探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

白河口戊辰之碑

2015-09-30 01:02:28 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
久々の更新です。近頃は都内近郊の調査ばかりをしていましたが、7月に二本松、8月に富津・小田原、今月は宇都宮・白河へと遠方の調査も少しずつ行う事ができました。
今回は白河の事を書きたいと思います。

20日(日)に会員のクロサカさんと共に白河市稲荷山公園に建立された、白河口戊辰之碑を見に行きました。
この慰霊碑は昨年より戊辰戦争白河口の戦い記念碑建設委員会によって、建立の計画が行われ、先月29日に除幕式が行われました。
白河口の戦いは戊辰戦争で激戦が行われた所であり、私がライフワークとして研究を取り組んでいる二本松藩からも多くの戦死者を出した事もあり、今回の建立に僅かながら寄附をさせて頂きました。
慰霊碑正面には東軍・西軍の戦死者約1000名の名が刻まれ、裏面には建立に賛同し、寄附をされた方々の名が刻まれています。私の名も刻んで頂きましたが、日本全国の方が、この慰霊碑の建立に尽力されており、改めて大変意義深い慰霊碑になったものだと感嘆いたしました。戊辰戦争白河口の戦い記念碑建設委員会の皆様に敬意を表したいと思います。







この日は白河口戊辰之碑の他に、宇都宮・白河の寺院等を巡ってきました。
早朝より出発し、鈍行列車で宇都宮へ向かいました。宇都宮慈光寺では高徳藩主戸田忠至が養子に入っていた間瀬家や宇都宮藩士達の墓を調査しました。
その後、白河へ向かい、かねてから当会をご支援して頂いており、今回の慰霊碑に大変ご尽力をされた安司弘子さんに常宣寺をご案内して頂きました。
常宣寺は白河藩主松平(久松)家・阿部家の菩提寺であり、子女の墓や家臣団の墓が数多く残されています。
私は当地を訪れたのは2回目でしたが、安司さんに阿部家の一族である家老の平田家や松平家の家臣である服部半蔵家の墓所等を初めてご案内して頂きました。お忙しい中、ご案内して頂き、この場を借りて改めて御礼申し上げます。
その後、安司さんと別れ、クロサカさんとレンタサイクルで稲荷山などを巡りました。
龍興寺・松並の会津藩士墓地・稲荷山公園・萬持寺・妙関寺・関川寺・ハリストス正教会・皇徳寺・丹羽長重公廟・長寿院・小峰城・鎮護神山など17:30まで市内を巡りました。
二本松藩主丹羽光重公の父君である長重公の霊廟は2011年に訪れた際、燈籠が倒れ、損壊が酷かったのですが、昨年、修復工事が完成し、元の姿に戻っており、大変喜ばしく思いました。





白河は戊辰戦死者の墓の案内板が整備され、パンフレットも製作されており、巡墓が大変しやすくなっています。今回は鈍行列車で東京から片道3時間半の旅でしたが、新幹線を使えば2時間弱で行く事ができます。JR白河駅観光案内所ではレンタサイクルが無料で利用できますので、週末に日帰りで気軽に訪れてみてはいかがでしょうか。
稲荷山公園から眺めた田園風景が、日頃の都会の喧噪を忘れさせてくれました。

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東京近郊所在の華族墓② 東郷平八郎侯爵・小笠原長生子爵・南部男爵家(東郷寺)

2015-09-19 00:55:28 | 会員の調査報告
黒坂です。
前回投稿の田中不二麿子爵からかなり間が空いてしまいましたが、第2回目として紹介するのは、府中市東郷寺にある華族墓です。
「東郷」寺という名前から察する方も多いと思いますが、日露戦争における日本海海戦の英雄東郷平八郎海軍元帥ゆかりのお寺です。もともと東郷の別荘があった場所を東郷の死後、東郷元帥の菩提を弔い、顕彰するための寺院に改められました。
そのため、同寺には、東郷侯爵の供養塔が建てられています。
東郷平八郎侯爵の本墓は、ここからほど近くにある多磨霊園名誉霊域に埋葬され、立派な墓所がありますが、目と鼻の先に供養塔があるのは驚きです。



この供養塔を建立したのは、小笠原長生子爵という海軍中将で、東郷のことを大変慕っていました。
そのため、東郷元帥の顕彰活動を行っていた人物として知られています。
小笠原子爵は、元唐津藩主小笠原家の当主でもあり、幕末の老中小笠原長行の長男でもあります。
小笠原長行子爵の本墓は、世田谷区烏山の幸龍寺にあります。
父長行は最初谷中墓地に埋葬されましたが、後年長生によってこちらに改葬されました。
ちなみに東郷の供養塔の隣にも小笠原長生子爵の供養塔が建てられています。この他にも唐津近松寺や伊豆宗徳寺に有ります。



この2基に隣接して五輪塔が1基ありますが、こちらも南部日実男爵の墓碑になります。
この方は遠野南部家の当主であり、南朝の北畠顕家に従った南部師行の末裔です。
遠野南部家は、盛岡藩の中でも筆頭家老「御三家」として、破格の待遇を受けていた一族です。
明治になり、南朝に対する功績が認められ、旧盛岡藩主(伯爵)とは別に男爵を授けられました。



同寺には、境内に入ってすぐ左の一般墓域にも著名人の墓があり、豊田副武海軍大将や張作霖爆殺事件の実行犯とされる河本大作の墓もありますが、先ほどの南部男爵家の分家の墓もあります。

当寺の山門は、映画「羅生門」のモデルとしても使われた風情の良いお寺でした。

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伴門五郎とその子孫の墓

2015-09-13 22:03:41 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

『歴史研究』に伴門五郎のことを書きました。彰義隊の戦死した幹部です。

実家である中仙道蕨宿の岡田家の菩提寺、三学院に年末から取材し書き上げました。(写真)



それから谷中の全生庵。彰義隊の同志丸毛牛之助の撰した石碑を見に暑い時期に行きました。

静岡の蓮永寺には子孫の墓があります。(写真)







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西郷隆盛と西郷隆永

2015-09-07 00:50:45 | 会員の調査報告
久保です。
久保久保雨久保のペースでがんまります(笑)

西郷隆盛と西郷隆永について簡単に説明しておくと・・・

同一人物です(笑)

まぁ隆盛は実の父の名で、我々が知っている隆盛の本当の名前は
隆永なんですよね・

というわけで「西郷隆永」と彫ってあれば、あの「西郷どん」のことなのですが、
それには納得しなかった人がいるんです。



これ、西郷隆永と刻んでいるとこに、「永」の上から「盛」の文字を無理やり刻んでいるんです。

同じ人だとはいえ、隆永さんにもらうのはあまり値打ちがないのでしょうかね(^^;)
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桐野利秋の墓・・・・秋?

2015-09-02 23:09:52 | 会員の調査報告


久保です。

連投すみません。

人斬り半次郎こと、桐野利秋の墓です。
彼の事績については、ネット上にたくさんあるので
割愛いたしますが、この墓碑の特徴は墓碑銘です。

「野」が「埜」になっているのはまだしも、
「秋」の字、左右が入れ替わっていますよね。

私は詳細を知らないのですが、この文字は
島津の殿さまが書いたとの話があるらしいです。

書き逃げですみませんが(笑)
詳細をご存知の方は教えてください(^^)
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