探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

『歴史研究』最新号掲載「少年隊士の生き残り佐野常樹とその一族の墓」

2015-10-31 00:34:12 | 日記
会員のカネコです。
当会幹事メンバーでリレー連載をしている『歴史研究』「掃苔行脚」ですが、最新号は私が書いた「二本松掃苔録⑬~少年隊士の生き残り佐野常樹とその一族の墓~」が掲載されています。



佐野常樹は元の名を浅見四郎といい、二本松少年隊士として戊辰戦争を戦い、その後、縁あって佐賀藩出身で日本赤十字の父と呼ばれた佐野常民の養子となり、初代ニチメン社長となりました。
詳しくは『歴史研究』最新号をご覧頂ければ幸いですが、誌面には青山霊園の常樹の墓写真しか掲載していませんでしたので、常樹の実家である丹羽浅見家の墓所と丹羽浅見家の祖である浅見忠政の墓の画像を掲載します。

丹羽浅見家の墓所は二本松市成田にある藩主丹羽家の菩提寺である曹洞宗巨邦山大隣寺で、今年の7月に二本松製糸工場の創設者である山田脩の墓所をお寺の方に尋ね案内して頂いた際、山田家墓所に隣接した所に、この丹羽浅見家の墓所を見つけました。



初代忠政の墓は同市竹田にある真宗大谷派棚倉山正慶寺にあり、子孫が建てた比較的新しい墓碑の側面にその名が刻まれています。同墓地には少年隊隊長木村銃太郎の墓もあります。正慶寺は私の母方の墓がある事から幼少時より何度も訪れていますが、この浅見家の墓碑に気づいたのは8年前の事です。



14名の戦死した二本松少年隊士の最期は、会津白虎隊士の自害に並び、東北諸藩の戊辰の悲劇を象徴したものでありますが、生き残った隊士達がその後どのような人生を歩んだかという事は意外と知られていません。
最近は少年隊士に限らず、戊辰を生き残った二本松藩士が明治という新しい世をどのように生き抜いたか?という事に非常に興味があります。
今後の連載でも戊辰を生き残った二本松藩士達を取り上げて行きたいと思っています。

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-申込みフォーム
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探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-

2015-10-25 20:37:44 | イベント
会員のカネコです。探墓巡礼顕彰会では、発足以来、春・秋2回の巡墓会を開催して来ましたが、今秋の巡墓会は諸般の事情により、お休みすることになりました。
その代わりに当会初の試みとして、「探墓巡礼顕彰会オフ会」を開催する事になりました。
いつもの巡墓会より短い1時間程度の巡墓会の後、同好の方との情報交換・当会へのご意見・ご要望など、幅広い意見交換を目的とした懇親会を行いたいと思います。
巡墓会は芝公園にある臨済宗南禅寺派金地院にて開催いたします。

開催要項は以下のとおりです。

■開催要項
★主な巡墓人物
近藤勇の養父近藤周斎・盛岡藩主南部家・盛岡藩士相馬大作・子爵渡辺国武など

★日時 平成27年12月13日(日)雨天決行
14:00 受付開始
14:30 主催者挨拶
14:40~15:30 金地院にて巡墓会
16:00~ 懇親会

集合場所:金地院前(東京タワー向かい側)
東京都港区芝公園3丁目5-4
※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

【交通】
都営地下鉄大江戸線 赤羽橋駅下車 出口:赤羽橋口 徒歩5分
東京メトロ日比谷線 神谷町駅下車 出口: 1番 徒歩7分
都営地下鉄三田線 御成門駅下車 出口: A1 徒歩6分
都営地下鉄浅草線 大門駅下車 出口: A6 徒歩10分
JR山手線・京浜東北線 浜松町駅下車 出口: 北口 徒歩15分


 
★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★参加費用:1,000円(資料代含む)
(定員20名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000~4,000円程度/場所:地下鉄大門駅周辺の居酒屋にて)

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-申込みフォーム

【芝金地院巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓地内移動中は檀家様の墓参の妨げとならいようお気を付け下さい。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※一部足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。

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掃苔本の紹介①

2015-10-24 23:04:47 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
今回はいつもの墓紹介ではなく、僕らが墓調査を行う上で、使用している掃苔本を紹介したいと思います。
と言っても膨大な数に及ぶため、調査報告の合間にちょくちょく更新したいと思っております。



第1回目を飾るのは、河原芳嗣氏の『図説 徳川将軍家・大名の墓―江戸の残照をたずねて』です。
こちらは、東京に遺る徳川将軍家や大名家のお墓について、丹念な調査と豊富な写真で紹介されている本です。
僕の掃苔人生は、この本がきっかけと言っても過言ではありません。この本は、携帯するのに少々不便なサイズですが、掃苔調査に出かける際には、毎回携帯して、墓所に着き、本の内容と現物を比較しながら、楽しんでおりました。
この本は平成15年に刊行された本なのですが、変化の激しい"首都東京"の大名墓所を一基一基記録されています。
そして、紹介された大名墓所のなかに著名な人物が居れば、簡単な人物紹介も入っているので、掃苔初心者が読んでもどんな人物なのかすぐに勉強することが出来ます。



この河原氏の本に多くのモデルチェンジが存在していて、都内や関東近県に存在する比較的有名な旗本のお墓を紹介している『江戸の旗本たち』やこの2つの本を合わせたような内容となっている『探訪 江戸大名旗本の墓』という本もあります。
特に『徳川将軍家・大名の墓』を携帯しやすく、コンパクトにしたダイジェスト版の『将軍・大名家の墓』というものもあり、価格も半額ほどになっており、非常に良い本となっております。
近年、都市開発や寺院・霊園の墓地整理によって、多くの大名墓が消滅していますが、河原氏の本を片手に大名家のお墓をお参りしてみませんか?
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大円寺・和田堀廟所調査会と会合と今後のお知らせ

2015-10-05 00:02:05 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
昨日は幹事メンバーのカトケンさん、クロサカさんと杉並区の大円寺・和田堀廟所へ調査へ行き、その後会合を行い、今後の活動内容を決めました。

大円寺は元は現在の港区高輪にあり、伊皿子大円寺として知られていました。
薩摩藩主島津家の江戸における菩提寺であった事から現在も薩摩藩士の古い墓碑が数多く見られます。
墓地は本堂前側と後側に分かれており、まず、前側にある明治元年戊辰の役戦死者の墓や森有礼の兄横山安武、西郷隆盛の子午次郎など、薩摩関係者の墓を調査した後、旗本土方出雲守勝政と飯野藩主保科家の墓所を見てきました。



飯野藩主保科家は会津藩主松平家の家祖保科正之の義叔父正貞の系統であり、正之から保科家の家宝等を譲られた事で、保科家の嫡流となっています。会津藩主松平家とは深い関係が続き、松平容保の義姉照姫は飯野藩主保科正丕の三女で、松平家に養女に入っています。

後側の墓地には旗本五井松平家の広大な墓所があります。大名家クラスの墓地であり、旗本家の墓所これだけのものは都内ではなかなか見られません。
他にこちらにも薩摩藩士諸士の墓所があります。
それから、釣洋一先生の『江戸刑事人名事典』に書いてある坂井右近政輝建立の墓碑があります。政輝は火盗改や浦賀奉行を歴任し、南町奉行鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)の実弟にあたります。本人の墓は確認できませんが、一族や子孫の墓が現存しています。



大円寺の後、杉並区永福の栖岸院にある丹南藩主高木家の墓所を拝し、最後の目的地和田堀廟所へ行きました。
ここは築地本願寺の墓地で著名人の墓も数多くありますが、今日は最近場所が移動された佐藤栄作元首相の墓所を確認してきました。

調査会の後、下高井戸駅前の居酒屋たつみで会合を行い、年内の活動について話し合いました。
当会では発足以来、春・秋の年2回の巡墓会を開催してきましたが、今年の秋は一旦お休みをする事にして、その代わりに12月に懇親会をメインとしたオフ会を開催する事にしました。
1ヶ所だけ寺院墓地を巡った後、近くで懇親会を行う予定です。
探墓巡礼顕彰会としては初の試みですが、いつもの巡墓会ではなかなか参加者の皆様との親睦が深められない事もありますので、今回は皆様と様々な情報交換やご意見などお聞きしたいと思っております。
場所・日時等は後日発表しますので、ご参加をご検討して頂けると大変嬉しく思います。
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中野村と名主堀江家と宝仙寺

2015-10-04 00:46:30 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
とある理由で現在の中野区の中央、中野、本町周辺にあった中野村の事を調べています。

先月21日(月)に中野区立中央図書館など、中野区内を巡ってきました。
中野区立中央図書館はJR中野駅から徒歩10分弱の所にあり、なかのZEROの館内にあります。中はとても綺麗で、中野区の郷土資料が豊富にあり、なかなか良い図書館でした。



中野村といえば、5代将軍綱吉が出した「生類憐れみの令」によって作られた中野御囲(犬屋敷)があった所です。現在のJR中野駅の周辺にあったと言われ、駅前にある区役所にはその事を記念した犬の像があります。



「生類憐れみの令」は「天下の悪法」と言われましたが、動物愛護の精神から学ぶものがあるのでは無いかと思っています。将軍綱吉の治世もだいぶ評価されるようになりましたし、奸臣と言われた柳沢吉保も実は安定した治世を補弼した名臣だったという評価もあります。水戸光圀との不和も実は無かったと言われますし、赤穂事件の対応も決して悪いものでは無かったとの評価もあります。以前、当会の巡墓会で賄賂政治家と呼ばれた田沼意次の再評価を行いましうたが、いずれ柳沢吉保についても取り上げてみたいと思っています。

中野村の中心は現在のJR中野駅の周辺では無く、中野区中央の宝仙寺付近であり、青梅街道の宿場町として発展していました。
中野村の名主は堀江家といい、家伝では始祖堀江兵部が越前より農民十数名を連れ、この地にやって来て、弘治元年(1555)に中野村の開発を始めたとされています。当時の領主小田原北条氏より支配権を認められ、その後、徳川幕府からも名主を命じられ、江戸期を通じて中野村最大の有力者となりました。
その墓所は前述の宝仙寺の墓地に2ヶ所に分かれて現存しています。





宝仙寺の墓地は4月5日に調査して来ました。

この宝仙寺には伊達政宗の弟秀雄の墓もあります。



伊達政宗の弟と言えば、政宗が小田原に参陣する直前に自ら手討ちにした伊達小次郎が知られています。大河ドラマ『独眼竜政宗』でも大変印象的なシーンでした。
伊達家の系図には政宗の弟としてこの小次郎しか記載されておらず、秀雄という人物は見あたりません。
この秀雄は五日市横沢の大悲願寺の住職であり、同寺の記録によって政宗の弟という事が明らかになっています。秀雄はその後、宝仙寺の住職となったため、同寺に墓所があります。
この秀雄は小次郎と同一人物で実は政宗が密かに逃したという説もありますし、、別人で父輝宗の庶子だったため、伊達家の系図には出てこないという説もあります。真相を明らかにする事は難しそうですが、私個人としては、やはり小次郎を斬らずに逃していたらいいなという願望があります。

前述の堀江家に関しては大量の古文書が残されており、これらは東京都立大学に寄贈され、現在は首都大学東京に保管されています。
一部は翻刻され『武蔵国多摩郡中野村名主堀江家文書翻刻』として中野区立歴史民俗資料館より刊行されています。この本は都立中央図書館や中野区立中央図書館にて閲覧できます。また中野区立中央図書館には堀江家文書の中の絵図のみを複写した『堀江家文書絵図』全2冊があり、そこに中野区立歴史民俗資料館に他の文書の複写があると書いてあったので、歴史民俗資料館に問い合わせた所、文書を撮影し出力したものがあり、事前連絡で閲覧できるとの事で、近いうちに閲覧しようと思っています。
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