探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

『寛政重修諸家譜 別巻一 葬地・寺社名索引』の活用

2015-11-28 01:41:53 | 日記
会員のカネコです。
当会のメンバーがよく使用する本に『寛政重修諸家譜 別巻一 葬地・寺社名索引』という本があります。

寛政重修諸家譜 別巻一 葬地・寺社名索引 - 出版詳細情報

これは『寛政重修諸家譜』の本文中に記載されている大名・旗本の葬地をはじめ寺院に関する事項を寺院ごとに纏めた索引で、2010年に八木書店から出版された比較的新しい本です。

この本を初めて見た時は画期的な本だと思いました。正に私が欲しかった内容でした。
基本的に寺院調査に行く際は目的の人物のお墓を探しに行く訳ですが、実際に現地へ赴くと目的以外の人物も気になって来ます。その時は興味が無くとも、後日興味を持ち、「このお寺前に行った事あるじゃん」という事をよく経験しました。
この本を見たのが2011年頃だったのですが、それ以降、都内の寺院調査の際にはこの索引をチェックして、記載されている旗本家を一通り確認します。



そうすると都内には意外と旗本家の墓が残っている事が分かりました。
もっとも、無名の旗本家を調査する意味はあるのか?という疑問もありますが、それはさておき、備忘録程度に寺院と家名をエクセルに入力しておきます。そうするとデータはだいぶ蓄積されてきて、じわじわとその効果を上げてきています。
歴史調査の醍醐味は点と点だったものが調べる内に線になって行く事です。後から、「あの人物とこんな関わりがあったのか!」と思う事は多々あります。最近もある家の調査をしていて、その分家筋の家の墓を既に見ていて、ちゃんとエクセルに入力してありました。墓碑の撮影をしていたので、再び現地に赴く事なく確認が出来ました。
現在は備忘録程度の記録ですが、情報をいかに詳しく、分かりやすく管理して行くか今後の課題です。

『寛政重修諸家譜 別巻一 葬地・寺社名索引』は村山貴久男さんという方が編集されたのですが、これは本当に凄い仕事です。地道な積み重ねが歴史学を切り開いて行くものだと思います。この場を借りて敬意を表したいと思います。

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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
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中町奉行丹羽遠江守長守とその子孫達

2015-11-26 00:02:19 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
私が子供の頃に『江戸中町奉行所』という時代劇がありました。この中町奉行所とは北町・南町奉行所が裁けない悪を闇の白州で裁く秘密任務を行い、この秘密任務を行う5人がドラマの主人公でした。少々必殺仕事人を彷彿させるものがありますが、この中町奉行を演じていたのが故丹波哲郎さんで、役どころは丹羽遠江守長守という実在の人物です。
実際の中町奉行所はもちろん闇の白洲なんかではありませんが、この丹羽遠江守長守と坪内能登守定鑑の2名しか務めていない短命な奉行所でした。
そのようなポジションのため、時代劇にしやすかったのでしょうが、丹羽遠江守長守が時代劇の題材になるとは今にして思うと凄い事だなと・・・。

丹羽長守はその名が示す通り丹羽長秀の子孫で、二本松藩主丹羽家の分家である旗本丹羽長吉の長男として江戸で生まれました。母は赤井忠泰の娘。幼名吉松、通称権十郎、左近、五左衛門。官名は遠江守。
寛文10年(1670)に4代将軍徳川家綱に拝謁し、寛文12年(1672)小性組番士。元禄元年(1688)家督を継承し、使番、目付と累進、元禄5年(1692)には浅草寺普請の功績により時服一領、羽織一領、黄金二枚を賜っています。
元禄8年(1695年)には長崎奉行に就任、同15年閏8月15日(1702・10・6)には中町奉行に栄進し、宝永4年4月22日(1707・5・23)から北町奉行に転向、正徳4年1月26日(1714・3・12)まで勤めました。辞任後は旗本寄合席となり、享保11年(1726) 84歳で死去しています。

この旗本丹羽家の墓所は文京区本駒込吉祥寺にあり、2013年秋に開催した第9回吉祥寺巡墓会の際に私が解説しました。
現在丹羽家の墓は宝篋印塔1基のみ残されており、宝篋印塔横にある墓誌には明治以降の子孫のみが刻まれており、江戸時代の埋葬者については不明です。



宝篋印塔 正面:丹羽家代々之墓
裏面:昭和三十七年三月改修之
墓誌:(9霊)

昭和初期に書かれた『掃苔』「現存する町奉行の墓(二)」(森潤三郎)には当時の丹羽家墓所の様子が記されており、それによれば鳥居氏(壬生藩主鳥居家のことか?)墓域の前を南へ数歩行った所に長道夫妻の宝篋印塔2基、その角から東へ曲がった両側に丹羽氏の墓域があり、その南側の2基目が長守、3基目が長堅であったとのことです。
それぞれの碑面には
曹源院殿從五位下前江州刺史一滴全海大居士(四代長道)
寛延四年辛未年閏三月二十二日
勝壽院殿從五位下前遠州刺史義雲宗功大居士(三代長守)
享保十一丙午歳四月初七冥
楊善院殿從五位下前江州太守徳翁長海大居士(七代長堅)
嘉永四年辛亥十二月三日
と刻まれていたそうです。
長道の墓について石階五級の上に石門石扉を有していたとあることから、現存する墓碑は位置的にも長道の墓碑と思われます。

長守の長男長道は西城御小性組番頭などを務め、その長男百介は、本家二本松藩主丹羽秀延に後継者がいなかったことから、その養子となり名を高寛と改め、丹羽家7代目当主を相続しました。高寛は二本松に初入国した際、藩祖長秀の廟所が不明になっている事に憤慨し、家臣に命じ捜索させ、越前宗徳寺に廟所、総光寺に位牌があることを確認し、直ちに法会を行い、毎年4月16日に家臣を派遣し代拝させ、以降幕末まで続きました。
当時二本松藩は財政窮乏・農村荒廃などの難題に直面しており、高寛は家老丹羽忠亮を重用し藩政改革を推進。忠亮と親しかった幕府儒官桂山彩厳の門人岩井田昨非を登用し、文武学習推進、綱紀の粛正、税目の新設、年貢収納の的確化、人材の登用などの施策を進めました。この改革は昨非が藩主・家老を後ろ盾として推進したため、下級家臣・農民からの反発も起き、抗争や一揆も起きています。延享2年(1745)改革半ばにして病を理由に、嫡男高庸に家督を譲り隠居。その後も高庸を後見し、藩政を指導しました。
寛延2年(1749)高寛41歳の時に、藩政改革と綱紀粛正の指針として岩井田昨非が進言した戒石銘碑を藩庁入口に建立。この碑には「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」という四句十六字の漢文が刻まれています。
「お前達武士の俸給は、民が脂して働いた賜物より得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて民を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」という意味のこの文は藩庁に出仕する藩士を戒める意味がありました。
しかし、辞句の曲解などが広まり、それが凶作下の農民に広がると、積達農民一揆が起き、別名昨非騒動とも言われました。高寛の目指した改革は成功したとは言えませんが、高寛が戒石銘碑に表した「孝」「敬」「義」の精神は後世に受継がれ、二本松藩の士風の形成に大きな影響を与え、戊辰戦争の少年隊士にも受け継がれた言われています。



私は二本松を訪れた際にはこの戒石銘碑を必ず訪れています。

高寛の墓は二本松市成田町曹洞宗大隣寺の丹羽家歴代墓所にあり、岩井田昨非の墓は同市竹田浄土宗台運寺にあります。岩井田昨非の墓については以前の記事で紹介しています。

8月11日・12日 郡山・二本松調査

高寛が本家を相続したため、次弟の長利が旗本家を相続し、その子長裕に高寛の娘が嫁いでいます。長利の次男長義は清水徳川家に仕え、三男直温は旗本竹垣直照の養子となり、竹垣家を相続。竹垣家が世襲していた代官職を継ぎ、大坂谷町代官・関東郡代付代官などを歴任。大坂代官時の手腕が買われ、荒廃した北関東の農村の復興に尽力しました。その施策は間引きの禁止、産児奨励金支給制度、越後の真宗門徒を入植、民衆教化のために心学者の講話を行うなど多岐にわたり、死後、真岡・上郷に徳政碑が建立され現在も残っています。その子直清も代官を務め、その日記は『江戸幕府代官竹垣直清日記』(新人物往来社)に翻刻されています。

竹垣家の菩提寺は港区愛宕にある清岸院であり、2013年秋に竹垣家の墓所の所在をご住職に尋ねた所、現在竹垣姓の檀家はおらず、寺の記録も明治以降のものしか無いとのことでした。清岸院の場所も100年前程に青松寺入口右側辺りから移転しているとのことで、古い墓碑も無いとのことでした。名代官竹垣直温の墓所が不明になってしまっていることは大変残念に思います。
尚、前述の徳政碑はつくば市上郷金村別雷神社と真岡市田町海潮寺に現存しています。

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池上太郎左衛門幸豊-田沼意次のブレーンとなった川崎の名士-

2015-11-25 00:02:14 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
以前、第8回染井周辺寺院巡墓会にて老中田沼意次の解説をしました。
所謂「ワイロ政治」で悪名名高い田沼意次ですが、実際の姿はワイロ政治家とはほど遠い、かなり開明的な名政治家であった事を当会幹事全員で解説しました。
その際に私は意次のブレーンの一人として、川崎の大師河原村名主池上太郎左衛門幸豊を紹介しました。
田沼政治に関してはだいぶ再評価がされて来ていますが、まだまだワイロ政治の文脈で語られる事がありますので、池上幸豊を通して田沼政治の擁護をしたいと思います。

殖産興業を進める意次は朝鮮人参の国産化、白砂糖の国産化などに取り組みました。意次はこれらの政策を推し進めるために民間の力を積極的に利用しました。
その流れの中で、意次は白砂糖の国産化のために川崎大師河原村の名主池上太郎左衛門幸豊を重用したのです。

池上家は本姓藤原氏、家紋は雁金。遠祖池上左衛門大夫宗仲が日蓮を庇護し、その死後、日蓮が死去した場所である自邸を寄進し、寺院を建立し、それが現在の池上本門寺に発展して行きました。池上氏は本門寺の大檀越として、池上の地で力を保持して戦国期に至りますが、江戸初期の21代当主幸広が池上の地から川崎大師河原へ新田開拓のために一族郎党を引き連れ移住し、大師河原村の名主となりました。

24代幸豊は新田開発を積極的に行い、現在でも川崎区池上新町という地名に新田開発の名残りが残っています。
幸豊は甘蔗の栽培にも力を入れており、本草家田村元雄(藍水)の許で甘蔗から白砂糖を製造する方法を学び、白砂糖の国産化を目指しました。当時白砂糖はオランダ・中国からの輸入に依存しており、国産化が課題となっていました。
幸豊は明和3年(1766)に御用取次であった意次の上屋敷で砂糖製造の実演を行いました。これは田村元雄と意次の関係からと思われます。意次の知遇を得た幸豊は、明和5年(1768)甘蔗砂糖の製法を伝授するため、幸豊が関八州その他の農村へ巡回するのを許され、その礼状を意次に送っています。天明6年(1786)には京・大坂・畿内の農村へ巡回を許され、意次の支援を受けた幸豊によって白砂糖の国産化は飛躍的に進むこととなりました。

幸豊の墓は川崎市川崎区大師駅前2丁目の池上家墓地(池言坊)にあります。



これは2011年4月30日に撮影したものです。
同墓地には幸豊の養女となった成嶋道筑の娘の墓もあります。



成嶋道筑と言えば、8代将軍吉宗の侍講を務め、子孫には成嶋柳北がいます。一名主の家が幕臣との姻戚関係を結ぶという事から見ても、当時の幸豊の出世の様子が窺い知れます。
もし意次が失脚せずに政策が継続していたならば、幸豊は確実に幕臣に取り立てられていた事でしょう。

池上本門寺には日蓮を庇護した池上宗仲夫妻の墓所があり、隣には池上家の墓所もあります。



歴代の名が刻まれた墓誌には幸豊の名も刻まれています。
與楽院博望十利大本日豊居士 寛政十年二月廿五日 幸豊
いずれ池上本門寺でも巡墓会を開催したいと思っております。
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探墓巡礼顕彰会では12月13日(日)に【探墓巡礼顕彰会オフ会-芝金地院巡墓会-】を開催します。
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「二本松市の指定文化財」展と二本松菊人形

2015-11-24 00:00:01 | 日記
会員のカネコです。
11月15日(日)に二本松へ日帰りで行って来ました。
二本松歴史資料館では二本松市合併10周年記念特別企画展「二本松市の指定文化財」展が10月3日(土)から11月29日(日)まで開催されています。







市内に点在する貴重な指定文化財が一同に会する貴重な企画展です。
私が特に見たかったのが、大隣寺に所蔵されている丹羽家御歴代の肖像画です。
この肖像画は『二本松藩史』にも白黒写真で載せられていますが、現物を見る機会はなかなかありませんので、とても満足しました。
あの有名な初代長秀公の肖像画に始まり、11代長富公まで全ての肖像画をじっくり見ました。
ふと気づいたのが、6代秀延公は36歳で亡くなっているのですが、肖像画では白髪混じりの老人の姿で描かれている事でした。これは『二本松藩史』の白黒写真では分からない部分でしたので、実物を見てこれは何故だろうという疑問が起こりました。これは謎です。

その他、11代長富公筆の藩校敬学館の扁額、狩野益信筆の3代光重公の小姓西村志摩之助の肖像画など丹羽家好きにはたまらない内容となっています。

秋の二本松と言えば、二本松提灯祭りと菊人形です。
二本松提灯祭りは毎年10月4日から6日に開催される祭りで、二本松に生まれた人にとっては1年の内で最も大切な3日間です。この祭りは必ず4日から6日と決まっているので、平日に開催される事が多く、私は数年前に1回と、幼少時に行ったくらいです。数年前に行った際は、晴天で太鼓台に提灯が灯され二本松町内を曳き回す姿は圧巻でした。私の両親が二本松から川崎に移住した後も提灯祭りをいつも懐かしんでいた気持ちが良く分かりました。



これは7月に二本松へ訪れた際に購入した二本松限定発売のガイドブックです。

今年は提灯祭りには行けませんでしたが、菊人形が11月23日まで開催されているので、行ってきました。この日は午前中に小雨が降っていましたが、雨に濡れた菊の花もまた趣があるものでした。











今年はのテーマは「幕末維新伝」で、松下村塾、和宮降下、池田屋事件、戊辰戦争などの菊人形が並んでいました。丁度紅葉も見頃でした。

この日の午後は雨が止み、薄日が差してきたので、恒例の寺院巡りをして二本松藩士の墓所を調査しました。こちらの方はまた機会がありましたら書きたいと思っています。

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続・江戸蒲田氏の墓

2015-11-23 00:13:34 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
2011年の記事になりますが、私が長年住んでいた川崎にある江戸蒲田氏の墓所について書きました。

江戸蒲田氏の墓

現在の東京の父とも言うべき江戸氏は、鎌倉・江戸時代にかけて江戸を中心に勢力を誇示していましたが、小田原北条氏の勢力に押され衰退。
一族の中から、旗本となった喜多見氏がおり、喜多見重政は5代将軍綱吉の側用人として出世し武蔵喜多見藩主として大名になったものの、元禄2年(1689)将軍の意向にしばしば背き、勤務も疎かであるとして突如改易となっています。
また、常陸に勢力を広げた江戸氏の子孫は結城秀康に仕え、水戸氏と改姓して、福井藩士として続いています。

そして、蒲田氏は現在の大田区を中心に勢力を持っていた一族で、「大慈恩寺文書」などに見られる江戸蒲田四郎入道道儀の代に勢力を拡大したと考えられています。
蒲田氏については系図が残されておらず、はっきりとした系譜は不明ですが、『関東武士研究叢書1江戸氏の研究』の門馬義芳「江戸蒲田氏の研究」に平賀本土寺大過去帳より蒲田氏関係者の記載を抜き出し、系図を復元したものが記載されています。
蒲田氏は小田原北条氏の麾下に入り、蒲田重武の代に小田原北条氏が滅亡、土井利勝に仕官し、禄100を賜っています。その子孫は後に土井家を去り、相馬中村藩主相馬家に仕官し、小嶋と姓を変え、幕末まで続いています。その系譜は『相馬市史資料集 衆臣家譜』に記されています。

「江戸蒲田氏の研究」には川崎区大田区円真寺の他に、妙典寺にある蒲田氏の墓について書かれており、「蒲田下総守致重入道重蓮墓碑 五世孫兵庫重行謹建」から始まる撰文が載せられています。この致重は『相馬市史資料集 衆臣家譜』の小嶋氏の項の冒頭に書かれている「江戸新五郎致重于武州六郷蒲田故称氏蒲田」とある人物で、この致重より三代下総守定重男が蒲田重武となっています。ただし、撰文では致重は慶長13年(1608)90余歳で没しており、4代の孫である重武が「慶長之末年歿」とあるので、時代が少々合わない気がします。
墓碑は妙典寺の境外墓地にあり、塀際にあるため、撰文が読みにくい状態となっています。





この墓碑の周囲には蒲田にそのまま土着した子孫の墓があり、これは『新編武蔵風土記稿』に記されている北蒲田村旧家百姓権兵衛の家であります。『新編武蔵風土記稿』には各村の旧家についての記載がありますが、武蔵国にはやはり北条や武田の旧臣が土着しているケースが多く見られます。

江戸蒲田氏の子孫は相馬藩士や、本拠地であった蒲田や、以前の記事に書いたように蒲田から多摩川を挟んだ川崎南河原に土着して現在も続いています。

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