会員のカトケンです。
静岡の実家に帰る都度、故前田匡一郎先生の著作をもとに幕臣墓を巡るのを常としています。
以前もご紹介したとおり、静岡市沓谷にある蓮永寺は幕臣墓の宝庫です。目下、平成大改修中で墓域の様相も変わりつつあります。
1月4日、1月17日 静岡市① 臨済寺 蓮永寺
今回訪れたのは、静岡のローカル書店である吉見書店を創った幕臣吉見義次の墓。(=写真)
場所はお万の方供養塔のほぼ傍らと言ってよく、本堂から墓域のある山側へ向かって伸びた通路の右手に位置します。
墓碑正面には戒名しか刻まれていないのですが、墓碑前にある両側の花立てに吉見と刻まれているため、見つけやすかったです。
状態がよく左右側面に刻まれた事績がたいへん読みやすくなっています。
銘に曰く、弘化2年7月24日生まれ(1845.8.26)、幼名銀之助。父儀助、勘定職。開成所教官、外国奉行配下、欧文を掌る。明治戊辰後静岡へ移住、静岡藩学校に奉職。
明治13年(1880)安西に書籍店を開店、のち呉服町の現所に移舗。国定教科書の特約販売所となる。
大正5年(1916)1月16日病没、享年71。撰者不詳。法名「荘徳院義次日正居士」(墓碑正面)。
妻八重の墓は背面の階段を登ると同じ向きで建っています。法名「荘妹院妙重日義大姉」(正面)、同じく大正5年11月23日、やはり享年71歳(左面)。
この吉見書店は、かつて静岡きっての中心街呉服町(伊勢丹のとなり)にありましたが、今は郊外へ移転。
まだその書店が呉服町にあったころ、少年時代の筆者は釣洋一先生の『新選組再掘記』(新人物往来社)にそこで出合ったのです。
初版は昭和47年ですが、小弟が手にしたころは版を重ねて平成になっていました。
当時は中学から高校へ上がる時分ですから1,800円ほどの新刊本など買えるような身分ではありませんでした。高校も終わりのころになって県立図書館に入っているのがわかり、坂道を自転車で駆け上がっては借りにいったものです。
ようやく手に入れたのは、社会に出るころになって高知の古書店でのことでした。
そんな思い出深い書店の創業者が幕臣だったとは、何とも奇しき縁と言えましょう。
幕臣の後裔として、今や直に薫陶を受けることになった釣先生に激励されながら、なかなか幕臣研究がはかどらず忸怩たる思いの今日このごろです。
(静岡市沓谷2-7-1)
静岡の実家に帰る都度、故前田匡一郎先生の著作をもとに幕臣墓を巡るのを常としています。
以前もご紹介したとおり、静岡市沓谷にある蓮永寺は幕臣墓の宝庫です。目下、平成大改修中で墓域の様相も変わりつつあります。
1月4日、1月17日 静岡市① 臨済寺 蓮永寺
今回訪れたのは、静岡のローカル書店である吉見書店を創った幕臣吉見義次の墓。(=写真)
場所はお万の方供養塔のほぼ傍らと言ってよく、本堂から墓域のある山側へ向かって伸びた通路の右手に位置します。
墓碑正面には戒名しか刻まれていないのですが、墓碑前にある両側の花立てに吉見と刻まれているため、見つけやすかったです。
状態がよく左右側面に刻まれた事績がたいへん読みやすくなっています。
銘に曰く、弘化2年7月24日生まれ(1845.8.26)、幼名銀之助。父儀助、勘定職。開成所教官、外国奉行配下、欧文を掌る。明治戊辰後静岡へ移住、静岡藩学校に奉職。
明治13年(1880)安西に書籍店を開店、のち呉服町の現所に移舗。国定教科書の特約販売所となる。
大正5年(1916)1月16日病没、享年71。撰者不詳。法名「荘徳院義次日正居士」(墓碑正面)。
妻八重の墓は背面の階段を登ると同じ向きで建っています。法名「荘妹院妙重日義大姉」(正面)、同じく大正5年11月23日、やはり享年71歳(左面)。
この吉見書店は、かつて静岡きっての中心街呉服町(伊勢丹のとなり)にありましたが、今は郊外へ移転。
まだその書店が呉服町にあったころ、少年時代の筆者は釣洋一先生の『新選組再掘記』(新人物往来社)にそこで出合ったのです。
初版は昭和47年ですが、小弟が手にしたころは版を重ねて平成になっていました。
当時は中学から高校へ上がる時分ですから1,800円ほどの新刊本など買えるような身分ではありませんでした。高校も終わりのころになって県立図書館に入っているのがわかり、坂道を自転車で駆け上がっては借りにいったものです。
ようやく手に入れたのは、社会に出るころになって高知の古書店でのことでした。
そんな思い出深い書店の創業者が幕臣だったとは、何とも奇しき縁と言えましょう。
幕臣の後裔として、今や直に薫陶を受けることになった釣先生に激励されながら、なかなか幕臣研究がはかどらず忸怩たる思いの今日このごろです。
(静岡市沓谷2-7-1)