探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

11月17日 足立区善立寺調査

2010-11-25 11:02:26 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
最近調査しつつも合間に大学の予定などと重なり調査報告をすることが出来なかったのは申し訳ありませんでした。
あまり写真の整理が追いついていませんが、手短なものから。

11月17日水曜日に東京都足立区善立寺を調査して参りました。
この善立寺の本堂はとても近代的な建物になっていますが、貴寺の公式サイトから由来を引用すると、

由緒
抑も當山は、応仁元年三州徳川家四代松平親忠候の時、本是院日護聖人が安城に一寺を創立し、大光山善立寺と称せしに始まる。
後に岡崎に移転し、天正十九年第四世壽仙院日得聖人、徳川家康公江戸入府の際に随伴し、内幸町に境内八千坪を拝領、岡崎より山号寺号を移し、新たに江戸善立寺を開創す。
爾来、家康公の歸信篤きにより安祥譜代同様の寺格を有し、身延山久遠寺の末頭にして、瑞輪寺、宗延寺と並び江戸三大触頭の一つに列す。
慶安元年下谷新寺町に移り、乗輿独礼を許されるとともに安藤対馬守重長、宮崎備前守時重らの下護を受け、塔頭十箇支院を有せし名刹となる。
然りといえども慶応四年江戸幕府が終焉を迎え、維新の廃仏毀釈運動により當山も大きな痛手を被り、後の関東大震災においては諸堂悉く焼失す。
昭和六年第三十世慈守院日元聖人、宗祖六百五十遠忌の事業として本堂を復興させるも、昭和二十年東京大空襲の火災に遭遇し再び灰燼に帰す。
昭和二十六年第三十一世慈承院日林聖人、浅草永住町より現在の千住八千代町に境内を移し、壇信徒加護のもと本堂客殿の再建を果たす。

と三河以来の寺院で江戸に移転されたことが判ります。
しかし現在は日蓮宗三大触頭だった頃の面影は殆どありませんが、境内の墓地には今でも多くの武家の墓碑があります。

善立寺を菩提寺とした大名家で判るのは駿河田中藩主本多家です。
藩主の葬地は浅草徳本寺で明治以後は始め谷中霊園に建造されるも昭和初年に青山霊園に徳本寺と谷中から改葬されています。
しかし青山霊園の墓誌には、明治以後の俗名しか彫られていません。
『江戸大名墓総覧』や『探訪・江戸大名旗本の墓』には本多家12代正訥の正室とその他婦女子の墓碑があると記されているものの墓地内には現存しておりません。
ちなみに『探訪・江戸大名旗本の墓』に記されている越前勝山藩小笠原家の合祀墓も墓地内には現存しておりません。
しかし墓地に入り左奥にこのような無縁墓地があります。

この無縁墓の中にその本多家石塔及び小笠原家石塔、数家の旗本(藤堂氏・筒井氏など)があります。
歴代住職の墓碑にも旗本鈴木氏の旧石が使用されており、一応残ってはいます。
墓地には未だに旗本の漆戸家や今村家、福島家などもあります。
墓地中ほど奥には、久保田藩の分家である岩崎藩の藩士の墓地もあります。
墓地の主は、西原家で岩崎藩士です。
この中の墓碑の中に一基だけ個人墓があり、これは西原友吉という岩崎藩の銃士の墓碑です。
明治元年9月12日に行われた羽後長浜の戦いで傷を負い、後にその傷がもとで死んでいます。


このお寺は我が家から徒歩で10分前後で行ける距離で自転車で5分ほどのところにあります。
ここのお寺の無縁墓の墓碑にもまだ不明の墓碑も多いのでこれからも深く掘り下げて研究していきたいと思っています。

10月23日 茨城県立歴史館 特別展「立原杏所とその師友」と小堀寅吉の墓

2010-11-23 23:43:09 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

秋の水戸は、緑が青々として紅葉にはまだ早く、夕方の風がすでに突き刺すような寒さになっていました。

我々、探墓巡礼顕彰会会員が『歴史研究』に連載する「掃苔行脚」⑦で小弟が取り上げました「立原翠軒」の嫡男、立原杏所が描いた絵を中心とした展示が、水戸市にある茨城県立歴史館にて開催されているため、足を運んできました。

御三卿田安家お抱えの画家 谷文晁の画塾に客分として出入りし、渡辺華山や椿椿山と交友。華山が蛮社の獄で捕われたときには対応を協議するなど、一方ならぬ交流を見ることができました。

杏所が絵を描き、父翠軒が賛を書くという作品が随分あり、交友も含めて絵や書をはじめ唐文字まで習った多才な父翠軒の影響が大きかったことがうかがえます。

また、翠軒の作品のほか、杏所の長女杏沙や天狗党の乱に殉じた次男朴二郎の作品にまで触れることができたことは、望外の喜びでした。

杏所は鳥が好きだったようで、鳥が群れをなして飛んでいる姿や翼を広げた姿を事細かに描写するなど、その観察眼には目を見張りました。

墓については、翠軒・杏所父子のものが水戸市六反田の六地蔵寺と東京都文京区向丘の海蔵寺の2ヶ所にある旨を拙稿に書きました。当ブログでは会員のカネコさんが写真つきで紹介されています。

1月・2月の調査②

今回の特別展で、立原家の家系もはっきりしました。水戸初代立原達朝-蘭溪-翠軒-杏所-春沙・朴二郎という順で、前出六地蔵寺に全員の墓があります。

翠軒婦人鶴見氏の墓などもあって葵の紋を持つこの寺は、まだまだ奥深いものがあります。

最後に、写真はいずれも茨城県立歴史館の敷地内にある小堀寅吉の墓と記念碑で、なぜここにあるのか、どのような人物なのか今後深く掘り下げていく所存です。撮影は昨年(平成21年)6月。まずは紹介まで。







○茨城県立歴史館(茨城県水戸市緑町2-1-15)@最寄バス停は歴史館前のほか大工町三丁目からでも5分程度。

11月12日 「昭洞香山君碑」と佐々倉家の墓

2010-11-23 01:09:00 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

来たる今月28日に開催する染井霊園巡墓会にて小弟が紹介する、浦賀奉行所与力香山栄左衛門の石碑が浦賀にあるというので、そこまで足を伸ばしてきました。

場所は、京急浦賀駅から15分ほど久里浜方面に歩いた西叶神社になります。階段を昇って社殿の左手に1mに満たない高さの自然石が目的の碑でした。(=写真。明治13年〔1880〕2月建之)



昭洞が栄左衛門の雅号になります。

文面を追っていくと、栄左衛門の履歴が語られる根拠は、おおよそここに集約されているように思いました。

実父和歌山藩士刈谷君允、生まれは遠州新居(いまの静岡県)。息子は長男永隆、次男実造が内藤家へ養子に、三男は芳雨。妻岡田氏、同じ浦賀奉行所与力岡田井蔵の妹で、姉は中島三郎助に嫁いでいます。

今回、改めて中島氏との関係を調べてみると、中島家の墓が昭和五年(1930)に染井霊園に改葬されていることがわかりました。

染井の香山家墓の右隣にある「中島家之墓」が裏面に「昭和五年六月建之」とあることから、この墓が中島三郎助家の墓であることが判明したのです。

残念ながら、中島三郎助そのものの墓がある浦賀の東林寺や岡田井蔵の墓がある顕正寺を訪れることはできませんでしたが、機会があればまた浦賀に再挑戦したいと思います。

次に、同じ浦賀奉行所与力で小弟が『歴史研究』誌上「掃苔行脚②」として書いた佐々倉桐太郎の先祖の墓がある常福寺を訪れました。(=写真は本堂右手奥、佐々倉家神野家墓所)



具体的な血脈はまだ調査中ですが、ここで判ったことは、佐々倉家が本国丹波、生国武蔵であること、同じ並びに墓碑がある神野家と親戚であることの2点です。

佐々倉は長崎海軍伝習所で航海術を学び、咸臨丸にて渡米。帰国後、築地の海軍操練所で教鞭をとりましたが、肺の病により幕府瓦解時に活躍できず、息子松太郎を箱館の戦にやっただけでした。

幕府瓦解後は、再び仕事に復帰、海軍兵学寮で後進の育成に当たりました。

この佐々倉の功績は、何と言っても同じ浦賀奉行所与力中島家が箱館の役で当主三郎助はじめ、二人の息子を失った後、三男与曽八をして中島家を存続せしめたことに尽きます。

ここに我々は、浦賀奉行所与力たちの絆の強さを感じ取ることができるのです。

最後に、地元の郷土資料館の役割を果たしている浦賀文化センター(浦賀コミュニティセンター分館)にて、香山の石碑について大変親切に教えていただきました。深くお礼申し上げます。

なお、館内には中島三郎助コーナーがあり、手紙や写真の複製が展示され、階段には愛宕山公園にある中島三郎助顕彰碑の拓本が吊り下げられています(田辺太一撰)。


○西叶神社(神奈川県横須賀市西浦賀2-1)

○常福寺(同2-16)
@いずれも京浜急行浦賀線終点 浦賀駅下車徒歩15~20分