探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

7月14日 座間市 宗仲寺

2010-07-16 20:27:21 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

内藤新宿を拓いた関東総奉行 内藤修理亮清成の墓がある神奈川県座間市の宗仲寺を訪ねました。

徳川家康が鷹狩の休息所としてしばしば立ち寄り、また家康の霊柩が駿河久能山から日光へ遷されるときにもこの寺に寄ったと伝えられる由緒正しき寺院です。

本堂裏の墓域に一段高くなった小さな空間が歴代上人と内藤家の墓地になっています。

内藤清成は三河岡崎生まれ。竹田宗仲の息子で、のち高遠内藤家初代忠政の養子となっています。実父の菩提を弔うために岡崎の大樹寺から暁誉源栄上人を呼び寄せて創建。ゆえに「宗仲」寺というわけです。

向かって左側に内藤一族の供養塔である宝篋印塔が3つ、縁者の墓という五輪塔が1つ。

古記録には竹田宗仲夫妻・内藤家二代清成・三代清次・四代清政の5基があったとされていますが、今は4基しか現存しません。

いちばん手前には白い「内藤家之墓」と刻まれた墓碑があり、右面には「正覚院殿誓誉願海明雲浄光大居士 昭和十九年十一月六日寂 頼輔六十八才」、裏面には「昭和二十三年十一月建之 施主内藤頼博」とありました。(=写真)



頼輔は、現当主頼誼氏の祖父で最後の藩主頼直次男。建立者頼博は頼誼氏の父です。

真ん中の宝篋印塔にわずかに文字が刻まれています。残念ながらほとんど読めませんでしたが、これが清成の墓碑だそうです。(=写真)



一方、右側には奥から南無阿弥陀仏の文字が刻まれた暁誉源栄上人の墓をはじめ、中興得誉上人(二十二世、大正年間没)、同上人歯骨墓ほか2基と墓誌がありました。

内藤家の墓は新宿区太宗寺など各所にあるため、これを機会に網羅的にまわってみるのもおもしろいかもしれません。

参考文献:図録『内藤清成と高遠内藤家展』(新宿歴史博物館)

宗仲寺は、宗派が浄土宗、山号が来迎山、院号が峯月院。

JR相模線 相武台下駅から徒歩5分。
(座間市座間1-3300)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月22日 上高田・沼袋調査

2010-07-13 21:16:49 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
3月22日に中野区上高田・沼袋の寺院調査をしました。

上高田は都内有数の寺院密集地域です。
私は過去数度訪れていますが、今回は未見の人物を中心に調査しました。

松源寺は宇都宮・足利両藩の戸田家の菩提寺で知られますが、旗本の墓も数多くあります。稲富直賢、馬場大助、小野高尚の墓を見ました。

隣の宗清寺では外国奉行水野忠徳、天徳院では松の廊下で浅野内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛(写真)、常陸麻生藩主新庄家の分家を見ました。


梶川与惣兵衛の墓は無縁墓の集石地にあり、六角柱の墓石正面に[梶川家先祖代々墓]右側面に与惣兵衛の名が刻まれています。

功運寺は吉良上野介の墓があることで知られますが、今回は浮世絵師の歌川豊国の墓を見ました。他に下野黒羽藩主大関家の墓碑を1基づつ撮影しました。

隣接する自証院墓地に山名家の墓があるとの情報があるので、確認しに行きましたが、見つかりませんでした。20年前くらの本からの情報なので、改葬された可能性があります。

この後、電車で沼袋へ向かい、貞源寺の心形刀流伊庭家の墓(写真)を見に行きました。


伊庭家の墓は墓地の入口前に10基が1列に並んでいます。
平成十八年に改修され現在の位置に移された旨が脇に建てられた碑に刻まれていました。
初代伊庭秀明から伊庭八郎の弟で星亨を暗殺した想太郎までの墓があり、八郎の墓(写真)は右から2番目に建っています。


墓碑正面左側に[秀業次男秀俊養子俗稱伊庭八郎 秀頴院清譽是一居士 明治二年己巳五月十二日]と刻まれ、正面に左側には[秀業後妻 智鏡院圓譽照榮大姉]と八郎の実母マキの法名が刻まれています。
一番右側の墓碑が想太郎の墓で[伊庭想太郎 伊庭貞子 墓]と刻まれています。
私は88年に放送された年末時代劇スペシャル『五稜郭』のファンでもありますので、今回、また一人『五稜郭』登場人物の墓を訪ねることができたことに感慨深いものを感じました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月21日 高輪・麻布調査

2010-07-03 23:16:45 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
3月21日に高輪・麻布で調査をしました。

まず高輪の広岳院へ行きました。
墓地入口横には宮内庁で管理している正親町天皇皇孫興意法親王の墓があります。
墓地の中ほどに肥前鹿島藩主鍋島家の墓(写真)が10基ほど並んでいます。


さらにその奥には分家の旗本鍋島家の墓が20基ほど並んでいます。
その他に旗本山口家や高家畠山家(旧管領家)など江戸期の墓が良好な形で残っていました。

次に麻布の善福寺へ行きました。
ここは福沢諭吉の墓があることで知られていますが、撮影禁止となっているため写真はありません。

最後は賢崇寺で肥前佐賀藩主鍋島家の墓を調査しました。
以前、ここには10代直正の墓がありましたが、夫人の墓とともに佐賀の春日山墓地に移されました。
私は20年前くらいにこの墓を見ましたが、それ以来の訪問でした。
跡地には石燈篭が集められており、鍋島一門や大隈重信(写真)、副島種臣ら元佐賀藩士の名が見られました。


本堂裏には江戸期の鍋島家の巨大な五輪塔が立ち並んでいます。

一般墓地には佐賀藩士の墓が多く見られ、北海道開拓使西村貞陽、岩倉使節団の一員で歴史家の久米邦武の墓(写真)がありました。


久米邦武の墓は鍋島家の墓の横にありました。[文學博士久米邦武 配淑子 墓]と刻まれています。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月20日 上尾・鴻巣・東浦和調査

2010-07-03 22:39:55 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
3月20日に上尾・鴻巣・東浦和調査で調査をしました。

まず上尾市内の妙厳寺の遠江横須賀藩主西尾家の墓(写真)を見に行きました。



ニューシャトル原市下車徒歩10分くらいの所です。
墓地の中央奥に初代吉次から11代忠篤(子爵)までの歴代当主にの墓が並んでいます。多くの墓型は五輪塔でした。
12代以降は谷中霊園にあり、江戸期の子女墓は四谷勝興寺にあります。

次に、ここから徒歩5分くらいの放光院で旗本松下房利の墓を見ました。
参道横に変形宝篋印塔が1基あります。

その後、鴻巣駅から徒歩10分くらいの勝願寺へ行きました。
ここには関東郡代伊奈家の墓(写真)があります。



墓地の中央に石柵に囲まれた宝篋印塔が4基建っています。
初代忠次、忠次正室、2代忠治、忠治側室の初期伊奈家の墓です。
伊奈家の墓はその他に川口市赤山の源長寺や以前、森重さんにお教え頂いた江東区正源寺などにあります。

本堂の左横には小諸城主仙石秀久(写真)、真田信之の三男信重、信重正室、信之の正室小松姫の4基が並んでいます。



本堂手前右側の柵に囲まれた一角に丹後田辺藩主牧野家の墓地があります。
ここは非公開ですが、仁王門からその一部を垣間見ることができ、子爵牧野弼成夫妻の墓碑銘を確認することができました。

その他、一般墓地では『武蔵鑑』著者福島東雄、俳人横田柳几の墓を見ました。

最後は東浦和清泰寺にある武田信玄の女で保科正之の育ての親である見性院の墓を見に行きました。
東浦和駅から徒歩10分くらいの所で、墓地の最奥にあります。
入口は柵で囲まれ中に入れませんが、柵外より正面に[見性院之墓]と刻まれた墓碑を確認することができます。手前には葵の紋が彫られた門扉が建てられています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月19日、26日 染井霊園

2010-07-01 01:56:48 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

秋の巡墓会の下見を兼ねて、事前調査に来ました。

最初は三菱関係者の一角にある新撰組山脇隼太郎の墓。(=写真)



旧桑名藩士で、維新(瓦解)後米国留学を経て三菱勤務。高島炭鉱事務長など要職を勤めました。

最近、父の薦めで山脇と高木剛次郎を主役にした『昭和を生きた新選組』(瀧澤中著、経済界)を読んでいただけに、感慨深いものがありました。

墓碑正面には「山脇正勝墓」と瓦解後の名が刻まれています。明治二十八年(1895)五月六日卒と左面にあります。
(一種イ4号15側)

だいぶ離れた場所にあるのは坪井信道ら三代ならびに坪井家之墓。(=写真は信道、信良の墓)



信道、号は誠軒。蘭方医で緒方洪庵、川本幸民らの師匠です。大鳥圭介、大村益次郎、福澤諭吉など緒方洪庵門下はよく紹介されますが、わが国蘭学の隆盛は実にこの坪井による貢献が大なのです。

その養子信良は越中高岡出身で将軍奥医師、その息子正五郎は人類学者となっています。
(一種イ8号6側)

また、今回偶然見つけた興味深い墓と、やっとの思いでたどり着いた墓が1つずつあります。

まずは偶然の方。陸羯南からの右側程近くにあった高島炭鉱技士 田嶋虎衛の墓。(=写真)



右隣にある母親の墓碑の裏面にある「高知県士族」の文字がたまたま目に留まり、碑面を追っていくと、明治5年(1872)土佐に生まれ同志社へ入って高島炭鉱へ。不幸なことに炭鉱のガス爆発により35歳で逝去した人物でした。

土佐出身で三菱系の人物の墓はこの染井霊園に多々ありますが、場所も全く離れたところにある三菱系の人物として、紹介 致します。
(一種イ8号4側)

さて、もうひと方は幕臣、浦賀奉行所与力にして瓦解後、海軍大尉になった香山永隆の墓。こちらはいくつかの文献に染井霊園にあることは書かれているのですが、何せ広い霊園内、場所の特定が容易ではありません。ローラー作戦で数時間廻り続け、やっとの思いで見つけました。(=写真左)



同じ敷地内に中島義生家累代之墓と書かれた墓があり、こちらは同じ浦賀奉行所与力中島三郎助の孫に当たる家で、元々香山家とは縁戚関係にあります。
(一種イ5号1側)

ここで悔しい話をひとつ--この霊園を探して未だたどり着けずにいるのが、高知市桂浜の坂本龍馬像を創った本山白雲の墓です。

高知県西部宿毛の出身で、靖国神社前の品川弥二郎像を高村光雲とともに作成した人物でもあります。

光雲ゆかりの人物だけにその近くを隈なく当たりましたが、未到達。どなたか教えていただけませんかというのも悔しいので、探索中ということにしておきましょう。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする