探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

江戸蒲田氏の墓

2011-02-22 23:14:52 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
昨年末から多忙のため、まとまった調査ができずにいますが、最近は時間を見つけては情報の整理や文献の調査などをして掃苔の準備をしています。

時間が無いなりにも少しでも多くの墓碑を見たいという気持ちは強いものです。
私が住んでいるのは川崎市ですが、東京と隣接していることもあって、たいてい東京に調査に出てしまい、あまり地元川崎にある墓碑調査をしていなかったことに気づきました。
先日少し時間があったので、いつも買い物をしている川崎駅西口のラゾーナ裏側にある円真寺に行ってきました。
ここには室町期の関東の名族江戸氏の末裔であり、「六郷殿」と呼ばれた蒲田氏の墓があります。
これを知ったのは関東武士研究叢書『江戸氏の研究』でしたが、存在を知りながらも近くだからいつでも行けると思っていて、調査が流れていました。

墓地に入ると江戸初期に建てられた宝篋印塔がありました。



寛永十七年の銘があるこの石塔は開基蒲田所左衛門夫妻の墓で左京亮重武という人物です。
重武は北条氏に仕え、その滅亡後浪人を経て土井利勝に仕えたました。その後、子孫は土井家を去り、相馬家に仕えました。
この宝篋印塔の周りには蒲田姓の墓碑が数基あり、中世以来この近辺の名族だったことが伺い知れました。

たまには自分の住んでいる近くのお寺で郷土の名士の墓を探すのも良いものです。
そこには小さいながらも新たな発見があることでしょう。
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お由羅の墓碑について

2011-02-20 21:31:41 | 会合報告
 
 久保でございます。

 今回も薩摩に関連する内容です。

 
 幕末の薩摩藩に起きた「お由羅騒動」。

 そのお由羅の墓が、鹿児島市の福昌寺跡にあります。

 ウィキペデアには
 「また、由羅の墓と言われる石碑には、戒名が書かれており、また
 『斉興後夫人』とも書かれているため、由羅は島津家及び薩摩藩では
 斉興の正室として扱われていた可能性が高い。」

 とありますが、由羅の墓に「斉興後夫人」とは書かれていません。

 
 ウィキペディアに書いた方は、
 
「また、由羅の墓と言われる石碑には、戒名が書かれており、
 また福昌寺跡について 詳しく調査された資料には
「斉興後夫人」とも書かれているため、
 由羅は島津家及び薩摩藩では斉興の正室として扱われていた可能性が高い。」


 と表記したかったかな・・・と思います(私は未見ですが、実際にそういう資料があるそうです)。

 墓碑には刻まれていませんので(^^;)


 
 

 同じく、ウィキペディアには由羅の戒名を「一説には妙浄寛忍大禅定尼」と書いてありますが、
 これもおそらくウィキペディア上の誤記ではないでしょうか。
 墓碑に刻まれているのは「妙浄忍大禅定尼」です。

 もちろん、これは廃仏毀釈前に付けられた戒名ですので、
 明治になってから新たにつけられた諡号(墓碑には「故號」と表記)が側面に
 刻まれています。


 薩摩藩関連の方々の墓碑については、まだまだ調査をしなくてはならず、
 由羅についても謎が多すぎますが・・・。

 とりあえずウィキペディア上の間違いについて、書かせていただきました。

 


 
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第34回江戸史談会が行われました

2011-02-14 23:14:13 | イベント

会員のカネコです。
2月11日(金・祝)、当会会員のカトケンさんこと加藤健太郎さんが第34回江戸史談会にて講演されました。

「静岡に移住した幕臣達の墓を読む」というテーマで行われた今回の江戸史談会。旗本加藤筑後守の子孫で幕臣や土佐・水戸藩士の研究をしている加藤さんが、地元静岡で訪ねた幕臣達の墓を厳選し、その碑文を読むという内容で行われました。

釣洋一先生の酒房春廼舎さんにて15:30より開始されました。この日は雪ともあって15人程度のアットホームな感じでした。

この日取り上げられたのは以下4ヶ所の墓碑。

・蓮永寺の勝海舟両親
・沓谷霊園の梅澤孫太郎
・臨済寺の永峰弥吉
・宝台院別院の戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑

勝海舟両親の墓は海舟の父小吉(夢酔)と母信の墓です。小吉は江戸で没し、江戸の清隆寺に葬られましたが、母信が家族と共に維新後静岡に移住し、その地で没したためその墓に小吉の名も刻まれています。勝家が静岡にあった時にはこの墓を両親の墓として参拝していたのでしょう。ちなみに清隆寺の墓は後に青山霊園に改葬されましたが、『勝海舟のすべて』の中に釣先生による清隆寺勝家の過去帳の全文が掲載されています。

梅澤孫太郎は徳川慶喜の側近で、後期水戸学の巨人、藤田東湖、会沢正志斎に学びながらも、後にその水戸学の影響を受け挙兵した天狗党を鎮圧する立場になるなど、苦難の人生を歩んだ人です。晩年は引退した慶喜の家令として穏やかに過ごしました。先頃時代劇チャンネルで再放送された大河ドラマ『徳川慶喜』にも登場しています。

永峰弥吉も地味な人物ですが、この墓碑は正面の墓碑銘を榎本武揚が書いており、側面の撰文を勝海舟、書を大鳥圭介が書いており、さながら幕臣オールスターズの様相を呈しています。

そして久能山東照宮の麓に宝台院別院の戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑はあまり知られていませんが、大鳥圭介に率いられた伝習隊士達の名が数多く刻まれており、116名の幕府軍戦死者の名が刻まれています。その中に新選組隊士矢田賢之助の名も刻まれています。これは新選組研究家である釣先生も碑の存在自体は知っていたものの見落としていたもので、今回の加藤さんにより発見されたものです。この戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑に関しては建立者、建立経緯等不明な事が多く、今後の加藤さんの研究が期待されます。

まだまだ幕末維新期の人物研究の可能性があることを感じられた講演でした。
加藤さんの地道な研究方法には学ぶことが多いです。このような仲間が近くにいるのは本当に恵まれている事だと思いました。

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2月3日静岡調査(宗徳寺)

2011-02-10 16:46:17 | 会員の調査報告

最後になります。会員のクロサカです。

この日最後の調査地として現在の伊豆の国市、元は伊豆長岡と言った場所にある宗徳寺に調査に出向きました。ここに小笠原長生子爵の墓碑があります。

上の写真が小笠原家の墓碑です。ここを訪ねた時間は17時を回っており、正直調査不可能かとも思われたのですがなんとか調査して参りました。

このお寺は海軍寺のようで墓域内には多くの海軍関係者の墓地が見受けられました。最初入口にあったこの墓碑に気付かず最奥まで行って見つからず諦めかけていた矢先に入口で発見しました。この時は本当に心が折れそうになりました。

小笠原長生子爵のお墓は現在全国に4か所確認していて、江戸の菩提寺である世田谷区幸龍寺、国元の菩提寺唐津市近松寺、東郷平八郎元帥の別荘を寺院化した府中市東郷寺とここ伊豆長岡宗徳寺です。

墓碑の側面には小笠原長生子爵とその母、夫人、継夫人、夭折した息子長孝の名前が刻まれています。

小笠原子爵の墓はこれで近松寺以外全ての墓を調査することが出来たのであと一つである国元にも是非調査しに行きたいと考えています。

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2月3日静岡調査(妙法華寺)

2011-02-10 16:28:52 | 会員の調査報告

会員のクロサカです。続きまして三島市妙法華寺に調査に出向きました。

こちらの妙法華寺は、日蓮宗における静岡の本山寺院でもあります。徳川家の女性からの信仰も厚く家康の側室であるお梶の方やお万の方の墓碑もあります。

しかし今回の目当ては違い、遠州掛川藩主太田家の墓地です。太田道灌の子孫を称する家柄で明治後は子爵を叙されています。

墓域はとても広いわけではありませんでしたがとても荘厳な墓域でした。写真手前が明治期以降の墓域で奥の広い墓域が江戸期の藩主夫妻の墓域です。明治期墓域の裏辺りが子女の墓域です。

この墓碑は江戸最後の藩主であり初代子爵である太田資美子爵の墓碑です。

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