探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

ハワイにある日本人墓地

2012-03-11 00:25:32 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
3月4日から新婚旅行でハワイへ行って来たのですが、1日だけ自由行動の時間があったので、一人でハワイの歴史散歩をすることにしました。

ハワイには明治元年(1868)以降、多くの日本人が移住しました。
その日本人達の墓地がホノルル市内のマキキとモリイイの2ヶ所にあります。
今回は明治元年(1868)の移住者の墓があるマキキ墓地へ行ってきました。
墓地は住宅街に囲まれた一角にあり、緩やかな斜面に墓碑が建ち並んでいました。
墓地の中央部にひときわ目をひく大きな墓碑が4基並んでいました。
まず[明治元年渡航者之碑](写真)と刻まれた自然石と[ハワイ日本人移民慰霊碑]と刻まれた角柱石です。これは明治元年(1868)以降、ハワイに移住した人達の慰霊碑です。



[鎮魂 海軍大将長谷川清書]と刻まれた自然石は、海外に初めて設置された日本海軍基地で亡くなった海軍兵の慰霊碑で、その横には小さい海軍兵の墓碑3基と[大日本帝國龍驤艦]と刻まれた下に12名の兵士の名が刻まれた墓誌(写真)、軍艦高千穂の乗組員の墓が並んでいました。



もう1基はハワイでの日本人の労働条件の改善に尽力した[石井勇吉翁記念碑]です。

明治元年(1868)に移住した人達は「元年者」と言われています。カメハメハ5世は徳川幕府へ労働者供給を請願し、300人の渡航印章の下附を受けますが、明治新政府はこれを無効とします。しかし、在日ハワイ領事ヴァン・リードは無許可のままで、153名の日本人をハワイへ送りました。
ハワイとの通商条約を結ぶまでは明治4年(1871)の日布修好通商条約まで待たねばなりませんでした。
明治18年(1885)にはカラカウア王が来日し、日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可され、明治27年(1894)に民間に委託されるまで約29,000人がハワイへ渡りました。
墓地には明治から現在に至るまでの移民とその子孫達の墓碑が並んでいます。
多くの墓碑の側面には出身地が刻まれていました。
特に多かったのが、広島県、山口県、沖縄県、熊本県など西日本の出身者でしたが、その中に混ざって福島県、新潟県の出身者も目につきました。
私は今、自分の先祖についても調べていて、男系・女系問わず家系を調べていますが、その先祖と同郷の方の墓を偶然見つけました。[福島縣伊達郡東湯野村西畑]と刻まれていました。私の母方の高祖父の母の出身地です。また、別の系統の高祖母の実家が信夫郡上飯坂村の佐藤氏というのですが、この辺の佐藤姓の家の多くにはその土地の武将佐藤継信・忠信の子孫との伝があります。正面に[佐藤家之墓]、右側面に[福島縣信夫郡荒井村字八幡内]と刻まれた墓を見つけた時、私はその信夫郡の佐藤氏と同族なのではないかと思い深い感慨に浸りました。左側面には[大講義 佐藤彌藏命神霊]と刻まれており、神道の布教のために福島からハワイに渡った人物と思われます。

私達と同じルーツを持った人達が、故郷を離れ異なる文化を持ったハワイで生き、様々な困難を乗り越えてこの地に骨を埋めました。そしてその子孫達は太平洋戦争などの困難を越え、現在のハワイを支えています。
隠れたもう一つの近代日本の歴史をハワイで感じることができました。
コメント
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