会員のカトケンです。
平成23年8月6日(土)、高知龍馬空港からいろいろ寄り道をして土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」でいざ東へ。「球場前」で降りて、高知県安芸市にある浄貞寺を訪ねました。
ここには、昨年5月に谷中霊園巡墓会で紹介した土佐郷士 黒岩直方(変名安芸守衛、磯部寛一郎)の墓があります。谷中は黒岩単独の名が刻まれていますが、こちらには妻栄子の名も刻まれています。(=写真)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/11/7b3b72dd27f9a8706df4f42aef7bdf50.jpg)
傍らには父藤之進同妻喜世子の墓、周りには一族の墓が数十基に及び、さらに昭和42年(1967)に一族である黒岩俊行氏による由来碑があり、連綿と続いている血脈について知ることができます。
そもそもこの黒岩家は、戦国時代にこの辺りを治めた安芸国虎の家老を勤めた家柄で、現にこの寺にある国虎の墓の右側にその黒岩越前守が眠っています。(=写真)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/f4/9cd57f20c8c441f328559deb1f719783.jpg)
対になって国虎を今でも護っている有沢岩見守と対照的に越前守の墓碑は状態がよく、墓碑正面に「永禄十二乙巳年(1569、ユリウス暦)/桂岩芳樹禅定門/八月十七日黒岩越前」と刻まれているのが読みとれました。
これを西暦に直すと1569年9月27日、この日付はあくまで当時西洋諸国が使用していたユリウス暦になります。
今我々が使用しているグレゴリオ暦が採用される13年前ですから、今から何年前と正確に言うためには、当時まだなかったグレゴリオ暦を遡って計算してみる必要があり、計算結果は1569年10月7日ということになるわけです。
話を戻すと、安芸国虎が長宗我部元親に滅ぼされるに際し夫人を今の高知県西部に位置する中村まで届けたのがこの越前守で、その使命を果たすと国虎が自害したこの寺に戻ってきて殉死したとのこと。
幸い血脈はが続き、江戸時代山内氏の治世では郷士に甘んじ、幕末明治に直方・涙香らが息を吹き返したようです。
安芸市など高知県東部には土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線ができるまで手頃な交通機関がなかったため、かつてとは比較にならないほど訪ねやすくなりました。
学生時代の小弟は、当時まだなかった「ごめん・なはり線」の終点からやや山側へ入った中岡慎太郎館へ(高知市安芸郡北川村)自転車で往復120kmを日帰りで行きました。出発地は住んでいた高知市朝倉丙で俗に米田地区と云われているところです。
そのときのサイクリングロードが車窓からちらほら見えて懐かしい気持ちになりました。
また、今や高知龍馬空港となった高知空港を通ったとき、辺りは既に暗くなる中、滑走路を示すカラフルなライトがまるで浮かび上がるようで、それはもうきれいな光景だったことをはっきり記憶しています。
そのあと下田川沿いのライトもない道をどのように帰ったのか考えただけでゾッとします。
時間があるときはいろんなことに挑戦してみるものですね。今となっては良い思い出となりました。
なお、高知龍馬空港から土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」につながる交通手段がないため、利用する場合は気をつけてください。
小弟は空港から橋を越えて川の向こうにある鰻屋さんに寄って、よしかわ駅に向かってとにかくたくさん歩きました。駅舎は見えるのですが、一面田んぼの中を突き進み2,30分はかかったでしょう。
土地勘がなければとてもお勧めできないコースです。訪問から既に10ヶ月ほど経ち、1年になる前にようやく記事にすることができました。
(高知県安芸市西浜556、曹洞宗 元親山 浄貞寺)
平成23年8月6日(土)、高知龍馬空港からいろいろ寄り道をして土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」でいざ東へ。「球場前」で降りて、高知県安芸市にある浄貞寺を訪ねました。
ここには、昨年5月に谷中霊園巡墓会で紹介した土佐郷士 黒岩直方(変名安芸守衛、磯部寛一郎)の墓があります。谷中は黒岩単独の名が刻まれていますが、こちらには妻栄子の名も刻まれています。(=写真)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/11/7b3b72dd27f9a8706df4f42aef7bdf50.jpg)
傍らには父藤之進同妻喜世子の墓、周りには一族の墓が数十基に及び、さらに昭和42年(1967)に一族である黒岩俊行氏による由来碑があり、連綿と続いている血脈について知ることができます。
そもそもこの黒岩家は、戦国時代にこの辺りを治めた安芸国虎の家老を勤めた家柄で、現にこの寺にある国虎の墓の右側にその黒岩越前守が眠っています。(=写真)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/f4/9cd57f20c8c441f328559deb1f719783.jpg)
対になって国虎を今でも護っている有沢岩見守と対照的に越前守の墓碑は状態がよく、墓碑正面に「永禄十二乙巳年(1569、ユリウス暦)/桂岩芳樹禅定門/八月十七日黒岩越前」と刻まれているのが読みとれました。
これを西暦に直すと1569年9月27日、この日付はあくまで当時西洋諸国が使用していたユリウス暦になります。
今我々が使用しているグレゴリオ暦が採用される13年前ですから、今から何年前と正確に言うためには、当時まだなかったグレゴリオ暦を遡って計算してみる必要があり、計算結果は1569年10月7日ということになるわけです。
話を戻すと、安芸国虎が長宗我部元親に滅ぼされるに際し夫人を今の高知県西部に位置する中村まで届けたのがこの越前守で、その使命を果たすと国虎が自害したこの寺に戻ってきて殉死したとのこと。
幸い血脈はが続き、江戸時代山内氏の治世では郷士に甘んじ、幕末明治に直方・涙香らが息を吹き返したようです。
安芸市など高知県東部には土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線ができるまで手頃な交通機関がなかったため、かつてとは比較にならないほど訪ねやすくなりました。
学生時代の小弟は、当時まだなかった「ごめん・なはり線」の終点からやや山側へ入った中岡慎太郎館へ(高知市安芸郡北川村)自転車で往復120kmを日帰りで行きました。出発地は住んでいた高知市朝倉丙で俗に米田地区と云われているところです。
そのときのサイクリングロードが車窓からちらほら見えて懐かしい気持ちになりました。
また、今や高知龍馬空港となった高知空港を通ったとき、辺りは既に暗くなる中、滑走路を示すカラフルなライトがまるで浮かび上がるようで、それはもうきれいな光景だったことをはっきり記憶しています。
そのあと下田川沿いのライトもない道をどのように帰ったのか考えただけでゾッとします。
時間があるときはいろんなことに挑戦してみるものですね。今となっては良い思い出となりました。
なお、高知龍馬空港から土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」につながる交通手段がないため、利用する場合は気をつけてください。
小弟は空港から橋を越えて川の向こうにある鰻屋さんに寄って、よしかわ駅に向かってとにかくたくさん歩きました。駅舎は見えるのですが、一面田んぼの中を突き進み2,30分はかかったでしょう。
土地勘がなければとてもお勧めできないコースです。訪問から既に10ヶ月ほど経ち、1年になる前にようやく記事にすることができました。
(高知県安芸市西浜556、曹洞宗 元親山 浄貞寺)