探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」開催のお知らせ

2017-02-21 22:41:31 | イベント
会員のカネコです。
探墓巡礼顕彰会では、第14回目となる巡墓会を5月14日(日)深川近辺の寺院にて行うことになりました。
深川近辺の寺院に眠る主に江戸初期と三大改革期の人物の墓参を行い、その事蹟を解説いたします。
皆さまのご参加をお待ちしております。

開催要項は以下のとおりです。

■開催要項
★日時 平成29年5月14日(日)雨天決行
12:30 地下鉄清澄白河駅A3出口にて受付開始
13:00 寺院へ移動後、開会式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
      巡墓会開始
      (途中・集合写真撮影・トイレ休憩有り)
16:30 現地にて解散式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
17:00 懇親会

★集合場所:地下鉄清澄白河駅A3出口を出た所
【交通】東京メトロ半蔵門線/都営地下鉄大江戸線 清澄白河駅




★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★巡墓寺院
霊巌寺・成等院・浄心寺・本立院墓地・雲光院
※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

★主な巡墓人物
松平定信(白河藩主、老中、寛政の改革)
森陳明(桑名藩士、箱館新選組)
紀伊国屋文左衛門(商人、みかん船)
矢部定謙(江戸町奉行、火盗改)
三沢局(徳川家綱乳母)
間宮林蔵(幕臣、北方探検家、間宮海峡)
阿茶局(徳川家康側室、大坂冬の陣)
後藤三右衛門(商人、水野忠邦の三羽烏)

★参加費用:1,500円(資料代含む)
(定員20名~30名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000円程度/場所:清澄白河駅近辺にて)

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」-申込みフォーム-


【深川巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※墓地内は一部、足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。
※一般の歩行者の方や、墓地内の墓参の方の妨げにならないよう、幹事メンバーの引率に従っての移動をお願いします。
※少人数の幹事での運営となります。参加者の中にはご年配の方・お子さまもおり、車の往来が多い道もありますので、なるべく引率のお手伝いもお願いします。
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間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-

2017-02-05 22:03:24 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
京急川崎駅の下りホームを降り、左側に目をやると、寺院墓地が広がっています。
これは曹洞宗瑞龍山宗三寺の墓地です。
私は日々この風景を見ながら出勤しています。
この墓地の京急寄りの壁際に間宮豊前守信盛の墓碑があります。
宗三寺は創建年不詳ですが、鎌倉期に創建された禅宗勝福寺が前身と言われ、佐々木四郎左衛門高綱の菩提寺となったものの、その後、衰退し、戦国期になり小田原北条氏の家臣であった間宮豊前守信盛が開基となって中興しています。

『寛政譜』によるとこの信盛は江戸期に複数の旗本家を輩出した間宮家の祖であり、宇多源氏佐々木庶流を称しています。
『寛政譜』の冒頭には次のように書かれています。
「間宮 先祖は萬石、眞野、船木等を称し、新左衛門信冬伊豆國田方郡間宮村に住せしより称号とす。」
系譜には上記信冬の後「寛永系図に、信冬より豊前守某にいたるまで、其間中絶せりといふ。」とあり、その後「某 豊前守 今の呈譜に信盛につくる。北條早雲及び氏綱につかふ。某年死す。法名宗三」とあり、その子「某 豊前守 今の呈譜に信元に作る。」その子「康俊 豊前守」と続いています。
康俊は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、伊豆山中城で戦死。その孫直元が徳川家康に仕え、旗本になっています。康俊の子信高、元重も旗本となっており、また、娘お久(普照院)は家康の側室となり、松姫を産んでいますが、松姫は早世しています。





宗三寺の信盛の墓碑は正面に[人皇五十九代宇多天皇第八皇子一品式部卿敦實親王十六代後胤 當寺開基雲谷宗三居士 佐々木間宮豊前守入道源康信]と刻まれており、信盛ではなく、曾孫の康信の名が刻まれています。しかし、宗三は信盛の法名であり、寺の中興開基であるので、この墓碑が信盛のものであることは間違いないでしょう。
側面には天和3年(1683)に間宮金五郎尉盛正によって建立されたことが刻まれています。
この金五郎尉盛正の名が『寛政譜』には見られない名であり、信盛との繋がりは不明です。
側面と正面の刻銘を比べると、側面は天和の頃のものに思われますが、正面は後年彫り直したようにも見られ、改修が加えられたようにも見られます。
それはともかく、信盛が宗三寺の開基として大切にされていたことは間違いなく、江戸期に数多くの旗本家を生みだした間宮一族の祖の墓としての風格を持った墓碑であると言えます。

さて、間宮と言えば、前回の記事で名前が挙がった北方探検家間宮林蔵が最も著名な人物となります。

初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓

林蔵は常陸国筑波郡上平柳村の農家の生まれ、その才覚で出世し、最後は幕臣に取り立てられた人物です。
林蔵の先祖について、洞富雄著『間宮林蔵』(吉川弘文館 人物叢書)には次のように書かれています。
「庄兵衛(林蔵の父)の祖先は、間宮隼人という武士で、寛永年中(一説には、嘉吉年間あるいは慶長年間ともいう)に、この村に移り住んで百姓になったと伝えられる。」とあります。
この間宮隼人について前田右勝編著『神奈河戦国史稿』には康俊の子として、掲載されている系図にも康俊の子として記載されています。この出典として『磯子の史話』『茨城県大百科辞典』が挙げられていますが、さらにこれら書籍の出典元を確認する必要があります。
少なくとも『寛政譜』には康俊の子に隼人という名は見られません。
間宮隼人が果たして康俊の子であるかは、様々な資料を比較検討せねばなりませんませんが、このような名のある武士の子孫が帰農するという話は日本全国に見られるものであり、これらの話を眉唾と一蹴することは簡単です。しかし、その家にとっては代々大切に伝えられている話であり、何故その苗字になったのか?その家紋を使用しているのか?ということは様々な角度からの検討が必要であると思います。
先日黒坂さんが書いた信濃国筑摩郡竹淵村に帰農した酒井家などもその好例です。

年頭のあいさつと謎の墓

間宮林蔵の家が康俊の子孫であると断定はできませんが、かつて小田原北条氏の重臣であった間宮氏の一族の一人が上平柳村に辿りつき帰農し、一族の中で著名であった信盛や康俊の系統に結び付けた可能性はあるのではないかと思います。
これに関してはつくばみらい市上平柳にある間宮林蔵記念館や林蔵の菩提寺である専称寺へ行き、追跡調査をしたと考えています。
コメント (2)
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初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓

2017-02-01 02:24:11 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
昨年末、ロシアのプーチン大統領来日でにわかに北方領土が注目を浴びましたが、北方四島をはじめ、樺太・千島列島が日本の領土になった経緯というものはもう一度理解するべきなのではないかと思いました。
その中で出会ったのが今回紹介する初代蝦夷奉行羽太(はぶと)安芸守正養です。

江戸後期から明治にかけて様々な人物が北海道から周辺の島々を命がけで探険し、その土地に住む人々や風土を調査したことにより、未知の世界であったこの地域の実情が明らかになりました。例えば伊能忠敬や間宮林蔵などはその代表的な人物です。
今回紹介する羽太安芸守正養は地味な存在ではありますが、旗本で蝦夷地奉行、箱館奉行、松前奉行を歴任し、現在の北海道千歳市の「千歳」の命名者といわれている人物です。
『寛政重修諸家譜』によると正養は羽太勘兵衛正香の子で、通称を庄左衛門といい、御蔵奉行、田安家の用人、御目付などを歴任しています。寛政譜の記載はここまでですが、『徳川幕臣人名辞典』によると、享和2年2月23日(1802・3・26)に蝦夷奉行、同年5月10日(1802・6・9)に箱館奉行(文化4年10月24日(1807・11・23)に松前奉行と改称)となっており、まだ未開の地であった蝦夷地の行政や警固の任にあたっています。

正養の蝦夷地での業績については大塚武松著「追録 箱館奉行羽太正養と蝦夷地経営」(『幕末外交史の研究 』)、北海道総務部行政資料室編 『開拓の群像 中巻』に詳しく書かれています。

寛政11年(1799)幕府は南下政策を進めるロシアを警戒し、東蝦夷地を松前藩から引きあげ、直轄地としました。そして蝦夷地取締御用掛を新設し正養のほか、松平信濃守忠明・石川忠房・大河内政寿・三橋成方を任じました。
蝦夷地取締御用掛として箱館に赴いた正養は、箱館に造船場を建設し、通行の便を良くするため、堀を作り、そこに橋をかけ栄国橋と名付けました。
また、当時は渡航が危険であったクナシリ島(北方領土の国後島)へ渡航し、島の隅々まで検分を行いました。
飲み水が悪く困っていたトリマでは重松という従者に命じて井戸を掘らせた所、質の良い水が沸きだし、正養はこれを「重松の井」と命名し、次のような歌を詠いました。
「いく世々にくみて知るらむつくりなす 坂井の水のふかきめぐみを」
箱館に戻った正養は江戸に帰り詳細な、検分記録と地図を幕府に提出しました。

共に蝦夷地御用取締掛を務めた松平信濃守忠明とは深い友情で結ばれており、『開拓の群像 中』には次のようなエピソードが記されています。
正養は駿府城代に昇進した忠明に手紙を送って、忠明の敏腕を褒めながらも、はやる心をおさえて、おもむろに進むこともまた必要であると忠告をしています。これに対し忠明は「兄のことばのようにありがたくいただく」と答え「このごろのエトロフの発展をもって忠明の手柄のように評判する向きもあるが、これはみな、あなたのおかげである。この間も将軍家へそのように申し上げました」と功を譲り合い、ともに失敗のないよう戒め合いました。
また、ある年、正養が箱館へ赴く時、忠明は「何か贈り物をしたが、何が欲しい」と尋ね、正養は「奉行所勤務のひまひまに使いたいから、蹴鞠が欲しいのだが、手に入るかどうか」と返事をすると、忠明は蹴鞠を八方探し求め正養に送りました。
遠く離れた蝦夷の地で友を想いながら、蹴鞠に興じる正養の姿が目に浮かぶようです。

蝦夷地取締御用掛として功績を挙げた正養は享和2年2月23日(1802・3・26)戸川筑前守安論(宝暦12年(1762)~文政4年3月23日(1821・4・25)曲直瀬正山の二男)と共に初代蝦夷奉行に任じられ、交代で箱館に在勤しました。
正養と戸川は拡大された幕府直轄地への新政の確立と経費を定めることで、松前藩時代の悪弊が改められ、北方経営は順調に進展しました。また、両名は蝦夷地に三寺を新設し、箱館近辺の開墾、虻田に牧場を開設するなど、業績を挙げていきました。
文化2年(1805)には当時シコツと呼ばれていた千歳地方を訪れ、シコツ川を千歳川と改名し、このことにより「千歳の名付け親」とも呼ばれています。

順調に進んでいたかに思われた蝦夷地経営は文化4年(1807)に暗転することになります。
この年の4月29日(1807・6・5)ロシア船2艘がエトロフ島(北方領土の択捉島)ナイボ(内保)を襲撃し、さらに幕府の会所があったシャナ(紗那)を襲撃しました。会所を守っていた戸田亦太夫は詰めていた南部・津軽各藩の兵に命じ、上陸してきたロシア水平と一戦を交えましたが、陣屋は火器に劣り敗れ、夜に会所を焼き払い退却。その途中亦太夫はアリモエで責を負って自刃。亦太夫は寛政11年(1799)蝦夷地取締御用掛が新設された際に普請役として蝦夷地に赴いて以降、蝦夷行政に携わっており、志半ばにしての無念の最期でありました。
この事件の際、測量で訪れていた間宮林蔵は会所を打って出る主戦論を唱え奮戦、高田屋嘉兵衛の漁場の支配人川口寅吉も負傷しています。
この事件が正養のもとに届いたのが翌5月になってからで、正養は幕府に急報し、南部・津軽両藩の出動を促しました。7月に江戸から幕兵を連れて箱館に来た若年寄堀田正敦は蝦夷地を検分し、正養の治績が上がっていることを認めたものの、エトロフの敗戦の責は正養にあるとして、10月に江戸に戻され、戸川安論とともに奉行職を解かれ、小普請逼塞を命じられました。逼塞は翌年に解かれましたが、彼が再び表舞台に出ることはなく、文化11年1月22日(1814・3・13)62歳で没しました。

正養の大きな功績は『休明光記』を書き残したことです。
在任中の蝦夷地の行政をはじめ、松平忠明・戸川安論・最上徳内・近藤重蔵・高田屋嘉兵衛など、共に蝦夷で働いた仲間の事績も書かれており、本編9巻、その参考となる文書類を集めた附録11巻、附録一件物3巻、附録別録4巻の計27巻からなる大著となっています。これは幕府の蝦夷地行政を知る一級資料となっています。

『休明光記』は函館市中央図書館所蔵デジタルアーカイブで閲覧することができます。
『休明光記』

正養は元来蒲柳の質であったといい、幼い頃より心を文に寄せ、和漢の書に通じ、よく歌や句を詠みました。また、『羽太氏家訓』を遺し、忠孝五倫の大義より、父子・夫妻・主従・長幼の関係、学問の選択、日常細末の心得を古今和漢の例証に照らして書いています。

正養の墓は私の自宅から近い品川区南品川2丁目8-23の顕本法華宗別格山天妙国寺にあります。
『寛政重修諸家譜』によるとこの天妙国寺は羽太家3家が菩提寺としています。
羽太家は藤原氏利仁流を称し、徳川家康に仕えた羽太半蔵正次にはじまります。
正次は天正18年(1590)家康が関東へ移った際に従ったものの病のため三河国額田郡大門村に隠遁し、その子正俊は慶長2年(1597)29歳で早世、その子正成は祖父の許で養われ大門村で育ちました。慶長19年(1914)家康が大坂冬の陣へ向かう途中、正成は供奉する事を願い出て、大樹寺の門前で家康の御前に召され、姓名を尋ねられました。すると正成は家康の側に仕える事を命じられ供奉の列し、大坂夏の陣にも側で仕え、その後、駿府において近習を務めてました。家康死去後、大番となり、甲斐国八代郡のうちに150石を賜りました。
この正成には男子が多く、二男勘兵衛正弘は甲府宰相綱重の附属して桜田館の小性組を務め、後に綱重の子綱豊が将軍綱吉の世子家宣として西の丸に入ると幕臣となり300俵を賜っています。
三男庄左衛門正平も同じく甲府宰相綱重の小性から家宣に従い幕臣となり500俵を賜った家であり、この正平が正養の祖であり、正養は正平から数えて5代目となります。
尚、当会幹事のカトケンさんのご先祖も桜田館に出仕しており、羽太正弘・正平とは同僚であったことになります。
以上の本家・正弘家・正平家の3家が天妙国寺を菩提寺としており、正成五男清左衛門正次の家は四谷松岸寺を菩提寺としています。

正平家の墓は合葬墓となっており、正面に[羽太家累世之墓]と刻まれ、3面には撰文が刻まれており、享和3年(1803)正養によって建立された墓碑であることが分かりました。





この墓は私が北品川に転居して間もない平成24年(2012)1月に初めて訪れ撮影しました。
この時のことは以前のブログにも書いています。

品川宿の寺々

その後、数度訪れていましたが、昨年末に訪れた際、京急本線ガード下付近の無縁集石地に移動されていました。



後継者が絶えたためだと思われますが、昨今各地で無縁墓が廃棄される中で、このような形で保存されたことにお寺側の心遣いを感じました。
正弘家の墓所は墓地左最奥にあり、歴代の墓が良好な形で残されています。
また、本家の墓は今まで見つけることが出来ませんでしたが、昨年末の調査で、無縁集石墓に移された正平家の墓の左隣の小さい墓碑の側面に[羽太清右衛門]と刻まれてあるのを見つけ、清右衛門とは本家の当主の通称であることから、これが本家の墓であったことが分かりました。



平成24年(2012)に訪れた際は正養の人物像については全く知りませんでしたが、昨年のプーチン大統領来日で北方領土の歴史を調べた中で、この羽太正養の名が出てきて、天妙国寺で見た墓と繋がりました。
そこから見えたのは当時未開の地であった蝦夷地の発展に半生を掛けた一人の男の生涯と、命をかけて蝦夷地で生きた仲間達の姿でありました。
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