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探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

『歴史研究』最新号(2025年5月第730号)に掃苔行脚を寄稿

2025-05-06 23:42:21 | 会合報告
会員のカトケンです。

掃苔行脚をリレー連載している『歴史研究』最新号「特集 島原・天草一揆」(2025年5月第730号)に東京都文京区護国寺の富田鉄之助の墓を寄稿した。毎度刊行の度に宣伝を忘れてしまうため、お知らせしておきたい。

富田は、旧仙台藩士で第2代日銀総裁を務めた人物。一昨年の「護国寺・雑司ヶ谷巡墓会」で紹介した場所である。富田が日銀総裁を辞任する際に蔵相の松方正義と意見の相違があり、けんか別れするところを仲介した人物の生誕地碑が、筆者の住む京丹後市の隣町与謝野町にあったことから取り上げたものである。京都丹後鉄道与謝野駅から積雪を押して30分ほど歩いて訪ねた[神鞭知常先生生誕地]の碑が福寿寺にアクセスする手前の駐車場にひっそりと建っていた。[こうむちともつね]と読む。

神鞭は与謝野町石川の出身で、宮津藩士となって出仕し、瓦解後米国留学で富田と知り合った。大蔵省に勤務し、主税局次長を最後に退官。その後衆議院議員になり、松方内閣などで法制局長官を務めた人物である。

墓は青山霊園にあり(=写真右。左端は父の墓)、正面[神鞭知常之墓]、裏面[重蔵之長子、母土肥氏。嘉永元年八月四日(正しくは弘化五年。1848・9・1)生於丹後国与謝郡石川村(現京都府与謝郡与謝野町石川)。明治三十八年(1905)六月二十一日卒於播州須磨(現兵庫県神戸市須磨区)。享年五十八]と刻む。



松方正義の墓と同じ並びにあって関連付けると分かりやすい。なお、富田の前任初代日銀総裁吉原重俊の墓は、中央通りから忠犬ハチ公の飼い主上野英三郎の墓に向かう東三通り入口南側に高くそびえ立つ。

最後に、神鞭の生誕地碑の写真も掲げておこう。

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第27回土佐史談会関東支部例会無事終了

2025-02-16 22:32:43 | 会合報告
会員のカトケンです。

令和7年2月8日(土)15:30から新橋の酒菜浪漫亭にて、第27回土佐史談会関東支部例会が催された。

18名の参加を得て、今年度2回目の例会を開くことができた。今回は理事の1人吉澤林助さんに「長宗我部氏と土佐の自然」について講演をお願いした。

吉澤さんは東京都立大の大学院生で、博士課程で歴史を学んでいる。Xに書いたように前回から例会の報告を載せるよう定例化したことから詳しくは『土佐史談』次号に譲るが、今までの研究史を踏まえ、朝鮮出兵前後で長宗我部元親の統治の仕方が変わってきたのではないかというものだった。

豊臣政権にもまれながら、自然環境に育まれたゆえの長宗我部氏の苦労を垣間見た気がした。

史料が10点以上引用されたが、さすがは現役の大学院生だけあって、手紙の尚書が一段下がって冒頭の空白に来る形式面について分かりやすい説明があったり、地名と人名の箇所がを多く取り上げたため、参加者の多くが高知県人であるから、地名やゆかりのある人物に敏感に反応していたりして、皆さん興味を抱いたようだった。

特に国人や家老の名前が出てきた中で、懇親会で国人の一人津野氏の本を『津野山鏡』上・下巻(リーブル出版)にまとめた子孫である津野久志さんからの紹介につながったり、いの町出身者からその地域を治めた久武氏に触れられたりと話題が尽きなかった。

要点を区切りよく繰り返し説明されたことも初めて聞いた人にはとっつきやすかった。今後は仮説をさらに確固たるものにすべく研鑽を積んでいただきたいものである。快活で歯切れの良い説明も好感が持てた。

懇親会は恒例の自己紹介を今回は最初の方で行ったら、土佐の宴会は飲むとグチャグチャになって話をしても聞いてくれないのに、この会は良いとお褒めをいただいた。こちらとしては、自己紹介後に興味ある方に話しかけるきっかけを作ろうとの試みだったから、思わぬ感想に驚いたことだった。

運営方法も理事の皆さんと相談して、より参加者の満足度を上げていけたら何よりだと考えている。ともあれ、毎度開催にご協力いただける理事の皆さんや参加者の方々には感謝しかない。コロナ後に同好の方々の交流の場が設けられることは本当に幸いと実感している。

1年早いもので、コロナ前のとおり年2回の例会を今年度は復活させ、何とか達成できた。

拙い手探りの運営で行き届かない面もあろうが、それはすべて私の責任である。歴代支部長に比して、知識も能力も手腕も遠く及ばないが、毎回楽しみにしてくださる参加者の方々の顔を思い浮かべては、次回以降の構想を練っていきたい。


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全国歴史研究会吉成勇主幹ご逝去

2021-04-21 23:05:59 | 会合報告
去る3月19日(金)全国歴史研究会吉成勇主幹がご逝去されました。享年81歳でした。

当会は平成21年(2009)3月28日、吉成主幹の『歴史研究』誌上の呼びかけに応じ、第1回目の打ち合わせが開催され、新選組・火盗改研究の第一人者である釣洋一先生・カトケン・カワチ・カネコが集まり発足しました。
吉成主幹は当会の「生みの親」ともいうべき存在でした。

発足当時は全国歴史研究会墓碑研究部会・探墓巡礼顕彰会という二つの会の幹事を兼任する形式で運営が始まりました。
平成21年(2009)11月に初めての企画である「青山霊園巡墓会~龍馬ゆかりの墓碑を訪ねて~」を開催し、当初の巡墓会は『歴史研究』誌上で参加者を募り、吉成主幹にも毎回お越し頂いておりました。
また、五反田東興ホテル内のカフェで定例会を行い、吉成主幹にはさまざまなご指導を賜りました。ひと回りもふた回りも年齢の離れた我々にいつも暖かく接して頂きました。

平成24年(2012)8月、全国歴史研究会の組織変更により墓碑研究部会が廃止となり、探墓巡礼顕彰会に活動を一本した後、吉成主幹は当会の運営から離れましたが、発足当時から現在に至るまで、『歴史研究』誌上では「掃苔行脚」のリレー連載を掲載させて頂いております。
墓碑研究部会廃止後も折に触れてご助言・激励を頂いておりましたが、この度、突然の訃報に接し、メンバー一同深い悲しみに襲われています。
巡墓会にお越し頂いていた頃の元気なお姿が思い起こされます。

吉成主幹は昭和34年(1959)の『歴史研究』創刊以来、60有余年にもわたり、全国の在野研究者・歴史愛好家のために尽力されてきました。その偉大なる功績に改めて敬意を表します。

ご家族・関係者の皆さまのお悲しみ、ご落胆はいかばかりかと拝察いたします。謹んでお悔やみ申しあげますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。

令和3年4月21日

探墓巡礼顕彰会(旧全国歴史研究会墓碑研究部会)幹事一同
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雑司ヶ谷霊園の改葬危機の墓所

2019-06-22 00:21:37 | 会合報告
会員のカネコです。
以前、谷中霊園と青山霊園の改葬危機の墓所について取り上げました。

谷中霊園の改葬危機の墓所


青山霊園の改葬危機の墓所

さらに、その前には染井霊園の姫路藩主酒井忠績の墓所が改葬危機にあることも取り上げました。

撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓

今回は雑司ヶ谷霊園を取り上げます。
雑司ヶ谷霊園でも無縁となった墓所に改葬告知の札が立てられているのをよく見かけます。
その中の著名な家としては公家の澤伯爵家の墓所があります。

澤家は天武天皇皇子舎人親王の後裔で本姓は清原氏、江戸時代中期に舟橋庶流の伏原家より分家して一家を興しています。
幕末の当主澤為量は安政5年(1858年)養子宣嘉と廷臣八十八卿列参事件に加わって日米修好通商条約勅許に反対しています。宣嘉は「七卿落ち」の一人として長州へ落ち延び、生野の挙兵に参加するなど、尊王攘夷派の公卿として過激な活動をしています。維新後は外務卿となり、外交に関わりますが、明治6年(1873)ロシア公使に決まり、着任する直前に38歳で急逝し、小石川伝通院に葬られています。伝通院には宣嘉のみの墓碑があり、為量はじめ、澤伯爵家の人々は雑司ヶ谷霊園に葬られました。
宣嘉以降の澤伯爵家は複雑な家督相続をしていきます。
宣嘉の後、隠居していた養父為量が再相続し、宣嘉の養子として後継者と目された為量三男宣種は廃嫡となり、その後分家。宣種の養子となっていた宣嘉長男宣量が為量没後、家督相続しています。
『昭和新修華族家系大成』によると、この本が刊行された時点の当主名は空欄となっており、宣量には男女4名の子の記載があります。当主となった宣量長男宣武には妻子がなく、昭和41年(1966)に没しています。
無縁告知札には埋葬者として、宣量の子4名の名も記されており、宣量の子の代で澤伯爵家は絶えたことが窺われます。
現在立てられている告知札は平成30年12月28日に立てられており、額面通りで行けば、令和元年12月29日が期限となります。



これは今年の1月に撮影したものです。



こちらは最新の今月16日に撮影したものです。

尚、近くには宣嘉の二男宣元が分家して男爵となった澤男爵家の墓所もあり、こちらは無縁告知札は立てられておらず、祭祀が続いているようです。
『昭和新修華族家系大成』によると、2代宣一には娘2人がおり、他家に嫁いでいますが、そのご子孫によって祭祀が続けられているように思われます。
前述の通り、本家である伯爵家の家督相続が複雑であり、男爵家のご子孫とは世代も離れているため、男爵家の方が伯爵家の墓所を継承することは難しいように思います。

以前も書きましたが、幕末維新に活躍した人物の墓所といえども、あくまでご子孫の祭祀の場であり、ご子孫が絶えた場合は、その維持が難しくなります。
我々ができることとしては記録に残し、墓所が確かに存在したことを伝えるということになるかと思います。

大変厳しい現状ですが、澤伯爵家の墓所がご縁者によって維持されることを願っております。
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6/2開陽丸子孫の会に出席

2019-06-14 00:05:10 | 会合報告
会員のカトケンです。先日、毎年参加している[開陽丸子孫の会]に出席。小杉雅之進御子孫の従者の身分で自己紹介させていただいた。

『探墓巡礼』を刊行し、谷中地区に限られるが、箱館戦争に参加した人ばかりでなく、オランダ留学生や榎本と接点のあった人、高橋泥舟・山岡鉄舟などの恭順派も載せており、旧幕府方の決定版だと案内したところ、予想以上の反応があった。

久しぶりにお目にかかる四国のJさんは順天堂のことが載ってるならとご注文くださり、あとでレターパックにて送らせてもらったほどである。

幕府海軍に関する神谷先生のお話は浦賀をおさえる重要性が分かったし、中島三郎助御子孫恒英さんの喜びの声も会を和ませた。

また、小弟から御子孫探しに協力する旨も申し出た。墓を基軸に新たな五稜郭への旅を目指したい。



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