探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

黒駒勝蔵の墓について

2010-04-15 00:31:44 | 会員の調査報告
ごぶさたしております。カワチです。

中原尚雄の墓の情報をいただいてからというもの、鹿児島に行きたくてしかたないのですが、連休が取れないので近場(関東)をうろうろしています。

千葉県銚子市では美賀保丸遭難碑を。

栃木県宇都宮市では報恩寺の戦死烈士の墓と、常念寺の彰義隊の墓と、英厳寺跡の戸田家の墓を。

山梨県笛吹市では黒駒勝蔵の掃苔に行ってきました。 

この中では一番知られていないと思われる黒駒勝蔵の墓について書きます。

黒駒勝蔵の墓は、石和温泉駅からバスで450円の御坂東小学校付近(地名は黒駒)にあります。

しかしこのバスは一日に4本しかありません。 
行きも帰りもバスを利用するには、どうやら黒駒に四時間いなければなりません。
一面ぶどう畑で飲食店がまったくない黒駒に四時間滞在するのは厳しいと考え、行きはタクシーに乗り、帰りをバスにしました。
行きのタクシーは3000円かかりました。 
勝蔵の墓は二つありました 。
一つは最近たてられた立派な墓で、子孫の方の敷地内にあります。



もう一つもそこから程近い若宮観音堂の境内にあります。こちらの墓についてはその存在は知っていましたが詳しい場所が分からず、偶然見つけたものです。 



こちらの墓は古いもので、苔むして磨耗した小さなお地蔵さんの形をしています。 
黒駒勝蔵の墓という表記もありません。
罪人として斬首された勝蔵の墓を建てることができず、このような形にしたのでしょうか。 
そういえば竹居のドモ安の墓もお地蔵さんの形をしていました。 
なんとも心を打たれる墓でした 。

3月20日② 港区金地院、2人の「くにたけ」

2010-04-06 02:10:04 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

この日に続いて訪れた金地院は、東京タワーの目の前にあり、かの有名なる金地院崇伝ゆかりの寺です。

向かい側のタワーに来る人たちの賑わいとは裏腹に、大きな五輪塔が整然と並んでいる場所にいると、まるで雲の上から下界を見ているような気分になります。

この寺は、言わずと知れた天然理心流宗家第三代 近藤周斎邦武の墓があります。場所は境内右手に拡がる墓域の奥、塀に面しています。(=写真)



周斎は近藤勇の養父、今の町田市小山の島崎家出身で、先代三助亡き後、10年ものあいだ理心流宗家が途絶えていたところ、兄弟子らを飛び越えて宗家を継承しました。

独自に門弟を開拓し、兄弟子たちの領域を決して侵さず徐々に門人を増やしていったことは、この人物の腕前はおろか、礼儀正しさや人徳を察することができます。

島崎家先祖の墓が周斎から左手3番目に建てられています(=写真)。



これは周斎の甥佐太郎禅宜が建てたものです。禅宜は周斎の長兄高富の跡継ぎで、慶応3年(1867)に没した周斎に遅れること4年となる明治4年(1871)に没しています。

周斎の墓から右手のいちばん奥には子爵渡辺国武の墓があります(=写真)。



大久保利通晩年の側近で、明治10年(1877)に高知県の立志社を中心として西南戦争に呼応しようという動きがあったとき、権令(県知事)として見事鎮静化に尽力した人物です。

そのとき、齢30そこそこであったといいますから驚きです。

のちに大蔵大臣などを務めます。出身は長野県。傍らに養子千冬による記念碑が建てられています。千冬は国武実兄 渡辺千秋の実子です。

明治の高官は薩長ばかりでなく、爵位をもらった人でも出身県はかなり多種多様です。地方長官を務めた人にまだまだ注目すべき人はたくさんいるように思います。

宗派は臨済宗南禅寺派、山号は勝林山(港区芝公園3-5-4)

3月20日① 港区安養院

2010-04-05 23:19:49 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

先日会員のカネコさんが紹介された東京都港区芝公園の安養院を訪れました。JR浜松町駅から大門をくぐってすぐ左に位置します。

渋谷雅之著『溝渕広之丞のことなど』(私家版)に気になる一節があったためです--明治3年(1870)正月に高知藩から英国留学の出発前夜に割腹自殺をした4人の若者のほかに、いくつか土佐藩士の墓があると--

実際に足を運ぶと、海援隊の謀 長岡謙吉以外に土佐藩では、その右側5つ目に森岡氏、墓域中程に渋谷氏があり、大門寄りに切腹した四名、奥から小島捨蔵巌盤、小笠原彦弥茂延、川上友八正躬、谷神之助芳叢の墓がありました。

その奥の狭い空間に無縁墓として寄せ集められた土佐藩士--渋谷著で拾われた名前(長澤、伴、門田、武藤、横矢)以外にも棚橋、近藤、森、坂井、青木などいくつか名前が見出せました(=写真)。中には松代藩士が1基だけあり、年代もバラバラで調査が困難を極めそうです。



長岡の墓は昭和15年(1940)になって建てられたもの。号は懐山。妻は久保添氏で、長岡と同じ明治五年没。息謙次郎は慶大教授、明治19年(1886)没。孫徳之助は明治41年(1908)没。建之は徳之助息 長縄徳(太)郎。

切腹した4名とは、戊辰の役で戦功が認められ、英国留学を目前に控えた明治3年1月に東京は新富の島原遊郭へ遊びに行ったところ、警備の加賀藩士と鍔ぜり合いになり、その責任を負って翌日暁に屠腹したもので、ともに前途ある20代でした(=写真)。



中でも小笠原は唯八、茂連の弟で、長兄唯八は板垣退助と覇を争ったほどの戊辰役の中心人物。惜しむらくは会津にて戦死。

谷は重喜弟、重中兄で干城とも親戚という土佐南学の祖 谷秦山以来の家系に連なるなかなかの血筋でした。

保存状態がいちばん良いのは小島の墓(=写真)。



小笠原の墓碑は真っ二つに割れていますが、下半分が重ねて奥に置かれているため名前が判ります(=写真)。



二つに割れて上半分がないのは川上のもの。谷に至っては碑面が落ちて文字が一つも判りません。

『高知県人名事典』(新版)によって掲載人物である小笠原、谷が判明。2名とも記述の中に川上、小島の名前を見出だせ、4人の特定に至りました。

安養院は増上寺塔頭のため、宗派、山号とも増上寺と全く同じ浄土宗、三縁山。(港区芝公園2-3-2)

4月3日 池上本門寺調査

2010-04-03 22:02:13 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
今日は池上本門寺を調査してきました。
今日はちょうど桜が満開で墓地内では花見をする人が多く見られました。

まず、目賀田種太郎の墓(写真)を調査しました。五重塔の裏に位置し、最近改修された様子でした。正面に法名[本覺院殿仁譲日種大居士]と夫人の法名[本壽院殿妙馨日恵大善女]を刻み、裏面に[樞密顧問官正三位勲一等男爵目賀田種太郎]と刻まれていました。左側に子の目賀田綱美、右側に江戸期からの歴代の合祀墓である[目賀田家先祖累代之墓]があります。


目賀田家の裏の方へ行くと米沢藩の家老を務めた千坂高雅の墓(写真)があります。[千坂家先祖代々之霊位]と刻まれた横に高雅の法名[雅院殿康民日勝大居士]と刻まれています。


その後、熊本藩の尊攘家河上彦斎、竹橋事件や閔妃暗殺事件に関与した岡本柳之助、加賀勤王党の野口之布、安養寺墓地でペリー来航時の浦賀奉行井戸弘道の墓(写真)などを調査しました。
井戸弘道の墓碑には[故石見守井戸敬圭墓]と刻まれていました。


その他、永寿院墓地にある紀州徳川頼宣の女で鳥取城主池田光仲正室の芳心院の墓は近年改修整備されていて、新しく案内板などが建っていました。
力道山墓の近くにある肥前大村藩主大村家の墓域にある[大村家之墓]が倒壊していました。

本門寺には紀州徳川家をはじめ江戸期の大名墓が多く点在しており、近世大名墓を知る上で貴重な存在であると思います。