕しているということを会員のカワチさんに以前ご教示して頂きました。これについてはカワチさんの著書『侍たちの警視庁』の中の「仇討に燃える二本松の少年 大桶弘蔵」という項目で紹介されています。

侍たちの警視庁

この後は藩主丹羽家の菩提寺大隣寺へ行きました。
昨年は本堂右側の山にある一般墓地に散在する戊辰戦争関係者の墓を調査しましたが、今回は『二本松寺院物語』に記してあった丹羽家の子女墓を探しました。
丹羽家の墓所は本堂の裏側に藩主と子女墓がありますが、一般墓地のある山の中腹、歴代住職墓の奥の石垣上に3基の子女墓がありました。高寛6男長賢、長貴3男頼母の墓が確認できました。

この日の最後は金色墓地の二本松神社神職安藤家の墓へ行きました。この安藤家は安積艮斎の実家である郡山安積国造神社神職安藤家の分家です。

翌日は安達ヶ原の黒塚で知られる観世寺へ行きました。ここには勤王の藩士三浦権大夫義彰の墓があります。義彰は戊辰戦争の際、阿武隈川西岸供中の渡に出陣しましたが、勤王の志から鏃を外した弓を放ち、藩兵を去らし一人自刃して果てました。大正8年には正五位を贈位され、さらに靖国神社に戊辰における二本松藩士戦死者で唯一合祀されました。
墓は観世寺入り口右側の道を進み、丘を登った所にあります。
墓碑正面に[三浦権大夫墓]と刻まれています。



この日はこの後、雨天となったため市立図書館に籠もりました。
小規模ながらも郷土史コーナーは充実しています。
今回は『双松碑文集』(二本松史談会)という本が掘り出し物でした。
二本松市内の墓碑などの碑文を集めたもので、摩耗して読めなかった岩井田昨非の墓碑側面の碑文も全文掲載してありました。
その他にも『水戸甲子変と二本松藩の義戦』『朝河正澄-戊辰戦争・立子山・そして貫一へ』や変わった所では同人誌『二本松藩士の西南戦争』という漫画など、普段読めない二本松の図書館ならではの本を読みました。

これからも二本松の隠れた人物を追うべく調査を続けて行きます。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする