探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

第17回山南忌参加

2023-03-27 00:51:51 | 日記
会員のカトケンです。

3月の京都はいつも雪に降られたり、天候がどんよりとして肌寒いのだが、今年は羽織るものがいらないくらい暖かった。

山南忌への参加は4年ぶりであった。阪急四条大宮駅から山南敬助の墓がある光縁寺に向かって歩いていると、釣洋一先生がいて声をかけた。山南忌でも少ししゃべられたが、相変わらずお声に張りがあり、安心したものだった。

旧前川邸まで行く途中にも知り合いがいて挨拶を交わし、旧前川邸に着いたら着いたでしばらく逢えなかった方々と旧交を温めた。

いつもより山南忌の開始時間が早いとあってスタッフが慌ただして動いており、こちらは少し時間があったので近辺を散策した。

山南忌は相変わらずの盛況で、ご講演の霊山歴史館木村武仁学芸課長、葵太夫「黒髪」の舞、北辰一刀流、天然理心流撥雲館と試衛館の演武、何と言っても高鳥館主の跳び上がる柔術は釣先生のお気に入り注文の品である。名物影山さんの司会も健在。

お楽しみ抽選会も大変盛況で、景品のご提供者や主催者側の心意気がひしひしと伝わるひと時であった。

閉会の後、試衛館の剣士たちとパイプ椅子を階段を伝って分業で下ろすのが恒例で、勝手連の汗かきを爽やかに流すことができた。

懇親会は四条大宮のアークホテルが無くなってしまい、烏丸四条のからすまホテルで催された。阪急で一駅だったが、千葉と青森からの常連さんとたまたま駅で一緒になり、ホテルでの開会待ちまで楽しく歓談ができた。

懇親会は、永倉新八の手記「浪士文久報国記事」(『新選組戦場日記』としてPHP刊)を発見した多田敏捷氏が亡くなられたため献杯の開始となった。この手記が見つかったのは、確か平成8年だったと記憶するが、当時学生で高知にいて、最寄りの書店で秋田書店の『歴史の旅』で永倉新八特集が組まれたことを見つけて即買いし、ときめいたものだった。

学生時代、『歴史読本』の読者コーナーで新選組のデータブックづくりの企画に参画し、『新選組隊士列伝』や『新選組覚え書』の紹介文を書いたことなどを思い出す。高校のときだいたい静岡の古書店や神田神保町で大出本(モロさん命名。新人物往来社の新選組シリーズ。のち社長となる大出俊幸がプロデュースした本)をひととおり集めていたが、卒業のころになって帯屋町の井上書店で『新選組再掘記』と『聞き書き新選組』が手ごろな価格で手に入り嬉しかった記憶が蘇る。

今では大した実績も上げてないのに、大出本の筆者の方々たちと同じテーブルを懇親会で囲んでいるとは、何とも不思議な気分であった。

まずは献杯をした新徳寺の山田和尚にご挨拶させていただき、体調が優れないと嘆き節であったが、こちらも張りのあるお声と心地よい関西弁が健在であった。

旧前川邸の門で挨拶しか交わせなかった名古屋の成木さんから、小弟が『歴史研究』第704号に書いた「幕府瓦解の証言者村山鎮の墓」を読み、多田元吉とともに静岡でお茶の品評審査員をしていたと資料情報を提供してくれた。一橋時代からの慶喜に仕え、談話も残している村山に、成木さんはもっとスポットが当たっても良いのではと述べていた。

ご自身は高幡不動の殉節両雄之碑の碑文を参加者に提供されていて、静岡の東軍慰霊祭のとき永峰弥吉(宮崎、佐賀県令、『探墓巡礼ー谷中編』★2根津勢吉の実弟。妹婿川村録四郎)の臨済寺の墓碑銘を配ってくれたことが思い出される。

沼津の明治史料館で樋口雄彦先生のご講演に駆けつけたとき、車で沼津駅まで送ってくださるなど相変わらずお世話になりっ放しであるが、何年ぶりかーー確か山南会で『探墓巡礼ー谷中編』の宣伝講演をさせていただいたとき来てくださって以来であろう、お話できて嬉しかった。

そうこうしているうちに恒例となった吟詠披露では、山南敬助を弔いて伊東甲子太郎が読んだ和歌を皮切りに、平沼さん追悼のため、安達漢城の「追悼の詩」を吟じた。土方歳三が好きで函館まで移住した熱烈な思いを持った方のことを皆さんに記憶しておいて欲しかったからだ。

席へ戻るとスタッフの1人涼子ちゃんが来てくれて、彼女の好きな天誅組や池内蔵太の話で盛り上がった。そこにかつて東京龍馬会の『龍馬タイムス』を編集されていた明利さんが駆けつけてくれ、宮崎出身だと知って、池内蔵太の師匠安井息軒に話が及び、思わぬつながりに驚いたことだった。

安井息軒も出身地宮崎県那珂郡飫肥村(今の日南市)では安井息軒顕彰会が一生懸命アピールしていることを前日にブログに書くため調べたばかりだったので、二重に驚いたことだった。

飫肥といえば安井か小村寿太郎だが、宮崎出身の人に遭うと必ず聞いてこの二人への関心を確かめるのが恒例になっている。おそらく学問が盛んか教育熱心な土地柄だったのだろう。

ともあれ、龍馬好きから新選組の方へ来てしまった明利さんとも何年ぶりかで話ができ嬉しかった。おそらく、流星忌の打ち上げ以来だろう。

漫画家のかれんさんとはいつも同じテーブルで隣に座るので久々にお話ができ、以前旗本の証言録を読んだか聞かれたことなどを思い出して旧交を温めることができた。

日野のお蕎麦屋さん「血梅」を営む、郷土史家谷春雄さんのご子息キョウジさんがビールを注ぎに来てくださったことも何よりだった。

日曜のうちに東京に帰らねばならず、一時間ちょっとであったが、このために一年がんばって仕事してきた甲斐があったといふもの。本当に素晴らしい時間をくれる、山南忌を催し携わってくださる方々に心より感謝したい。

おっと、忘れてはいけない!この建物を撮るために京都へ足を運んだのだった。『探墓巡礼ー谷中編』★15吉井台子の夫茂則(海援隊士吉井源馬養子)の設計した中京郵便局(=写真)。









少し落ち着いたら、京都で見てきたものをまた披露していきたい。
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二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」を見る

2023-03-15 01:16:38 | 日記
会員のカネコです。

カトケンさんが京都へ行っている3月12日(日)に、私は両親の故郷福島県二本松市へ行き、二本松歴史館で開催されている企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」を見てきました。



二本松歴史館は昨年4月にオープンしたにほんまつ城報館内にあり、昨年の開館以降、定期的に企画展が開催されています。

朝河貫一博士は日本とヨーロッパの封建制度比較研究に大きな業績を残し、日本人初のイェール大学正教授となった人物で、二本松市出身の代表的著名人となっています。

展示は主にパネルが多かったのですが、朝河貫一博士の生涯をコンパクトにまとめており、初心者の人でも朝河博士の業績が分かりやすく展示されています。
また、2021年に福島中央テレビで放送された「霞の国 ヒストリア ~二本松の偉人 朝河貫一~」も上映されており、これも併せて見ると、より朝河博士の人物像を理解することができます。
ゆかりの地マップも配布されており、見学後にそのまま二本松市内を巡るのも良いと思います。

朝河博士については歴史学者というより、平和主義者としての面で語られることが多いかと思います。
朝河博士は日露戦争後に日本の将来について警告を発した『日本の禍機』を執筆し、昭和16年(1941)太平洋戦争開戦直前にルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書の草案を作成するなど、戦争回避への積極的な取り組みをしています。
『日本の禍機』は日露戦争の勝利に酔い知れ、軍備拡大や大陸進出を進める政府や世論に警鐘を鳴らしました。しかし、ここに書かれた危惧はその後、太平洋戦争として現実のものになり、図らずも予言書となってしまいました。
ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書については、朝河博士の草案を基に、親書が作成されましたが、この親書が届いたのは真珠湾に向けて攻撃機が飛び立った直後であり、朝河博士の願い空しく日米開戦に至りました。
戦時中、アメリカ在住の日本人・日系人の多くが強制収容されるなど、行動の制限を受けましたが、朝河博士にはこれまでの業績と思想への敬意がはらわれ、行動と学問の自由が保証されました。

このように、平和主義者としての朝河博士については、広くしられるようになってきましたが、これに対し歴史学者としての朝河博士の業績は埋もれているのではないかと思います。
朝河博士の初期の代表作『大化改新』では大化の改新を日本の封建制度のはじまりとし、中国から何を学び、何を学ばなかったかを分析しています。
後期の代表作『入来文書』は、薩摩入来院家に鎌倉期から江戸期にかけての古文書群を調査したもので、この調査を基にした日本とヨーロッパの封建制度比較研究はこれまで例がなかったもので、欧米で高い評価を受けました。

朝河博士は古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の分野で大きな業績を残した訳ですが、現在の古代史・中世史の専門書で、朝河博士の名を見ることは決して多くはないということを常々感じていました。
その理由として、私は矢吹晋著『朝河貫一とその時代』(花伝社)の一文に注目しています。

矢吹先生は戦後、永原慶二教授・石井進教授といった中世史研究の大家が入来調査を行い、報告書を作成しましたが、その中で全く朝河博士について触れていなかったことを指摘しています。さらに永原教授が報告書において、入来に奴隷制があったに違いない、しかもここに奴隷制を発見できるならば、これは例外ではなく、日本全体の奴隷制度を論証する史料になっている前提に立っていると指摘しています。
対して朝河博士は日本に奴隷はいなかったと『入来文書』に基づいて実証しており、朝河博士の説と永原教授の説は相容れないとしています。
矢吹先生はこれを「つまり永原教授のような中世史像を描く左翼公式主義者にとって、朝河学説はたいへん具合の悪い、不都合な学説であったと思われます。永原教授は敢えて入来まで調査に行き、敢えて朝河学説を無視したものと思われます。永原教授の日本中世史像は報告書の基調がずっとそのまま続いているようです。教授は晩年『二〇世紀日本の歴史学』という本を書きましたが、朝河は出てこない。」として、永原教授は自説の主張に都合が悪い朝河説を黙殺したのではないかとしています。

さらに続けて、「要するに、永原教授は、教授の歴史学と朝河史学は相いれないと認識していたようです。私はここで永原学説が朝河史学と異なることを問題にしているのではありません。見解の相違は当然ありうることです。その場合、研究者ならば朝河学説を批判して自説の正しさを主張するのがスジでありましょう。単に黙殺する。黙殺し続ける態度。これは研究者のとるべき態度ではなく、政治的セクトにありがちな政治行動です。学問の世界に政治を持ち込む安易な政治主義が学問の腐敗を生むと認識して、私はこれを批判しています。」
つまり、本来学説を批判することで、自説を主張するべきなのに、永原教授は政治的スタンスによって、朝河説を黙殺したとして、矢吹先生はこれは強く批判しています。

もちろんこの問題は、永原教授側から見るべきものもありますが、戦後の歴史学の流れにおいて、中世史の大家永原教授から朝河史学が黙殺されたという事実は、朝河史学が埋もれてしまった一つの要因であったと考えて良いのではないかと思います。

矢吹先生はさらに朝河博士が黒板勝美教授と論争したり、南北正閏問題に悩む三上参次教授を慰めたりしたことを指摘しています。また、「島津忠久の生い立ち」の三ヶ所で検閲を受け削除された部分があり、前後の文脈から皇国史観が朝河史学を許さなかった一例と判断できるとしています。
つまり、朝河史学は皇国史観からも許されなかったとしています。
朝河史学は戦前の皇国史観から認められず、その反動である戦後の唯物史観からも黙殺されたということになります。
しかしこれは裏を返せば、朝河史学というものは、その時代ごとの潮流に流されることがない、普遍的なものであったのではないかと思います。

矢吹先生の指摘は、歴史を研究する者の姿勢を問うものであり、自説を主張するにあたり、都合の良い取捨選択は厳に慎むべきであると改めて感じた次第です。

さて、朝河博士については、ほかにもさまざまな切り口があり、朝河博士を輩出した二本松藩士朝河家についても、天狗党の乱や戊辰戦争で戦死した人物がいるなど、朝河博士の人格形成の背景になる部分にも興味深いものがあります。
またその辺のことは別の機会に触れられればと思います。

企画展で配布されているゆかりの地マップにも載っていますが、朝河貫一博士生誕の地は二本松市根崎にあり、案内板が設置されています。



朝河家の墓所はかつて真行寺(二本松市竹田1丁目192)にありましたが、現在は金色墓地(二本松市金色400番地3)に移されています。朝河博士はアメリカで死去したため、アメリカニューヘイヴン市グロウヴ・ストリート墓地に墓がありますが、故郷二本松の朝河家墓所内にも建立されており、ミリアム夫人の墓には「美里安之墓」と刻まれています。



二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」は3月26日(日)まで開催されています。
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人参畑塾の名伯楽 高場乱の銅像が建つ

2023-03-11 22:55:20 | 日記
会員のカトケンです。

今月3月31日、福岡県福岡市博多区千代4-7崇福寺に頭山満や進藤喜平太ら玄洋社の面々を育てた高場乱の銅像が建つ。

昨年10月の機関誌「玄洋」の記事の中で崇福寺墓地が整備され、高場を顕彰し銅像が3月に建てられるとの談話が披瀝されていた。31日は高場の命日に当たる。

歴史ものといえば、偉人の師匠に光が当てられることがかつては多かったが、今は余り取り上げられない。

支那風に言えば、一日千里を走る馬を育てた名伯楽と崇められるものだ。

長岡藩家老河井継之助や二松学舎を創った三島中洲を育てた備中松山藩儒者山田方谷、西南役の熊本鎮台司令長官谷干城や亀山社中池内蔵太を育んだ安井息軒、大野右仲の父肯堂や吉田松陰の義弟楫取素彦を育てた塩谷宕陰、屋敷に塾の場所を提供した勘定奉行小栗上野介や亀山社中近藤長次郎を育てた安積艮斎など…枚挙に遑なし。

ともあれ、博多では人参畑のばばさん、ニンジンと言ってもそれは薬草人参(いはゆる朝鮮人参)なのだが、通りかかるとお年寄りが「ここは元気もんがそろうとったとばい」と話しかけてくる(機関誌「玄洋」第109号より)。

高場乱の墓の背面に刻まれた勝海舟書の碑も建てられたというし、ささやかながらも異色ある経学の道場 高志塾(=同誌より)を偲んで訪ねてみるのはいかがだらうか。

昨日今日と暖かくて穏やかな日が続いているが、そのころにはも少し春めいていることを祈りつつーー

いつだったか、博多に行ったとき頭山満生誕の大きな楠がある筒井家の跡で写真を撮っていたら、「え、フィルムですか?」と声をかけられ、「もう少し前だったら玄洋社の話をしてくれる人がいたのだが」と話してくれた方がいたことを思い出す。

しばらく足を運んでいないが、今日は明日の山南忌に備え京都へ現地入り。聚楽第(松林寺に残る分銅堀跡)や平安京跡を満喫したーー(=写真)





最後の写真は丸太町通からの夕日。

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