探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

みやこにてお話し申し上げ候②

2019-09-22 22:00:46 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

京都滞在2日目の15日。この日午後から講演会だったため、午前中に長遠寺と妙泉寺を回った。

場所はそれぞれ千本出水と大宮三条。実は今回の講演は、3月の山南忌に来られる方で[山南会]会員限定の催しであった。著書の横顔に毎年山南忌に参加していると書いておきながら、今年腰痛ですっぽかしてしまったことから、なんとか穴埋めしたいとの思いで引き受けることにしたものだ。

講演は壬生の旧前川邸近くで行われるため、壬生に出やすい場所を当日に選んだのだった。

人見の墓へ行ったのは、『探墓巡礼ー谷中編』の項目に[雲井龍雄]があることが大きい。谷中にある雲井の墓の撰文を人見が書いているため、箱館戦争関係として項目立てしたことをお話しした。

懇親会で聞き手の中に雲井と同じ米沢藩の宮島誠一郎の姻族の方がいたと伺って大いに盛り上がった。

それともう1箇所、大宮三条の妙泉寺に去年ブログで書いた永持亨次郎の墓を訪れた。これもまた恥の上塗りになるが、昨年ブログに[京都での流星忌の宣伝①]と題して永持のことを書いたまま、今の今まで②を書かず仕舞いにしていたことである。

あの後、京都で何を書こうとしていたのか今となっては思い出せないが、今回の講演で永持とその実兄柴田剛中に触れた。

永持は長崎海軍伝習所で勝海舟と矢田堀景蔵とともに艦長要員の修行中、卒業を待たず栄転。前後に日露交渉を抱えていて、長崎にとどまって『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[平山省斎]とともに取り組んでいたようだ。[徳川慶喜]が禁裏御守衛総督のとき目付介として京都に来たとき病没。

流星忌の宣伝に京都へ。山南忌で説明①

講演では、永持の墓が壬生から近いところにあることと(=写真)、その実兄柴田剛中が竹内保徳遣欧使節員として手記を残し、欧州滞在中の様子を紹介した。





一行は食事が合わなかったようで、生魚に持ってきた醤油をかけて、ようやくそれらしい食事にありつけたとなかなか苦労が伝わってきて面白い。

その中で[ボートルを塗って]という表現が出てきて、[ビネガー]かドレッシングか何かをかけたのではと話したところ、後で[バター]ではないかとご指摘を受けた。この辺り、いま一度じっくり追求してみたい。

柴田は一行が夜遊びなどしないように自らガキ大将となって外での鑑賞や飲んだあとの喫茶、腕相撲などに興じたようで、名上司ぶりを発揮した人物だった。

拙共著『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[福地源一郎]や[福田重固]など同行者の様子がこれで少し分かるだらう。柴田の墓のことは、インターネットで調べると面白いことが分かるかもしれない。

やはり項目立てした[徳川慶喜]命名の尊攘苑にある原市之進の墓(長楽寺)やかつて書いた『歴史研究』2015年4月第630号[日本に鉄道を敷いた男 佐藤政養の墓]のコピーをお渡しし、佐藤政養の建てた京都の墓も紹介(以前書いたブログを参照)。

3月13日 京都市① 源義経を支えた佐藤継信・忠信兄弟の墓

この場所について、東大路渋谷通東入ルを[シブヤ通り]と発言したところ、[シブタニ通り]との訂正が入った。

長年京都で歴史案内をされている旧知の方から何よりのご指摘をたまわった。後で聞いたら毎年うるさ型の出席者が多いそうで、その程度で済んで良かったと冷や汗ものであった。

最後に『探墓巡礼ー谷中編』で壬生に関わりがあるのは浪士組で山岡鉄舟が新徳寺に来たとの話で締めくくった。

同書には清河八郎の故郷に行くと[高橋泥舟]・[山岡鉄舟]義兄弟の書が清河家の墓や石碑に刻まれていることを書いたことも紹介した。

作った本で意外にも京都の様々な場所に触れることができたが、講演後京都に幕臣の墓がまだあるかとの話題などでしばし歓談し、盛り上がった。

行ったことはないが、幕府方なら会津の山本覚馬を入れても良いかもしれない。大河『八重の桜』のころは行けたが、今は荒れてしまって行けないのではないかなどという話に。

さて、まだまだ教えていただくことが多く、参加者の方々には最後までお聞きくださり感謝申し上げたい。

お招きくださった旧前川邸の田野様には懇親会後までお付き合いいただき、地元の方とも触れ合えて何よりの京都滞在となった。

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みやこにてお話し申し上げ候①

2019-09-19 22:32:45 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

3連休の中日となる15日、京都にて[『探墓巡礼ー谷中編』の刊行意義と京都にもあるゆかりの場所]と題して講演をさせていただいた。

歴史が好きになった記念の街でお話できるのは大変光栄で、レジュメを作りながらついあれもこれもと欲張って取り上げようとして、案の定時間が足りなくなってしまった。

14日に下見を兼ねて蹴上疏水公園の田辺朔郎の銅像(=写真)、大日山墓地の田辺朔郎夫妻の墓を見てきた。



場所はインクラインを登りきったところにかかる大神宮橋を渡って坂を登り、日向大神宮の方ではなく、安養寺の壁際の道を登っていくと墓地に着く。

登ってきた道が墓地でも階段になっていて、それをまっすぐ登っていき、右側の生け垣を横目に突き当たりまで上がりきり、左側を奥へ奥へ行くとドンづまりの少し手前に田辺夫妻の墓があった(=写真)。



妻は琵琶湖疏水設計のため田辺朔郎を抜擢した京都府知事北垣国道の長女静子。事前に見た青山霊園の田辺家墓誌にもそのことが書かれてあった。

なぜ田辺ゆかりの地を回ったかというと、『探墓巡礼ー谷中編』に載せた唯一京都にある墓が箱館政府松前奉行人見勝太郎のもので、その母の墓の撰文が田辺太一だからである。ちなみに父の墓のそれは谷中に墓のある中村正直(=写真は長遠寺人見家墓所)。



かつてこのブログでも紹介した人見家墓所の両親の墓を間違って[入って左側]と書いたが[右側]に訂正しようとずっと機会を伺っていたこともある。

3月13、14日 京都市③ 長遠寺、妙恵会総墓所

ともあれ、太一の『幕末外交談』をネタに近代化京都の水を整備した甥朔郎にも触れてみたのだが、ちょうど復活した琵琶湖疏水船の宣伝や九条山ポンプ場のパネル展示が充実していて時宜を得た訪問となった(=写真は疏水船のパンフレット)。



太一の娘花圃は三宅雪嶺に嫁ぎ、樋口一葉もその文章に嫉妬したという女流作家なのだそうで、青山霊園の太一と同じ一角に雪嶺・花圃の墓があることもお話しした。

1種ロ8号16〜17側で太一は少し奥に入ったところ、花圃は通り沿いにある(=写真は太一らの墓)。家紋は丸に桔梗。



14日はもう1箇所、瑞泉寺に今年建てられた岩瀬忠震・橋本左内の碑を見てきた。池田屋のすぐ近く、三条小橋の手前だった(=写真。木屋町通り三条下ル)。



翌日の講演で京都町奉行を務めた永井尚志に触れ、岩瀬の戒名[爽快]の話やこの新しい石碑も紹介させてもらった。幕末の新しい史跡として記憶にとどめておきたい。
ーつづくー
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大鳥圭介のふるさとと青山霊園散策

2019-09-04 23:28:16 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

夏休みに乗ったサンライズ瀬戸で内陸側の座席だったのに、明け方に太陽が右に見えたときがあった。これは線路が北上してるなと思った。

しばらくして通り過ぎる駅名をみると[上郡]という名前だった。箱館政府の陸軍奉行大鳥圭介の出身地である。

赤穂出身だから赤穂線沿いかと思ったが、山陽本線沿いに駅があるとは思わなかったし、もう岡山かとも思っていたがまだ兵庫だったわけだ。

だが、大鳥の故郷はこの上郡駅から智頭急行に乗り換える。しかも生家跡に近年設けられた記念館[いきいきふるさと交流館]に行くには、それだけにとどまらず同急行苔縄駅で降りて徒歩1時間というから気が遠くなってしまう。

これは去る6月史誠会様のお招きで青山霊園を案内したときに調べて分かったことだ。それまでサンライズに乗ってもそういう意識を持ったことが無かったから、今回寄り道はできなかったが、機会があれば訪れてみたいものだ。(同館は第1,3日曜しか開館していないので訪れる際は要注意。)

また、上郡町役場には銅像もあるようでこちらは上郡駅から行ける距離のやうで、大鳥ファンにはまた格別な場所であらう。

5月には圭介祭りもあるというから微笑ましい。

いきいき交流ふるさと館

そんな大鳥の墓は青山霊園一種イ1号3側にある。広い通りに面して簡易な囲いがぐるりとあり、入口に扉のある一風変わったものだ。

中央奥が大鳥以降の累代墓。右側に次男次郎の墓、左側に妻道子の墓(=写真。右後方に大鳥圭介墓)。



殊に夫人の墓の裏面には大鳥自ら撰文を書いていて、先立った妻への気持ちが伝わってくる。そんなお話を6月のときにさせてもらった。

史誠会催行での青山霊園巡墓会

もし『探墓巡礼 青山編』を作るとしたらとの思いで、出張帰りに散策するのが今は楽しみである。
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島田篁邨と服部宇之吉

2019-09-01 01:56:36 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
昨日、埼玉方面に所用があり、帰りに日暮里を通るので、ふと思い立ち夕方の小1時間谷中霊園を歩きました。
最近は「士族」と刻まれている墓碑など、気になった墓碑はなるべく撮影しておくようにしています。
また、以前撮影した墓碑でも天候や時間によって写り方が変わるので、気になった墓碑は何度でも撮影するようにしています。これは釣洋一先生の教えによるものです。

さて、先日22日に釣先生が主催している「新選組勉強会」へ行き、旧唐津藩士で箱館新選組の栗原仙之助のご子孫佐野昭義様によるお話をお聞きしました。唐津藩出身の著名人や他の箱館新選組とも姻戚関係になっており、大変興味深い内容でした。
その中で、大野右仲とも姻戚関係になっており、釣先生作成のレジュメには天王寺墓地の大野家の墓碑と、大野右仲の妹澄子が嫁いだ島田篁邨夫妻の墓碑の写真が載せられていました。
この大野家・島田家のお墓については当会が以前開催した谷中霊園巡墓会においても釣先生が解説をしています。

島田篁邨については「篁村」と表記するものが多くみられますが、釣先生も指摘していることですが、墓碑には「篁邨」と刻まれていますので、この記事中では「篁邨」で表記を統一をします。



そのような経緯があったので、久しぶりに両家のお墓へも行ってきました。
島田家の墓域に入ってすぐ篁村の長男鈞一の碑が眼に入ったので読んでみると、そこには「帝國學士院會員正三位勲一等文學博士服部宇之吉撰」とありました。



服部宇之吉は二本松藩出身の漢学者で、ちょうど今年、『歴史研究』に連載している「掃苔行脚」で取り上げ、ブログでも取り上げていました。

昭和天皇漢学の師、服部宇之吉の墓

なるほど漢学者仲間か、と思って次に篁邨の巨大な碑を読むと子女の記述の中に「女(略)適服部宇之吉」とあったのです。



ここに来て、やっと繋がったのですが、『大衆人事録 昭和3年版』には宇之吉の妻繁子の欄に「文學博士島田重禮長女」とあり、重禮が篁邨の諱であることにいまさらながら気づいた訳です。これは迂闊でした。
つまり、繁子は大野右仲の姪にもあたります。

繁子夫人はブログでも書きましたが、『斯文 21巻9号』所載「服部隨軒先生追悼録」で「我良人の生立の記」と題して宇之吉の生い立ちを詳しく書いており、その中には赤子であった宇之吉が戊辰戦争で一命を取り留めた話なども書かれていて、大変貴重な証言となっています。

また、碑文には島田家の先祖についての記述があり、足利義晴に仕えた島田若狭守重國を祖とし、武蔵大崎に帰農し邑正(名主)となったことが書かれています。
大崎の名主島田家で思い出したのが、品川に引っ越した頃に区内のお寺を自転車で巡った時に見たお墓のことで、撮影画像を確認すると、東五反田寳塔寺に正に「元祖島田若狭重國先孫代々之各霊」と刻まれており、篁邨の先祖の墓も既に見ていたことに気付きました。

さらに碑文には安積艮斎に学んだことが書かれており、安積艮斎と言えば二本松藩領であった郡山の安積国造神社の出身で、江戸に出て私塾を開いた後、二本松藩校敬学館教授を経て昌平黌教授となった人物です。
実家の安藤家の本家は安積国造神社の神職家で、分家は二本松神社の神職家となり、NHK朝ドラ『まんぷく』の主人公今井福子のモデルである安藤仁子の父は二本松神社の安藤家の出身です。

安積艮斎には門人が数多く、当ブログでも以前、『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』で取り上げた人物で艮斎の門人が数多くいることを書きました。

『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』調査余滴-安積艮斎門下生の墓-

篁邨が娘の夫となる服部宇之吉と初めて会って出身地を聞いた時に、「おぉ、艮斎先生のお国か」と言ったかも知れないと想像するとなんだか和みました。

不思議なもので、今まで調べていたことで、点と点だったものが、昨日島田家のお墓をよく見たことで、一瞬にして繋がりました。

このようなことがあるのが墓碑調査の醍醐味ではないかと思います。
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