探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

3月21日~22日高野山奥の院調査 

2011-03-30 22:46:21 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
震災に遭われた方々におきましては早い復興を願っております。

3泊4日で和歌山県で調査を行ってきました。
今回はその中でも高野山奥の院に絞って報告したいと思います。
高野山は弘法大師が開いた真言宗の総本山で、特に奥の院には弘法大師が入滅した御廟が存在します。
その目の前には実に多くのお墓が並んでいます。
これらの墓は弘法大師を慕った人々が建てた結果で大名家や皇族、公家、僧侶、政治家、財界人などのお墓がたくさん建立されています。
今回はその中でも私が調査してきたお墓を列挙してみたいと思います。

・皇族
 有栖川宮家・伏見宮家・仙陵
・華族
 近衛文麿・陸奥宗光・井上勝子女・徳川茂承・徳川頼倫・細川韶邦夫人・黒田長溥
・政治家
 池田勇人
・財界人
 松下幸之助・江崎利一・住友家
・大名家
 織田信長・石田三成・柴田勝家・春日局・千姫・お江・加賀前田家・広島浅野家・仙台伊達家・薩摩島津家・榊原康政・
 本多忠勝・佐久間将監・橋本正高・紀伊徳川家・尾張徳川家・福岡黒田家・佐賀鍋島家・岡中川家・松前松前家・対馬宗家・
 郡上青山家・篠山青山家・浅野内匠頭と赤穂浪士・福山阿部家・福山水野家・大岡越前・徳島蜂須賀家・鳥取池田家・
 岡山池田家・彦根井伊家・宍戸家・亀山石川家・稲垣家・稲葉家・米沢上杉家・小笠原長次・筒井順慶・伊東家・成田家・
 明石松平家・河内高木家・松江松平家・新発田溝口家・弘前津軽家・津藤堂家・南部家・佐竹家・真田家・宇和島伊達家・
 二本松丹羽家
・文化人
 市川団十郎・尾上松之助・鶴田浩次・花菱アチャコ
今のところ整理出来ているのはこんなものですがとても多くて現在でも整理しています。

写真は井上勝家・徳川茂承・黒田長溥となっています





川路と来嶋又兵衛

2011-03-28 21:33:18 | 会合報告
会員のカワチです。

遊撃隊を組織し、禁門の変で壮烈に散った長州藩士・来嶋又兵衛。
この来嶋を撃ったのが、川路利良だという説があることをご存じでしょうか。
『訂正補修 忠正公勤王事績』(中原邦平)には下記の記載があります。

来島と云ふ人は勇将でありますから、手下にも弱卒はない。
且つ力士隊と云ふやうな勇壮な者も居りますから、無暗に蛤御門を撃ち破って御所内に進入した。此處は會津が守つて居たが、會津の兵は殆ど将棋倒しに倒れたさうであります。所が薩州の兵が乾御門の方からやつて来て、後ろから撃出した。来島は馬上で、金の采配を以て指揮して居たさうですが、薩州の川路利良と云ふ人が、アノ大将を狙ひ撃ちをしたら勝てると云ふので、来島を狙撃して撃ち落した。其の死骸は力士隊の力士が引つ擔いで、山崎に引取りましたが、来島が死んでから總崩れとなりました。

ウィキペディアにも川路が狙撃したと書いてあります。
しかし川路側の資料には来嶋を撃ったという記録はありません。
禁門の変後に川路が家族に送った手紙にも、篠原秀太郎を打留めたことは記されていますが、来嶋については記されていません。
しかし川路は自らの戦功を口にしなかったというので、記載がないから事実無根とは言い切れません。
事実か否かはともかく、川路が討ったという記録がある以上、川路の追っかけを自任する私としては来嶋の墓を訪ね、合掌掃苔せねばと思いました。
墓所を調べたところ、京都府東山区清閑寺霊山町の京都護国神社、山口県光市室積の峨嵋山護国神社、山口県美祢市西厚保町本郷の高岡墓地の三ヵ所にあるようです。
美祢市の墓には夫婦で葬られているようなので、そちらを訪れることにしました。

新幹線で厚狭駅に出て、そこからJR美祢線で厚保駅へ向かいます。
美祢線は2010年7月の大雨による被災で運休しており、代行バスが運行しています。
しかし便は少なく、日暮れまで時間もなかったのでタクシーを使いました。
2740円かかりました。
来嶋の墓の詳しい場所は伝記などにも記されておらず、頼れるのは石原博之さんが管理している「竜馬が長州をゆく」というホームページに掲載されていた情報のみです。
ホームページに掲載されている地図を見る限り、来嶋の墓があるのはどうやら寺の墓地ではないようです。
中国自動車道をくぐってから右に曲がり、畑の横の道をしばらく登っていくと、道が三本に分かれています。
右の道を進みましたが、どうやら間違いのようです。
次に左の道を進みましたが、これも間違いのようです。
最後に真ん中の、左右が草木に囲まれた薄暗い道を進みました。
「この道で合っているのかなあ」と不安に思いつつしばらく進むと、藪の奥にチラリと墓石らしきものが見えました。
やがていくつもの墓石が姿を現しました。
ほっとしましたが、なかなか難易度が高そうな墓地です。
墓地というよりも、墓山というほうがイメージに近いかもしれません。
夕方ということもあって人っ子一人おらず、ちょっと不気味な雰囲気です。
「竜馬が長州をゆく」に掲載されていた「墓地の一番高いところ」という情報と、掃苔屋としての勘を頼りに墓山を登ると、藪の奥に「来嶋」と彫られた墓石を見つけました。
来嶋又兵衛の一族の墓域でした。



墓域の入り口が藪で覆われていた時点で予想はしていましたが、かなり荒れていました。
数年前に掃苔した大楽源太郎の墓を思い出しました。
あのときは墓石にトカゲとムカデが這っていました。
藪をかき分け来嶋の墓域に入ると、墓の前にいた茶色のムクムクしたものが逃げていきました。
よくわかりませんが、野うさぎではないかと思いました。

私にとって来嶋又兵衛というと、川島雄三監督の映画「幕末太陽傳」の印象が深いです。
河野秋武演じる来嶋(映画では鬼島)は、厳格でお堅い印象のキャラクターづけですが、その彼がハマってしまったのが遊郭通いでした。
同郷の藩士には遊郭通いをいさめている人物が、こっそり女郎に熱をあげていると知った高杉晋作らは、フランキー堺演じる居残り左平次に相談し、一計を案じます。
結局、来嶋は高杉らにまんまと騙され、百両をせしめられてしまいます。
なおフランキー堺は、川路利良の嗣子となる利恭の弟の孫にあたります。
そのため昭和四年に川路生誕地記念碑が建てられた際と、平成二年に川路の銅像が建てられた際には式典に出席しています。

日が暮れる前になんとか来嶋又兵衛の墓を掃苔することができ、ようやくほっとしました。
「竜馬が長州をゆく」の情報がなければ、絶対にたどり着くことはできなかったと思います。
なお、墓所から2キロほど離れた厚保小学校のプールの横には、来嶋の銅像が建っています。
来嶋らしく、古武士然とした凛々しい像です。

軽部五兵衛の墓

2011-03-18 21:41:44 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
先日も書いたのですが、まとまった調査時間が取れないので、合間を縫って地元川崎市幸区の寺院を訪れています。
先日は自宅から最も近い名墓と思われる軽部五兵衛の墓へ10数年振りに行きました。

軽部五兵衛は地元では赤穂浪士の支援者として知られている人物です。
現在の川崎市幸区下平間にあたる橘樹郡平間村の豪農で村年寄役を務めており、赤穂藩浅野家の江戸屋敷に出入りをしていました。まぐさを納めたり、屋敷内から出た下肥を引き取ったりり、掃除を担当していました。浅野家の家臣とも親しく赤穂藩改易後、赤穂藩士石富森助右衛門が討ち入り前に同居していたため、大高源吾・堀部弥兵衛・堀部安兵衛らも五兵衛の屋敷に潜伏していました。元禄15年10月26日(1702・12・14)には、大石内蔵助も五兵衛の屋敷に到着し、10日間滞在の後、江戸に向かいました。

五兵衛の墓は川崎市幸区南加瀬の夢見ヶ崎動物公園のある加瀬山山頂にある日蓮宗了源寺にあります。
この加瀬山には古墳群があったり、太田道灌の築城伝説などがあったりと歴史がある山です。小学生の頃に社会の授業等でこれらのことを学びました。
了源寺の門前にある墓地入口に軽部家の墓が6基並んでおり、その中の左端の墓碑が五兵衛の墓です。



正面に[妙法 圓照院宗春 霊 享保十二申天 二月廿三日]と刻まれています。

10数年振りにこの墓所を訪れて、改めて五兵衛のような人物がいたからこそ、赤穂浪士の討ち入りが成功したのだと思いました。

東北地方太平洋沖地震、お見舞い申し上げます

2011-03-14 23:01:31 | 日記
会員のカネコです。
3月11日(金)午後2時46分頃に発生した東北地方太平洋沖地震で東北地方を中心として広い範囲で大きな被害が発生しました。被災された方々には心からお見舞いを申し上げます。一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。
私個人としても親族の多くが東北地方におります。幸いにも人的被害はありませんでしたが、原発への不安等もありますし、今後も不自由な生活が続きます。
私は福島や宮城には何度も訪れていますが、あの美しい風土が無惨な姿になってしまったのは忍びないことです。また、多くの歴史的遺産にも被害が出ていると思われます。
まずは人的被害の復興が第一ですが、その後に被害を被った歴史的遺産の早い復興を願いたいと思います。
復旧復興に向けて我々一人一人に出来ることがないか模索していきたいと思います。

3月6日 谷中調査

2011-03-08 01:34:15 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
6日(日)は谷中霊園巡墓会の準備を兼ねて、谷中霊園と周辺の寺院を調査してきました。

まずはじめに幕末の三舟の一人高橋泥舟の墓があることで知られる大雄寺へ行きました。
私がライフワークとしている二本松藩士の墓があるという情報を『二本松寺院物語』で得たので、早速確認しに行きました。
その二本松藩士は小川興忠という人物で、小川家は代々山鹿流兵学師範を務めていました。
興忠の兄平助(興孝)は戊辰戦争の二本松の戦いにおいて「軍師」として活躍しますが、戦死しています。
興忠は家を継ぎ、維新後に東京に出て漢学塾を開きました。
墓地内をくまなく歩くと、本堂左側に墓を見つけました。
[小川家之墓]と刻まれた角石墓でした。
名前は刻まれていませんでしたが、没年が『二本松寺院物語』の記載と一致しました。

次に一乗寺にある旗本で勘定奉行を務めた杉岡能連の墓へ行きました。
[杉岡家之墓]と刻まれた新しい墓碑でした。

一乗寺の近くの大行寺に古市公威の父の墓があることを会員のクロサカさんよりご教示頂いていたので、その確認に行きました。
門を入った右側に古市家の墓地がありますが、その反対側に1基単独で建てられていました。
墓地の奥の方へ行くと旗本の長谷川家の江戸期の墓碑が数基ありました。「鬼平」の長谷川家と同族かどうかは今後調べたいと思います。

さらに近くの感応寺で10年ぶりくらいに渋江抽斎の墓を見ました。



弘前藩の侍医で考証家・書誌学者でもあり、森鴎外の史伝三部作の一つ『渋江抽斎』の主人公でもあり、この墓碑に関してはその作品中でも語られています。
この『渋江抽斎』は私の好きなロックバンド、エレファントカシマシの「歴史」という曲の歌詞にも登場することもありとても思い入れがあります。

次に天龍院で蘭方医伊東玄朴の墓を見ました。



細長い墓碑に[伊東玄朴先生之墓]と刻まれてありました。
脇には明治天皇の御典医を務めた養子の方成の墓もあります。
同院墓地には宇都宮の尊攘家菊池教中の墓もありました。

向かいの全生庵は山岡鉄舟の墓があることで知られていますが、今回は美濃国出身の漢学者棚橋松村の墓を調査しました。
棚橋松村に関して二本松藩士という記述を目にしていたので、手掛かりがないかと墓碑を調べましたが、手掛かりはありませんでした。これに関しては今後も引き続き調査したいと思います。

この後は谷中霊園で今年の春・秋に開催される谷中霊園巡墓会で私が解説する人物の墓を念入りに調べ直しました。古屋佐久左衛門、石黒忠悳、佐藤尚中、林研海、新田俊純、佐藤泰然の墓を家族も含め調べ直しました。

林研海の墓の近くにある[従四位勲四等萩岡松韻墓]と刻まれた墓の横に伯爵松浦陞による題額の顕彰碑があったので、それを眺めていた所、歩いていたご老人が「この人は山田流筝曲の師範です」と教えてくれました。顕彰碑の裏には徳川、鍋島等大名家の女性の名が刻まれていたので聞いてみると大名家に出入りして教えていたとのことでした。
そのご老人はさらに2件隣の日本舞踊吾妻流宗家吾妻徳穂の墓をお教え頂きました。
この方は戦後復員してすぐにこの霊園の近くに住み、60年以上この谷中霊園を見てきているとのことでした。
谷中霊園にはこのように詳しい方がたくさんいます。私が初めてお墓に興味を持ったのも小学生の時に徳川慶喜の墓を見に来た際に詳しいご老人が案内してくれて、それに感動したことがきっかけでした。
墓碑調査の原点であるこの谷中霊園で巡墓会ができることは非常に感慨深いものがあります。
本番に向け万全を期したいと思います。