会員のクロサカです。
最近調査しつつも合間に大学の予定などと重なり調査報告をすることが出来なかったのは申し訳ありませんでした。
あまり写真の整理が追いついていませんが、手短なものから。
11月17日水曜日に東京都足立区善立寺を調査して参りました。
この善立寺の本堂はとても近代的な建物になっていますが、貴寺の公式サイトから由来を引用すると、
由緒
抑も當山は、応仁元年三州徳川家四代松平親忠候の時、本是院日護聖人が安城に一寺を創立し、大光山善立寺と称せしに始まる。
後に岡崎に移転し、天正十九年第四世壽仙院日得聖人、徳川家康公江戸入府の際に随伴し、内幸町に境内八千坪を拝領、岡崎より山号寺号を移し、新たに江戸善立寺を開創す。
爾来、家康公の歸信篤きにより安祥譜代同様の寺格を有し、身延山久遠寺の末頭にして、瑞輪寺、宗延寺と並び江戸三大触頭の一つに列す。
慶安元年下谷新寺町に移り、乗輿独礼を許されるとともに安藤対馬守重長、宮崎備前守時重らの下護を受け、塔頭十箇支院を有せし名刹となる。
然りといえども慶応四年江戸幕府が終焉を迎え、維新の廃仏毀釈運動により當山も大きな痛手を被り、後の関東大震災においては諸堂悉く焼失す。
昭和六年第三十世慈守院日元聖人、宗祖六百五十遠忌の事業として本堂を復興させるも、昭和二十年東京大空襲の火災に遭遇し再び灰燼に帰す。
昭和二十六年第三十一世慈承院日林聖人、浅草永住町より現在の千住八千代町に境内を移し、壇信徒加護のもと本堂客殿の再建を果たす。
と三河以来の寺院で江戸に移転されたことが判ります。
しかし現在は日蓮宗三大触頭だった頃の面影は殆どありませんが、境内の墓地には今でも多くの武家の墓碑があります。
善立寺を菩提寺とした大名家で判るのは駿河田中藩主本多家です。
藩主の葬地は浅草徳本寺で明治以後は始め谷中霊園に建造されるも昭和初年に青山霊園に徳本寺と谷中から改葬されています。
しかし青山霊園の墓誌には、明治以後の俗名しか彫られていません。
『江戸大名墓総覧』や『探訪・江戸大名旗本の墓』には本多家12代正訥の正室とその他婦女子の墓碑があると記されているものの墓地内には現存しておりません。
ちなみに『探訪・江戸大名旗本の墓』に記されている越前勝山藩小笠原家の合祀墓も墓地内には現存しておりません。
しかし墓地に入り左奥にこのような無縁墓地があります。
この無縁墓の中にその本多家石塔及び小笠原家石塔、数家の旗本(藤堂氏・筒井氏など)があります。
歴代住職の墓碑にも旗本鈴木氏の旧石が使用されており、一応残ってはいます。
墓地には未だに旗本の漆戸家や今村家、福島家などもあります。
墓地中ほど奥には、久保田藩の分家である岩崎藩の藩士の墓地もあります。
墓地の主は、西原家で岩崎藩士です。
この中の墓碑の中に一基だけ個人墓があり、これは西原友吉という岩崎藩の銃士の墓碑です。
明治元年9月12日に行われた羽後長浜の戦いで傷を負い、後にその傷がもとで死んでいます。
このお寺は我が家から徒歩で10分前後で行ける距離で自転車で5分ほどのところにあります。
ここのお寺の無縁墓の墓碑にもまだ不明の墓碑も多いのでこれからも深く掘り下げて研究していきたいと思っています。
最近調査しつつも合間に大学の予定などと重なり調査報告をすることが出来なかったのは申し訳ありませんでした。
あまり写真の整理が追いついていませんが、手短なものから。
11月17日水曜日に東京都足立区善立寺を調査して参りました。
この善立寺の本堂はとても近代的な建物になっていますが、貴寺の公式サイトから由来を引用すると、
由緒
抑も當山は、応仁元年三州徳川家四代松平親忠候の時、本是院日護聖人が安城に一寺を創立し、大光山善立寺と称せしに始まる。
後に岡崎に移転し、天正十九年第四世壽仙院日得聖人、徳川家康公江戸入府の際に随伴し、内幸町に境内八千坪を拝領、岡崎より山号寺号を移し、新たに江戸善立寺を開創す。
爾来、家康公の歸信篤きにより安祥譜代同様の寺格を有し、身延山久遠寺の末頭にして、瑞輪寺、宗延寺と並び江戸三大触頭の一つに列す。
慶安元年下谷新寺町に移り、乗輿独礼を許されるとともに安藤対馬守重長、宮崎備前守時重らの下護を受け、塔頭十箇支院を有せし名刹となる。
然りといえども慶応四年江戸幕府が終焉を迎え、維新の廃仏毀釈運動により當山も大きな痛手を被り、後の関東大震災においては諸堂悉く焼失す。
昭和六年第三十世慈守院日元聖人、宗祖六百五十遠忌の事業として本堂を復興させるも、昭和二十年東京大空襲の火災に遭遇し再び灰燼に帰す。
昭和二十六年第三十一世慈承院日林聖人、浅草永住町より現在の千住八千代町に境内を移し、壇信徒加護のもと本堂客殿の再建を果たす。
と三河以来の寺院で江戸に移転されたことが判ります。
しかし現在は日蓮宗三大触頭だった頃の面影は殆どありませんが、境内の墓地には今でも多くの武家の墓碑があります。
善立寺を菩提寺とした大名家で判るのは駿河田中藩主本多家です。
藩主の葬地は浅草徳本寺で明治以後は始め谷中霊園に建造されるも昭和初年に青山霊園に徳本寺と谷中から改葬されています。
しかし青山霊園の墓誌には、明治以後の俗名しか彫られていません。
『江戸大名墓総覧』や『探訪・江戸大名旗本の墓』には本多家12代正訥の正室とその他婦女子の墓碑があると記されているものの墓地内には現存しておりません。
ちなみに『探訪・江戸大名旗本の墓』に記されている越前勝山藩小笠原家の合祀墓も墓地内には現存しておりません。
しかし墓地に入り左奥にこのような無縁墓地があります。
この無縁墓の中にその本多家石塔及び小笠原家石塔、数家の旗本(藤堂氏・筒井氏など)があります。
歴代住職の墓碑にも旗本鈴木氏の旧石が使用されており、一応残ってはいます。
墓地には未だに旗本の漆戸家や今村家、福島家などもあります。
墓地中ほど奥には、久保田藩の分家である岩崎藩の藩士の墓地もあります。
墓地の主は、西原家で岩崎藩士です。
この中の墓碑の中に一基だけ個人墓があり、これは西原友吉という岩崎藩の銃士の墓碑です。
明治元年9月12日に行われた羽後長浜の戦いで傷を負い、後にその傷がもとで死んでいます。
このお寺は我が家から徒歩で10分前後で行ける距離で自転車で5分ほどのところにあります。
ここのお寺の無縁墓の墓碑にもまだ不明の墓碑も多いのでこれからも深く掘り下げて研究していきたいと思っています。