探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

御楯組血盟書

2017-07-23 00:22:11 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

今回は閑話休題ーー墓は出てこない。

地元静岡の市立美術館で「坂本龍馬没後150年特別展」が開催されている。東京国立博物館や長崎などを巡回し、なぜか静岡も入っている。家康と慶喜展など、通常の美術館よりも多く歴史物の展示を催すし、将来市の歴史博物館を創るための布石なのかもしれない。(=写真)



それほど大きくない場所に午前中から行列が並んでいるのに辟易して入場を諦めてしまった。

いや、フラッと寄った観光案内所で手にしたチラシーー浅間神社内の文化財資料館で催されている「御楯組血盟書」の方が気になったから、そちらを優先したといった方が正確だろう。

入ってみると、いつものとおり閑散とした状況でじっくり展示物を眺めるにはうってつけ。来客は、小弟と同様に食い入るように観ている青年と、若いお母さんが少々関心がありそうな親子連れと筆者のみ。

興味を引いたのは、井上馨自賛肖像に載っていた狂歌「寝つ興津 浮世の外の老いの身は用があつてもむかひ横砂」
小弟には「用がありても」と読めたがどうだろう。それはともかく、清水の地名を「起きつ」や「寄越すな」に引っかけるあたり、確かに世外侯が今、埋蔵文化財センターのある場所に住んでいた実感を湧かせるものがある。

これを詠んだ状況を第3次伊藤内閣への入閣を断ってと解説にあった。

井上の条約改正がうまくいかなかったことをどのように書いてあるかーー解説シートをあとで読んでみると、明治日本の最優先課題であった不平等条約の改正につき治外法権の撤廃項目を15年も取り組んだとある。

他方、前任の薩摩出身外相寺島宗則は関税自主権の回復項目に力を入れていたようだ。

皆さんよく御存知のとおり、井上の取り組んだ前者は紀州出の陸奥宗光が、寺島が挑んだ後者は宮崎出の小村寿太郎が改正させた。

こうしてみると、薩長閣僚は目先の功績を焦って独立国家としてのあるべき姿を取り戻そうとしていたのか疑いたくなる面がある。時期もあったであろうが。

それにしても、井上蔵相時代部下だった渋沢栄一や益田孝が上司井上を辛辣に評しているのが面白い。

肝心の御楯組血盟書の署名ページが展示されておらず、筆者が20代のときに取り組んだ「赤根幹之丞 貞」(武人の通称で知られ、諱は貞一)の署名部分を見ることができなかった。活字化して配布されたものには赤根の「根」が「禰」になってはいるのだがーー赤根は周防の離島である柱島(現在岩国市)から出てきた奇兵隊総督で、裏切者の汚名を着せられ藩内で処刑された人物。

まだ9月まで展示が続き、署名部分は入替後に見られるようだから、今一度足を運んでみたい。今回は血盟書の旧所蔵者楫取素彦(久坂玄瑞未亡人の後の夫)の印が保管箱に押されているのを見ることができたので善しとしよう。

この御楯組血盟書とは、井上が文久2年(1862)に高杉晋作や楫取を除く上記長藩士たちとともに英国公使館焼き討ちの前に攘夷の誓いを立てた物騒な代物である。楫取の実兄松島剛蔵も署名者、井上は志道(しじ)家に養子に行っていたとき。

静岡市でまさか長州ものの展示が見られるなど、井上の別荘があったとはいえ「大政奉還150年」なら何でもアリだなと資料館を後にした。(写真はチラシ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多磨霊園と寺院専属区画

2017-07-21 08:36:24 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
今回ご紹介するお話は個人の墓や家の墓を目的としたものではなく、中途報告的な内容になります。
さて、都立霊園面積として最大規模を誇る霊園と言えば、多磨霊園です。
多磨霊園には多くの近代以降の著名人や自分の研究対象である旧華族の墓所もたくさんあります。
そんななか霊園正門に近い3,4,5,7区に江戸期の古い石塔を多数見ることが出来ます。
例えば、下の写真は3区にある旗本大久保家の墓所です。



この大久保家は、徳川草創期の重臣大久保忠隣の三男として生まれた大久保教隆を祖とする交替寄合6000石の大久保家です。
初代教隆は幼少期から秀忠に仕え、関ヶ原合戦の際も秀忠軍に従軍していましたが、若年を理由に江戸に戻されています。
慶長11年には、3000石を与えられ、小姓組番頭となります。同時期の同輩に水野忠元、井上正就、板倉重宗、日下部正冬、成瀬正武という江戸幕府草創期を支えた人物が並んでいます。
しかし、いわゆる大久保長安事件前後の大久保忠隣の改易などの騒動をきっかけに教隆にも連座し、改易されています。
後に赦されて、書院番頭を務めて3000石を加増され、大番頭となりました。
教隆没後は子の教勝が継ぎ、代々6000石を継承していきます。ちなみに二男の忠朝は、本家忠職の養子となり、小田原藩主(後期大久保氏)の初代藩主となります。
前置きが長くなりましたが、この教隆以降代々の墓所は『寛政譜』によると、上野桜木町の護国院となっています。
次に挙げるのも同じく護国院を菩提寺としていた狩野洞雲益信以下代々の墓所です。こちらも3区にあります。



この狩野家は駿河台狩野家と呼ばれ、狩野洞雲を初代とする幕府表絵師です。
上の写真は初代洞雲の墓碑です。
洞雲は、探幽の養子で彫金家の後藤家に生まれ、伯父にあたる後藤覚乗は後藤勘兵衛家の初代となります。
この後藤家については、春の深川巡墓会や過去の記事でカトケンさんが紹介しております。

第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催しました
先祖への旅を続けながら江戸と京都を楽しむ

狩野一族についても前々回の池上本門寺巡墓会でカトケンさんが紹介されています。

第13回巡墓会「池上本門寺巡墓会 第1回」を開催しました

さて、初めに3,4,5,7区が寺院専属区画となっていると述べましたが、何故そのような場所が必要になったのかというと、関東大震災の復興による区画整理が要因となっています。
東京都公園課から刊行されている『多磨霊園』には14ヶ寺、墓碑数約1700基が移されてたと記されています。
そのほか6,7,11区には、昭和初期の都市開発で移ってきた寺院墓地があります。
しかし、これらの墓地の詳しい場所は記されておらず、調査を困難を窮めます。
そこで今回多磨霊園を実地調査し、一部の寺院墓地を探して参りましたので、ご紹介します。
それらの寺院墓地を調査する際に参考にしてください。

3区
護国院、喜運寺、芝清光寺、池上本門寺、小日向妙足院
4区
青松寺、三念寺、祥山寺、築地萬行寺、浅草九品寺
5区
浅草幡隨院子院智白院
6区
雲光院子院照光院、松平西福寺、幸龍寺、天徳寺
その他多数
青山霊園

以上となります。
この他にも寺院ごと多磨霊園周辺に移動してきた浅草普賢寺や麻布大長寺、浅草誓願寺などもあるので今後も調査していきたいと思います。

最後に3区で見つけた山鹿素行の末裔で弘前藩士となった山鹿家の墓所を掲載して締め括りたいと思います。
長々とお読み頂きありがとうございました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池上太郎左衛門幸豊研究余滴

2017-07-20 19:11:20 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
昨年行った池上本門寺の巡墓会で田沼意次のブレーンの一人、池上太郎左衛門幸豊を紹介しました。また、一昨年には当ブログにて下記の記事を書き、幸豊に関する簡単な紹介をいたしました。

池上太郎左衛門幸豊-田沼意次のブレーンとなった川崎の名士-

池上太郎左衛門幸豊は川崎では郷土の偉人として知られていますが、日本史の中央の流れから見ると無名に近い存在かと思います。
巡墓会の解説・レジュメでは幸豊を郷土の偉人という枠を超え、日本史の中央の流れに位置づけることを心掛け、ある程度それは届いたのではないかと思っています。

さて、池上太郎左衛門幸豊及び池上家に関しては巡墓会以降も時折気に掛けて調べています。巡墓会以降の調査を2点程挙げてたいと思います。

巡墓会のレジュメ作成で参考文献に挙げた古江亮仁著『大師河原酒合戦』(多摩川新聞社 平成10年(1998))に幸豊の3代前幸広の弟が七左衛門幸繁の墓の写真が載せられており、これは明長寺にあることが記されています。幸繁は稲荷新田村の名主となり、楽寿亭と号し、子孫も代々名主となっています。

幸繁の兄幸広は先祖代々居住していた池上の地から、大師河原村に移住し名主となった人物であり、大酒呑みとして知られ、大蛇丸底深と称され、慶安2年(1649)に江戸の儒学者茨木春朔(六位酒官地黄坊樽次)と大師河原で酒呑み合戦をしています。この酒呑み合戦について書かれた『水鳥記』は嘉永5年(1852)に幕府奥儒者で池上家と姻戚関係にあった成嶋司直によって修訂されています。また、この合戦にちなんだ「水鳥の祭」が10月の第3日曜日に若宮八幡宮(神奈川県川崎市川崎区大師駅前2-13-16)にて現在も行われています。
弟の幸繁もこの酒呑み合戦に参戦し、池上七左衛門底安と称しています。

明長寺は川崎市大師本町にあり、有名な川崎大師平間寺の門前通りに面しています。
数年前に訪れ際は池上家の墓所には気づきませんでしたが、墓地の中ほどに池上家の墓所がありました。



幸繁の墓碑には[長松院仙峯樂壽居士 貞享五戊辰年三月六日]と刻まれています。
池上家は先祖池上宗仲が日蓮に帰依し、その死後、屋敷を寄進し、現在の池上本門寺のとなっていることもあり、本門寺の有力壇越であり、川崎市川崎区大師駅前2丁目の池上家墓地(池言坊)にある池上本家の墓も日蓮宗の戒名が刻まれています。
一方、明長寺は天台宗であり、同族間で宗派が異なる例は多々ありますが、本門寺と池上家の関係を考えると大変興味深いものがあります。

もう1点、以前から気になっていたことがあり、池上姓は長野の伊那地方に多く見られ、別件で高遠藩の史料を見た際に、藩士や町人に池上姓の人名が多く見られこともあり、この池上氏族は一体どのような系統か?本門寺の池上家との関係はあるのか?と疑問を持っていました。
そうした所、大田区史編さん室 編『史誌 22』の中の「池上氏のルーツを尋ねて」(新倉善之著)という記事を見つけ、我が意を得たりという内容に出会いました。
これは大田区大林寺の住職で、大田区史編纂主任専門委員などを務め、大田区に関する著述も多い新倉善之氏が長野で現地調査をした記事で、高遠町、伊那市、飯田市の池上姓の旧家・日蓮宗寺院を訪ね、過去帳や位牌、文化財を調査しています。
その中には宗仲を祖と伝える池上姓の家があったり、「宗」の字を通字とする家があったり、また、本門寺との関係性がある寺院があるなど、この地域と池上本門寺、池上宗仲の関係を示す証拠が多々挙げられていました。
調査の結論としては「一応の成果はあったが、もう一度精査の要あり」とのことでしたので、続編の記事はないか探しましたが、残念ながらありませんでした。
しかし、この記事との出会いは今までの疑問をある程度解消してくれるものであり、氏族研究をしているとたまにこのような素晴らしい過去の調査に出会えることがあります。

池上太郎左衛門幸豊に関しては本門寺巡墓会で一区切りつけたつもりですが、引き続きこの周辺に関しては調査を続けていきたいと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間宮林蔵の養子鉄次郎孝順の実家について

2017-07-19 19:30:00 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
5月に開催された深川巡墓会では間宮林蔵について解説しました。
レジュメでは林蔵の実績はもちろん、その出自に関しても詳細に記載しました。
その一部は先行して当ブログでも紹介しました。

本番の解説の際に口頭で訂正させて頂いたのですが、レジュメの記述に誤りがありました。
それは林蔵の養子で幕臣間宮家を相続した鉄次郎孝順の出自について「浅草蔵前の札差青柳家の二男」と書いたことです。
この出典元は吉川弘文館の人物叢書『間宮林蔵』(洞富雄著 昭和35年(1960))です。インターネット上でもwikipediaの「間宮鉄二郎」のページに同様の記述があります。これは参考文献に人物叢書『間宮林蔵』が挙げられているので、これが元になっていると思います。

間宮鉄二郎

他にも新人物往来社『幕末維新大人名事典』、吉川弘文館『明治維新人名辞典』でも同様の記述があります。

これが何故誤りかと言うと、筑波書林『間宮林蔵の発見』(大谷恒彦 昭和57年(1982))に鉄次郎孝順の戸籍謄本の一部が載せあり、そこには「実父幕臣青柳繁右衛門亡二男」と書かれているのです。
札差は幕臣では無いはずだと思い、違和感を感じ調べてみると、江戸城多聞櫓で発見された古文書を翻刻した『江戸幕臣人名事典』には次のように書かれていました。
「浅草□町御蔵手代組頭青柳栄之助方同居 養父間宮林蔵死御普請役 実祖父青柳久左衛門死御蔵手代 実父青柳繁右衛門御蔵手代」



浅草の何町かは分かりませんが、浅草の幕臣青柳家が、浅草蔵前の有名な札差である青地家と混同された結果、浅草蔵前の青柳家となったのではないでしょうか?。青柳という札差はありませんし、そもそも札差は幕臣の身分ではありません。

さらに『特集人物往来3(2)』に鉄次郎孝順の子孫である間宮林栄氏が書いた「隠密探険家間宮林蔵の生涯―間宮海峡の発見者林蔵は幕府の隠密だった!碩学の意外な素顔」という記事があり、そこには「幕令に依り、御船蔵手代青柳栄之助の子鉄次郎が選ばれて間宮家の跡目を相続した。」とあり、やはり札差云々という記述はありません。
これは、人物叢書『間宮林蔵』で洞富雄氏が誤って書いたことが、その後引用され続けているということになるのではないかと思います。

そのようなことで、「浅草蔵前の札差青柳家の二男」は誤りであると判断しましました。
レジュメの訂正を兼ねて、訂正に至った経緯を解説いたしました。

鉄次郎の名も、鉄二郎と書かれているものもありますが、『江戸幕臣人名事典』はじめ鉄次郎と書かれているもが多いため、「次」が正しいのではないかと思います。

尚、青柳家に関しては『寛政重修諸家譜』の青柳姓の家を調べましたが、久左衛門・繁右衛門・栄之助に該当する人物は見当たらず、旗本ではなく御家人の家であったものと思われます。
また、鉄次郎孝順以降の間宮家の墓は間宮林蔵墓所とは別域の本立院墓地にあります。

吉川弘文館の人物叢書は権威あるシリーズで数々の名著が出ており、これを参考に書かれているものも数多くありますが、今回のようなケースもありますので、やはり複数の資料や出典元を辿って行く必要性を改めて感じた次第であります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追跡調査 円十郎たちーー調所広郷と岩下方平

2017-07-18 23:51:17 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

前回、杉並の大円寺に調所と岩下の墓があると思い、喜びいさんで出かけたところ、クロサカ幹事に前者は九品仏淨眞寺、後者は青山霊園だと知らされ、その後両所を訪問。





ところが、淨眞寺をくまなく回ってやっとこさ見つけた調所の隣にある井上家の墓に、良智海軍中将の夫人豊子(旧姓調所)と刻まれ、系譜では笑左衛門娘となっているにもかかわらず、豊子は慶応生まれ、嘉永年間に没している広郷とは20年の開きがあり、広郷の子供であるはずがない。

調所家の一般的な系譜では広郷のあと笑左衛門を名乗るのは20才離れた息子たちではなく、孫の代だ。

だからひょっとして豊子は養女ではないかと考えた。広郷の没したあと養子に入ることは、長岡藩家老山本帯刀が戊辰の年に戦没したずっとあと高野五十六青年が養子となった例があり、十分あり得ることである。

残念ながらこの事に対する答えを今の小弟は持ち合わせていない。誰かこのことを検証してくださらないか期待しつつ、円十郎たち(薩摩藩士の隠語)を追跡していく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする