探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

3月13、14日 京都市③ 長遠寺、妙恵会総墓所

2010-03-29 21:25:42 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

京都第三弾、幕臣で箱館政府松前奉行、維新後茨城県令(知事)を務めた人見寧(勝太郎)の墓があるというので、千本出水の長遠寺を訪ねました。

墓域に入るとすぐ左手に人見家の墓が6基ありました。

人見の単独墓はなく、父、母のほか、先祖とおぼしき墓、現代の累代之墓がありました。(父母の墓=写真)



父勝之丞の墓は中村正直撰文、母僊子の墓は田辺太一撰文という幕臣オンパレードでうれしくなります。

父の墓碑には、人となり謹厚篤実、幼きときより文学にふけり、親につかえて孝云々とあります。文化丁卯(五年、1808)三月一日生、明治四年(1871)七月二十一日病没

母は清水貞七の女、二十歳にて嫁ぎ、性温厚、勤倹に家を治め、慈しみて則ち三男次女あり云々。

文化十三年(1816)生まれ、明治三十二年(1899)十一月二十四日没。洛西竜安寺に荼毘に付され、長遠寺に埋葬せらる。霊光院仙室崇寿多姉と諡す。
結局、寧は「累代之墓」に葬られているのでしょうか。
長遠寺は、宗派が禅宗、山号が不退山
(上京区出水通千本西入ル尼ヶ崎横町371)

翌日、堀川を西に入り松原をやや南に戻ったところに妙恵会総墓所を訪ねました。

ここは足利将軍義輝の執権三好長慶の執事 松永弾正久秀が本圀寺塔頭戒善院の壇徒であったことから、天正年間に先祖供養のため屋敷跡を寄付したものです。

大正11年(1922)に現在の妙恵会を組織し、旧本圀寺塔頭寺院総墓所として、現在に至っています。

墓は、本圀寺と最も関係の深い水戸藩の金子健四郎父子が中央の礼拝堂のすぐ右手に、生野義挙・天狗党の関口泰次郎(=写真)がそのすぐ後ろにありましたが、これら以外の目的だった鳥取藩の墓までは探し切れませんでした。



「健四郎金子君墓」は元治元年(1864)四月十日没、男徳輝建とあり、その右手に息、正六位勲四等金子徳輝之墓(贈位勲位割り書き)が並んでいます。(=写真)



墓域の広さは奥行き100m弱で礼拝堂、無縁墓、屋根のある歴代上人とおぼしき墓を中心としてその後方と両側にびっしりと墓石が並んでいます。

旧本圀寺塔頭寺院は18か寺が所属。その一つに林昌院があり、その関係の墓碑には遠州掛川家臣と刻まれているものがいくつもありました。

静岡人としては見過ごせないものを感じ、今後の調査課題としたいと思います。
(下京区猪熊通五条上ル柿本町)
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3月13日 京都市② 三條家諸大夫 森寺常邦らの墓

2010-03-22 12:18:43 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

京都第二弾、馬町から東大路を昇って行き仁王門通りまで行くと、新銅学区の寺院群があります。囲碁で有名なる本因坊発祥の寂光寺をはじめ、55か寺があるこの界隈に、東大路通りに面して教安寺というお寺があります。

ここは余り知られていないように思いますが、三條家諸大夫 森寺常邦らの墓が現存します。常邦は安政の大獄で中追放の処分を受けた人物です。

この所在は幕末維新人名事典(安岡昭男・宮崎十三八、新人物往来社旧版)から見つけました。

不思議なことに、この事典の記述にも、実際お寺を訪れても、常邦の父である常安のお墓はありません。常安は長門守・因幡守に任じられ、安政の大獄で福井の橋本左内を匿った科で永押込の処分を受けました。

その代わりといってはなんですが、常安妻で常邦母である柳子の墓(=写真)がありました。



そしてその後ろの墓碑には常良と書かれています。常安、常邦父子との関係は不明ですが、大隅守に任じられ、妻は貞林孺人辻氏。法名はそれぞれ光雲院、心月院となっています(=写真)。



さらに続いてその後ろには常倫という名が刻まれた墓があり、こちらは常安の父で同じ長門守です。

そしていよいよ若狭守常邦の墓(=写真)--明治7年(1874)7月に侍従森寺常徳により建てられたもの。しかし没年は既に夜明け前の慶応3年(1867)です。常徳は嫡男でせうか。



その右手に戒名のみ刻まれた墓碑があります。どなたかは存じませぬが、お寺の方によるとこれも森寺家の墓だそうです。右から「祥雲院髻光法珠大姉、慈雲院智岸宗恵居士、香月院貞筵寿照信女」と刻まれています。

森寺家の墓碑全11基は一部小さなものを除き、いずれも石が落ちないよう針金で巻いてあります。今の状態が長く続くとはとても思えず、新しいものに変えられてしまうのも時間の問題でせう。

墓碑の側面や裏面に没年などの情報が少ない上、公家の家臣についてはただでさえ文献などで確認できる情報も限られています。

今後、このような未開拓分野についても少しずつ調べて行くつもりです。

宗派は浄土宗。山号は瑞応山(左京区東大路仁王門通上ル)
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3月13日 京都市① 源義経を支えた佐藤継信・忠信兄弟の墓

2010-03-19 22:55:41 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

昨年11月末、都内青山霊園において当会初めての試みとなる巡墓会を催し、龍馬ゆかりの人物を案内させていただいきました。

その時紹介した1人に佐藤政養(与之助)がいます。勝海舟の神戸海軍塾で龍馬とともに塾頭を務めた人物です。

その墓碑に明治になって京都において先祖たる佐藤継信・忠信兄弟の墓を建てたという気になる一節が刻まれていました。

そこで今回、その墓が実際にあるのかどうか確かめに行ったところ、十三重の記念塔こそ京都国立博物館の敷地内に収められていましたが(=写真)、かつて記念塔があった馬町にもとうがらし店の前にちゃんと石碑が建っていました。



正面に「佐藤継信忠信之塚(名前部分割り書き) 正六位佐藤静養之碑」、裏面に「昭和二年三月佐藤政治郎建之」と刻まれていました。政治郎は息子でしょうか。

その碑の後ろに細い路地が延びているため冷やかしついでに行ってみると、左手に明治6年(1873)12月に佐藤政養が建てた佐藤兄弟の墓が確かにあったのです(=写真)。



向かいには一段高いところに、政養の父与兵衛を讃える「佐藤文褒翁之碑」があり、明治9年(1876)に与之助により建てられていました。傍らには自然石でできた佐藤政養鎮魂碑もありましたが、残念ながら碑面がみな落ちてしまい、わずかな残骸が残っているだけでした。(=写真)



この三つの碑は民家の合間を縫ってわずかな隙間に、しかし力強く建っていました。「墓」には花が供えられ、地元の方に大切にされていることがうかがえます。

今回のように、墓に刻まれた記述からその真偽を確かめることができたのは、とても嬉しく幸いなことであったと思います。

この目的地にたどり着くには、京都国立博物館のホームページに馬町の路地裏に塔があったという記述がヒントになりました。感謝申し上げます。

そして、幕末の上方に長く滞在した佐藤政養がなぜこの地にその塔墓を建てることになったのか--新たな謎に迫るため興味は尽きません。

(東山区東大路渋谷通東入ル)
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2月26日高崎調査/3月5日新座平林寺調査 

2010-03-11 00:38:54 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
2月26日に大学のサークル合宿のため熊谷に行ってきました。
これを機にして群馬県高崎市に調査に向かいました。
高崎は、あとで平林寺の方でも書く大河内松平家の領地があった所として有名です。
友人3人と行ったのでいつもの墓碑調査は、あまり出来ませんでしたが、何個か発見が
ありました。
まず、龍廣寺にて開基で徳川四天王の一人井伊直政・俳人村上鬼城・高崎藩主松平輝承生母の墓碑を掃苔しました。
次に大信寺にて高崎城で自刃した徳川忠長・下仁田戦争で戦死した堤克寛・高崎城代堤幸継などを掃苔しました。
写真は、龍廣寺にあった開基の井伊直政の墓碑です。
この発見が今回の調査の中では一番の収穫でした。
この他友人とは、高崎城の土塁や堀・乾櫓・東門・徳川忠長自刃の部屋といった遺構を巡りました。


3月5日は、埼玉県新座市平林寺に調査に行きました。
このお寺は、大河内系松平家三家全ての菩提寺となっているお寺で他にも分家して旗本になった大河内家の墓碑もあります。
とても墓碑が多いので松平家墓地の光景は圧巻です。
今回僕が調査したのは、吉田藩大河内家・高崎藩大河内家・大多喜藩大河内家・前田綽・津田左右吉・増田長盛などの墓碑を調査しました。
以前に一度来たことがあったので再調査となりました。
写真は、吉田藩大河内家の墓で理研の3代目所長や戦犯にもなった大河内正敏の墓碑です。
前回来た時には、発見出来なかった墓碑も多く発見出来たのでこちらもとても有意義な調査となりました。
コメント (2)
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1月・2月の調査②

2010-03-10 22:54:19 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
1月から2月にかけての調査です。

2月21日(日)谷中・向丘・白山の寺院調査

この日は谷中を中心に寺院墓地の調査をしました。
まず鶯谷駅を降りて寛永寺で紀州徳川家、日本船舶振興会会長笹川良一の墓、津梁院で黒石藩主津軽子爵家、弘前藩主分家津軽男爵家、尚昌侯爵、国立博物館初代館長町田久成の墓、一乗寺で漢学者大田錦城、玉林寺で大友宗麟末裔で高家の大友家、旗本河津家、骨董家青山二郎、臨江寺で儒学者・山陵研究家の蒲生君平、久我侯爵家の子女墓を調査しました。

文京区内に入り、向丘の海蔵寺で水戸藩儒者立原翠軒の墓(写真)を調査しました。



先日、会員のカトケンさんが水戸六地蔵寺の立原翠軒墓を調査しましたが、元々の墓はこちらの東京の墓で、平成6年に翠軒の祖父・父の墓がある六地蔵寺に分骨されたようです。
その後、白山本念寺で狂歌師太田南畝、旗本で新田氏の一門横瀬家、向丘栄松院で向山慎吉男爵(写真)、谷中に戻り全生庵で幕臣松岡萬、谷中霊園で陸軍中将東乙彦、国学者で神道家の久保季茲、浪士組隊士池田徳太郎等を調査しました。



2月28日(日)鶴見総持寺調査

会員のクロサカさんと鶴見の総持寺を調査しました。共同調査は普段一人では気付かないことに気付いたりできるもので、とても有意義です。
今回もクロサカさんが以前見つけた毛利重輔男爵、愛宕子爵家、花房子爵家分家、鍋島精次郎家等をご教示して頂きました。

鍋島精次郎家の調査ではでは鍋島精次郎3男で押小路男爵家へ養子へ行った押小路昌信男爵の墓があることが分かりました。華族家の当主が実家に墓を建てるのは珍しいケースだと思いました。

他にこの日調査したのは建築家伊藤忠太(写真)、益田孝男爵、海軍少将近野信夫、海軍大将高橋三吉、久留島子爵家分家で児童文学者の久留島武彦、二本松出身の声楽家関屋敏子、永井荷風の叔父で官僚の大島久満次等の墓です。
大島久満次の墓は正面に向かって倒れていて正面の碑文が読めませんでした。
総持寺には他にも華族家の墓が多くあり、華族家分家もまだまだ存在すると考えられます。

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