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探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

明治新政府に抗った堀内誠之進墓ー滋賀県大津市月見山墓地

2025-01-31 00:26:46 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

行ってまいりました!京都府へ引っ越してきて、昨夏1日鈍行を乗り継ぎ、一路大津へ。大津京駅で降り、まずは尾花川の膳所藩士「川瀬太宰先生邸宅趾」(=写真)。杉浦重剛謹書、裏面に「大正十一季四月三日/有志の寄附金を以てこれを建つ/尾花川靑年會」と刻む。



慶応元年(1865)閏5月、将軍家茂入京に際し、地雷で襲おうとした膳所藩士たち。新選組佐野七五三之助らが京から出動したところ、川瀬の妻幸が少々お時間をといふ間に夫へ宛てた同志の書簡を燃やし、証拠隠滅。川瀬はその後処刑されたーー

川瀬の住まいのあった通り、尾花川は道沿いに昔ながらの住宅が残っていて雰囲気があった(=写真)。そこから三井寺(=写真)の横にある大津市歴史博物館へ徒歩でものの10分くらいだろうか。「京極高次」展を鑑賞。





丹後国峰山藩の殿様京極家の本家であり、将軍家光の伯母常高院の嫁ぎ先として興味があった。

高次の置かれた秀吉と家康との絶妙な距離感、明智光秀との絡みもあって、戦国大名を個別に見ると様々な動きがあり、そのダイナミズムに触れた気がした。大河ドラマにしても、十分1年持つ生涯ではないかと思った。

その日は客足も大勢で、福田千鶴先生の講演会が催され、その時間になったら展示室の人たちがドッといなくなった。小弟はといふと、申し込み忘れてしまっただけである。

ただし、展示がじっくり見られた上、常設展では大津京の復元模型なども堪能。また博物館の過去の展示図録が充実しており、ちょうど大河ドラマ「麒麟がくる」の年に催された展示図録を求め、少し前に訪れた丹波篠山と光秀の関係なども分かり、収穫であった(写真は博物館からの琵琶湖の眺め)。



そこから琵琶湖疏水の大津側の口を見つつ(=写真)、川瀬太宰の墓を探したがたどり着けなかった。これは次回の課題としたい。京都へ抜ける街道沿いにある場所にあるはずなのだが、よう探せなかった。



気を取り直して最終目的地、土佐藩出身で明治新政府に全国の仲間と抵抗した堀内誠之進の墓を目指した。小弟の卒論を参考文献に掲げてくださった遠矢浩規先生の著書『明治維新勝者の中の敗者ー堀内誠之進と明治初年の尊攘派』(山川出版社、令和3年刊)に載った月見山墓地にある墓碑である。

滋賀県庁の南側の通りを東へ行き、大きな通りの少し手前に月見山墓地への参道がある(=写真)。民家に突き当たって左側に進むと墓地へ通ずる道がある(=写真)。





東海道線が見え、ホテルアルファワンを背にやや茶色みがかった自然石の墓が他の墓に挟まれるように建っていた(=写真)。JR大津駅から徒歩で十分行ける距離にあった。




薩摩の横山安武(森有礼の兄)など自ら身体を張って反抗するなど、できたばかりの明治政府を転覆しようとした堀内のような人たちは大勢にはならなかったが、かなり全国展開しており、それだけ明治政府が初期から民衆のためになっていない政治を行い、馬脚を露わしていた証であろう。

土佐と近江の関係は、山内一豊が長浜城主を務めたり、その母法秀尼の墓が近江国坂田郡(滋賀県米原市)にあるなど深いものがあるから、堀内の墓もまた1つその関係に1ページを加えた史跡として刻まれよう。

だいぶ時代が錯綜するが、幕末のみならず戦国時代の土佐関係が絡むと京都でも一豊とその夫人見性院や、見性院から一豊へ石田三成の挙兵を伝えた家臣田中孫作の墓が妙心寺大通院にあるし、明治にも琵琶湖疏水建設に尽力した坂本則美や河田小龍との関係も相まって話題が尽きない。

坂本則美は、このほかにも兄則敏がつくった堕胎・圧死の悪い習慣を矯正するための組織「しんしん社」(漢字は言偏に先の繰り返し)の社長となり、その経営に尽くした人で、高知県議、京都から衆議院議員にも出ている。その後、鉄道や炭鉱会社の社長を務めた。大徳寺芳春院に墓があるというが、見学できるのだろうか。龍馬以外の土佐の坂本にもこうした注目すべき人物がいる。

河田小龍については、昨年11月に高須の高知県立美術館で20年ぶりに絵の展示が催された。岡豊の高知県立歴史民俗資料館と桂浜の高知県立坂本龍馬記念館と3館同時開催と云ふまたとない小龍祭りであったが、残念ながらこの絶好の機会を逸してしまったーージョン万の漂流記を絵を交えて記した『漂巽紀畧』の著者であることはもとより、坂本龍馬・近藤長次郎・新宮馬之助ら亀山社中から海援隊になる海の漢たちを育てた師匠の足跡にもっと光が当たってもよかろう。小龍の墓は等持院にある。

幕府側からみた琵琶湖疏水として、田辺朔郎やその岳父北垣国道を以前このブログでも取り上げたが、案外土佐の人が関わっていて面白い。



高知県令も務めた鳥取出身の北垣と坂本龍馬、おそらく千葉重太郎との関係からできた人脈と思うが、その辺りも絡んできてなおさら興味深い。

ともあれ、ようやく目的を果たし、帰途に就いたが果たして、堀内誠之進ゆかりの土佐の墓も訪ねてみたいと思い、また新たに土佐での深掘りを続けたくなった。関西に来ると、土佐が一段と近く感じた。

さて、来たる2/8(土)第27回土佐史談会関東支部例会「長宗我部氏と土佐の自然」(東京都立大大学院生吉澤林助氏による講演)、ぜひお越しください。東京都港区新橋の酒菜浪漫亭15:30〜。お待ちしております。

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炎天下の遠州浜松を往く

2023-08-02 00:12:44 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

先々週の3連休を利用して、遠州浜松を訪れた。巡墓会開催に当たり、見ておきたい墓があったからだ。

目的の寺院は、地図で調べると駅から近いため、実家に帰りついでに前田匡一郎著『駿遠に移住した徳川家臣団』から、浜松市内の幕臣墓をピックアップした。

いくつかの候補と箱館戦争に参加した新選組中島登・土方歳三の終焉に立ち会った大島寅雄関連も時間が許す限り、回ろうという計画だ。

ただ1つ気がかりなのは、会津藩士北原雅長(神保修理実弟)の墓が家康夫人築山の墓と同じ寺院であることだ(西来院=写真)。さすがに大河ドラマで取り上げられたばかり。さぞ人出が多かろうというものだ。



ともあれ、案ずるより産むが易しでいつもなら東京ー静岡間の新幹線代を下ろして実家に帰るのだが、浜松行を見越して静岡ー浜松間の新幹線代も余計に下ろしてきた。

幸い、家の用事も土曜に済ませ、日曜午前身体が空いたことから、浜松掃苔に出た。

目指すは心造寺(浄土宗、先照山。中区紺屋町300-19)。何十年ぶりの浜松散策で大都会の雰囲気を味わいながら、炎天下に晒される中、母が持たせてくれた日傘を差しながら歩いた。

心造寺は、新選組中島登の鉄砲火薬店跡の筋向かいにあった。同じ町内というのは判っていたものの、こんなに目の前だとは思わなかった。(写真=中島登宅跡現状)



心造寺の墓域は、緩やかな坂を登り、本堂の左手をさらに登ったところにあった。幕臣津田誠之(学問所勤番、三重県七等属)の墓(=写真)は墓域のほぼ中央にあったが(天保2年[1831]生〜明治25年[1992]3月17日没)、目的の新村信の実父松平勘十郎政隆(大番。明治8年[1875]1月13日没。祐善院保誉勝道居士)の墓は無かった。



信は徳川慶喜の側室で、慶喜家を継いだ(徳川宗家とは別に家を立てた)慶久や勝海舟の養子になった精の生母である。新村の苗字は、慶喜の家臣新村猛雄の養女になったからだ。

松平家の墓が1軒だけあったが、雑司ヶ谷霊園にある松平忠政(信の兄弟)の墓の家紋と違うため、同じ家ではないと確認できた。

津田家の背後にいかにも立派な、墓域中央に位置するに相応しい墓碑があったが、勘十郎の戒名とは違っていた。

ここの貴重な墓といえば、山葉家のものだろう。楽器やオートバイを製造している、浜松で、否、日本でも有力なメーカーの創業者の家である。傍らに昭和17年8月8日に建てられた創業者の跡継ぎ[山葉直吉翁記念碑]がある。

さて、そこから同じく中区鴨江にある鴨江寺墓地(鴨江3-19。寺院とは離れた場所にある)を目指した。途中、坂がきつく難儀したが、時折さわかやな風が吹いて心地良かった。

鴨江寺墓地の主は大島寅雄である。インターネットで調べてみると、正面の3名の戒名の右端が大島で、右面に[大嶋慎清]と書かれており、戒名にも諱である[慎清]の2字が入っている。残念ながら、没年月日が刻まれていない。

墓地に向かって右端に近く、手前から5列目にあった(=写真)。墓に3体の観音像が供されている。



大島寅雄は幕臣、小人目付。清水平次郎の長男だが、慶応2年(1866)に絶家の大島宗右衛門家を継いでいる。戊辰4月に江戸を脱し、伝習第一大隊に属す。会津母成峠の戦いで負傷し、新選組中島登に救われ、仙台へ出て蝦夷へ投じた。

箱館政権では陸軍奉行添役を務め、土方歳三の戦死を五稜郭に伝えた。降伏後、浜松で代書人をしていて、中島登に偶然再会している。

天保13年5月15日(1842・6・23)生まれ、大正5年(1916)11月7日、75才没。

墓地向かいの家に建物を挟んでスペインとイタリアの国旗が掲揚されているのが印象的であった。

ここから浜松城方面に舞い戻って(今度は下りだから楽である)、北原雅長の墓を目指した。例の築山と同じ西来院の墓所である(曹洞宗、高松山、中区広沢2-10-1)。

下りでは街が眺望できたが、再び登り坂を経て寺院の石柱に出くわした。2台も車が出てきたため、さぞ混んでいるかと思ったが、意外や意外行ってみると本堂は無人でお参りができるようになっており、手前に寺のパンフレットらしきものがガラスケースの中の掲示板(寺院によくあるもの)に家康と築山の系譜など詳しく解説されたものが貼られていた。

本堂に向かって左手の森のようになっている墓地を入り、右側に行くと築山の墓所[月窟廟]があり、そこを通り過ぎて、右手に松下家の墓があるところまで来たら、左に曲がると2番目に北原雅長の墓があった(=写真)。墓碑の正面左真ん中やや下に[妻いと]と刻む。



会津藩家老神保家は北雅長の兄修理が藩主松平容保が鳥羽伏見の戦のさなか慶喜とともに江戸へ去ったことの責めを負って切腹、父内蔵助利孝も会津戦争で命果てた壮絶な家であった。

北原は『七年史』(日本史籍協会叢書)を著すことで京都守護職の命を受け、王城の都を護ったときから会津戦争敗戦までの七年間の会津藩の正当性を主張したかったのだろう。

ともすると、会津戦争ばかりが取り上げられるが、天誅組の変や禁門戦争を鎮圧し、都を護った会津藩の功績は大きい。

北原は禁門戦争を、また戊辰の役では若松城を守り戦った。瓦解後は工部省に、のち初代長崎市長、東京下谷区長を務める。浜松には晩年隠棲した。大島と同じ天保13年(1842)生まれ。通称半助。大正2年(1913)7月24日、72才没。

帰りに築山の墓所に詣でた(=写真)。右手の看板に詳しい解説があり、築山切腹は未だに謎と書かれていた。戒名は[清池院殿潭月秋天大禅定法尼]。天正7年8月29日(1579・9・29)、38才没。父は関口親永、母は今川義元妹。



築山の墓は戦災で焼失し、昭和53年四百年忌に復原されたもの。

左手に家康の異父弟松平源三郎康俊の墓もある(=写真)。天正14年4月3日(1586・5・21)没。裏面に[松平大蔵少輔源勝以これを造立す]と刻む。



残念ながら中島登の墓天林寺までは行けなかった。後で調べてみると幕臣の墓があったようで、下調べの不完全さが露呈してしまった。見つからなかった、足を伸ばせなかった幕臣の墓とともにまたの機会に訪れたい。

西来院から浜松駅に戻る途中の中華料理店で昼食をとった。あまりの値段の安さに驚いてしまったが、頼んだチャーハンは肉や玉ねぎがゴロンと入っていて黒っぽく、チャーハンというよりヤキメシという感じであった。

最後に西郷局が生母である徳川二代将軍秀忠の産湯の井戸を訪ねた(=写真。遠州鉄道「遠州病院」駅入口左手)。ここから西に五百メートルのところが産湯の井戸と解説があるのになぜか井戸があったから、復元なのだろう。また、浜松城内という説もあると案内板に記載されていた。



静岡県西部の幕臣墓は中々足を運べずにいるが、最初に挙げた前田著書に載っていても墓が見つからないところがあり、刊行から年月も大分経過しているため、機会を見つけて少しずつ確認していきたい。
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流星忌補遺ー甲賀源吾墓ほか

2022-06-02 00:27:23 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

出たばかりの『歴史研究』第700号(2022年5月号)に寄稿となった拙稿の【掃苔行脚】「壬午事変殉難の会津の士 水島義招魂碑」の写真撮影のため、一日谷中霊園に行った帰途、箱館戦争参戦者らが多く眠る文京区へ足を伸ばした。

まずは光源寺にある甲賀源吾の墓(=写真)。宮古湾海戦に散った開陽艦長で、天保10年(1839)江戸駒込は遠江国掛川藩下屋敷の生まれ。



長崎海軍伝習所に艦長要員矢田堀景蔵の付き人として行ったが、掛川藩から学んでいた兄郡之丞との関係は見逃せないだろう。

正面[甲賀家塋]、墓誌に当たる[入塋表]には[彰德院勇譽義住秀虎居士 甲賀源吾 明治二年三月廿五日(1869・5・6)/宮古灣戦死 年三十一]と刻む。家紋は山桜。

またその右には矢田堀景蔵や柴誠一(『探墓巡礼ー谷中編』★35)らの尽力により甲賀家再興が認められ跡目養子となった宜政の実家掛川藩士二見家の墓が並ぶ。

宜政は源吾の実兄二見五郎左衛門氏治(掛川藩近習役)の三男(つまり甥)、大蔵省に入り造幣局技師となって、明治32年(1899)工学博士を授与された。

[二見家先祖代々墓]には側面に氏治の長男昇の没年月日や戒名、昇亡き後を継いだ次男鏡三郎やその息子貴知郎(宜政の幼名と同じ)らの俗名や没年月日を刻む。家紋は北条鱗。
(浄土宗、天昌山、松翁院。本駒込 2−38−22)

お次は清林寺の山口挙直(=写真)、通称錫次郎。柴田宵曲の『幕末の武家』に「明治以前の支那貿易」で上海渡航を証言している幕臣。



確か『探墓巡礼ー谷中編』★33で墓を紹介した松平慎斎が主宰していた麹渓書院の門下だと記憶する。

おそらく長崎海軍伝習所で航海修行したと思われるが、こう書いているのは藤井哲博『長崎海軍伝習所』(中公新書)の伝習生の中に名前が出てこないからである。

墓碑には[長崎に赴き蘭人《葛天零喜》氏に就き航海術を修め]とあり、大植四郎は『明治過去帳』でこの蘭人を[カテレキ氏]と書いているが、これは航海術のオランダ人教官カッティンディーケのことではないか。(葛の下の部分は正確には匂)。

そうすると、カッティンディーケが長崎へ来て教鞭を執り始めたのが安政4年(1857)9月だから、第三期幕府伝習生の入所時期に重なるが、どうだろう。

山口は海軍修行の後、海軍操練所(築地だろう)で教鞭をとりつつ勤務、文久年間に軍艦奉行配下の箱館方調役に転じた。そこから帆船健順丸で上海へ渡り、北海産物の密貿易に携わった。会津人参、蝦夷煎海鼠(いりこ)、干鮑などを扱い高く売れたと云う。

この時、山口は「たしか元治甲子の事と思います」と云っているから元治元年(1864)となり、「私の齢ですか、廿六の時でした」と云うから、これらの言に信を置くならば、天保10年(1839)の生まれになる。

また、山口の証言に「カッテンレーキの弟子であった」とズバリ《葛天零喜》が出て来るから、この証言を知ってか、直接聞いたかして墓碑銘を綴った人物はこの漢字を当てたと考えられる。

異人の名前をカタカナを使わず、漢字で表す時の苦心が察せられる。

それはそうと、箱館戦争に身を投じず明治政府に仕えた山口は、その後電信局技師となって、工務局で電信建築や製材科長を務めた。今で言えばNTT(昭和で言うと電電公社)の勤務ということになろうか。

墓碑正面には[老蘭院山口擧直居士]と刻まれている(=写真)。甲賀源吾のように諱[秀虎]が戒名に盛り込まれたものは見たことがあったが、フルネームが戒名に入っているのを見たのは初めてである。右面に[老 明治四十三年(1910)八月四日 擧直]と没年月日を刻む。家紋不明。

その墓碑の撰文は旧交のあった森澄庸という人物が書いている。
(浄土宗、東梅山、花陽院。向丘2−35−3)

執筆に没頭する中で、原稿とは全く関係ない様々な幕臣たちの墓を巡るのは良い気分転換になった。

『探墓巡礼』の続編を作るとしたら取り上げたい幕臣たちであるが、最後まで判明しなかったのは[挙直]の訓読みである。これは今後の課題としたい。
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大阪のおっちゃんのおかげで見つけた箱館戦士はシーボルトの従兄弟?

2021-12-27 22:33:25 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。いつの歳三忌だったか忘れたが、毎度主催者である大出さんのお導きで皆さんの前で挨拶させてもらっており、挨拶の後参加者で声をかけてくださった方がいた。

それが縁で山南忌の時に大阪まで行くと車で史跡巡りをしてくださったり、うまいものを食いに連れて行ってくれたりするようになった。

時々東京に出張があると連絡をくださり、時間が合えばお目にかかることもしばしば。

その方とこの前電話で話していて「ほらあれ、あの人よ。シーボルトの娘を妊ませた…」とその時は分からなかったが、後からラインで「石井宗謙」と教えてくださった。何でも司馬遼太郎の『花神』や『胡蝶の夢』を読んで岡山の縁の地まで行ったそうな。

実は後になって、その人物の次男が箱館戦争に従軍していたことが分かった。一聯隊差図役石井楳太郎とぞいう。

『探墓巡礼ー谷中編』で書けなかった箱館戦争通史を組み立てるため、あるいは宣伝のための講演で材料として使った一聯隊石川証平の手記「説夢録」(幕末維新史料叢書『逸事史補・守護職小史』新人物往来社刊所収)のたまたまクリアファイルのいちばん上になっていたページから「シーボルト」なる文字が目に飛び込んできたのである。不思議な発見であった。

「説夢録」では楳太郎の父宗謙(原文では「宗賢」)がシーボルトの娘を娶り、楳太郎をシーボルトの息子アレキサンドルの従兄弟としている。しかし、楳太郎は宗謙とシーボルトの娘楠本イネとの間の子ではなく、そもそも楠本イネとアレキサンドルが姉弟だから、義理の甥になる。

ところが、この石井楳太郎、不幸にも斥候になって現地案内人を連れ稲倉石の関門(北海道檜山郡厚沢部町)に差し掛かった折、ピストルを落としてしまったことが仇となって榎本軍であることがバレ、松前藩に処刑された人物であった。

それでも、処刑される間際まで現地案内人の助命を嘆願していたほどの人格者であったのだ。このような人物がいたこと自体、事実は小説より奇なりの観を抱く。

手記をコツコツ読むとこのような発見があって楽しい。丸毛利恒の「北洲新話」(一名「函館戦記」『旧幕府』所収)はこのことを明治元年11月12日(1868・12・25)としている。

そして、件の大阪のおんちゃん。時々遠出をしては史跡巡りをした写真を送ってくださるのだが、この度は奥様のご実家香川県に行って美味しい食事とお酒を堪能されているのだなと思ったら、さらにそこから土佐まで足を伸ばし(もちろん車であるが)安芸郡芸西村へ行き、おりょうと君枝の像や安岡金馬顕彰碑の写真を送ってくるは、室戸岬の中岡慎太郎像の写真も来るは、果ては安芸郡東洋町(先端が逆三角形のかたちになっている室戸岬を越えて東の徳島県側に位置する)にある江藤新平遭厄地の看板がさびれている写真まで送ってきた!

しかも、免許取り立てのお嬢さんにこのとんでもない距離を運転させたというから高知県キャラクター黒潮君のイエローカードスタンプを送った。

「今のお気持ちは?」と黒潮君インタビュースタンプに対する答えは「悪い親ですなぁ
趣味に付き合わせるなんて」…お後がよろしいようで(=写真は佐賀県佐賀市にある江藤新平墓)。



来年もどうか1つ長い目で、よろしくお願いします!
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青山霊園今橋権助墓

2021-05-17 23:31:17 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

土佐勤王党で幕末に仲間を斬つた罪で揚屋入り、維新を迎へ晴れて娑婆に出た今橋権助といふ人物の墓が特定できたご報告。

青山霊園2種イ10号70側北向きに高田家之墓があり、その敷地内に茶色い[今橋家之墓]がある(=写真)。



側面に[巌 明治二十二年(1889)一月十八日没]と刻まれてゐる。巌は権助の明治以降の名前。まさかと思つたが、『高知県人名事典 新版』には[明治32年(1899)1月18日没]と書かれてゐて、没した年は違へど月日は同じだから間違ひなからうけれども、10年違ひなのが気になつて何とも煮え切らない思ひをしてゐた。

それがこの程部屋の片づけをしてゐたら、今橋の死亡記事を引用してゐる『須崎市史』のコピーが出てきて、没年の[明治二十二年]が正しいことが分かつた。

卒論を書くときにーーテーマは古勤王党から国民派へと言つて、土佐勤王党の生き残りの明治を追ひかけたものーー大概大学図書館の郷土コーナーに高知県内の市町村史が所蔵されてゐたのだが、『須崎市史』と『野市町史』(野市町は現在香南市)だけ所蔵が無くて、しかもこの2冊が古勤王党を取り上げるには重要だつたため、仕方がなく高知県立図書館(現在は市民図書館と一緒になり場所も移りオーテピアとなつてゐる)まで自転車に乗つて借りに行つたのだつた。

その時、テッキリ『須崎市史』はコピーしてゐないものとばかり思つてゐたので、意外だつた。しかもこの記述が今回確定する決め手となつたから尚更有難かつた。

そこには簡単な家系図が記され、息子と孫の名前が明記されてをり、単なる同姓同名でないことが分かつて没年月日の一致を見た。しかも、東京で亡くなつたことまで書かれてゐる。

東京で亡くなつたからといつて、当てずつぽうで墓探しをして青山霊園だとか谷中霊園だとか、さうさう当たるものぢやない。一地方のどちらかといふと郷土人物に位置づけられる者の墓に青山で出くはすとは何たる偶然かそれとも必然か。

ともあれ、この今橋権助こと巌といふ人物の功績は、明治10年(1877)に板垣退助ら立志社と対立する古勤王党も西南戦争に呼応して挙兵しようと企てるのだが、それを高知県西部に位置する高岡郡で完全に阻止して見せたことだ。

これには中央政府の佐佐木高行司法大輔の激励が一役買つてゐたし、派遣された土佐出身の陸軍軍人北村重頼が立志社の調達した武器を一気に取り上げたことの側面支援にもなつてゐる。

高知県は今にも挙兵せんとする危険な状態で、大阪に来た政府要人の暗殺まで企てゝゐたのだから、実現してゐたら相当歴史がひつくり返つてゐたことだらう。

それだけたつた10年足らずの明治政府に物申す、或いは転覆してやるといふ批判が大きかつたわけで、そこで捕まつた立志社幹部や同志は数年の獄中生活を送つて、再び娑婆に出た後に議員や閣僚を務めた者もゐる。

土佐の人物だけでなく、陸奥宗光もゐたことを考えるとこのとき大物たちが受けた大打撃がより一層分かるし、反対に阻止した側の貢献度がいかに重要か推して知るべしといふものだ。

これを私はよく警察が事件を未然に阻止したときに例へる。つまり、事件になつてゐたら損失は計り知れないけれど、事件を阻止した側は余り評価されない、寧ろ不当に評価されないでゐると思つてしまふ。

いかに何も起こさせない、未然に防ぐことにより事件や戦争に巻き込まれなくて済んだわけだから、阻止した側はもつと評価されて良いのではないか。お巡りさんの役割は報はれないなと感じてしまふ。

皆さんはどう思はれるだらうか。

佐佐木高行が明治6年末(1873)に板垣退助らが政府を辞めて一斉に土佐に帰つたとき暴発が起きないか常に気を配り、時には古勤王党を阻止陣営にあの手この手で味方に引き入れようとする、いはゞそれが奏功して見事高知県が焦土と化すのを免れたわけである。

かういふ歴史の陰になつてゐる部分を取り上げれば少し違つた見方ができるのではないか。実はこの辺を卒論以降の論文第2段にしようとして、既に20年以上の月日が経つてしまつた、何とも情けないお話。
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