探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

雑司ヶ谷霊園の改葬危機の墓所

2019-06-22 00:21:37 | 会合報告
会員のカネコです。
以前、谷中霊園と青山霊園の改葬危機の墓所について取り上げました。

谷中霊園の改葬危機の墓所


青山霊園の改葬危機の墓所

さらに、その前には染井霊園の姫路藩主酒井忠績の墓所が改葬危機にあることも取り上げました。

撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓

今回は雑司ヶ谷霊園を取り上げます。
雑司ヶ谷霊園でも無縁となった墓所に改葬告知の札が立てられているのをよく見かけます。
その中の著名な家としては公家の澤伯爵家の墓所があります。

澤家は天武天皇皇子舎人親王の後裔で本姓は清原氏、江戸時代中期に舟橋庶流の伏原家より分家して一家を興しています。
幕末の当主澤為量は安政5年(1858年)養子宣嘉と廷臣八十八卿列参事件に加わって日米修好通商条約勅許に反対しています。宣嘉は「七卿落ち」の一人として長州へ落ち延び、生野の挙兵に参加するなど、尊王攘夷派の公卿として過激な活動をしています。維新後は外務卿となり、外交に関わりますが、明治6年(1873)ロシア公使に決まり、着任する直前に38歳で急逝し、小石川伝通院に葬られています。伝通院には宣嘉のみの墓碑があり、為量はじめ、澤伯爵家の人々は雑司ヶ谷霊園に葬られました。
宣嘉以降の澤伯爵家は複雑な家督相続をしていきます。
宣嘉の後、隠居していた養父為量が再相続し、宣嘉の養子として後継者と目された為量三男宣種は廃嫡となり、その後分家。宣種の養子となっていた宣嘉長男宣量が為量没後、家督相続しています。
『昭和新修華族家系大成』によると、この本が刊行された時点の当主名は空欄となっており、宣量には男女4名の子の記載があります。当主となった宣量長男宣武には妻子がなく、昭和41年(1966)に没しています。
無縁告知札には埋葬者として、宣量の子4名の名も記されており、宣量の子の代で澤伯爵家は絶えたことが窺われます。
現在立てられている告知札は平成30年12月28日に立てられており、額面通りで行けば、令和元年12月29日が期限となります。



これは今年の1月に撮影したものです。



こちらは最新の今月16日に撮影したものです。

尚、近くには宣嘉の二男宣元が分家して男爵となった澤男爵家の墓所もあり、こちらは無縁告知札は立てられておらず、祭祀が続いているようです。
『昭和新修華族家系大成』によると、2代宣一には娘2人がおり、他家に嫁いでいますが、そのご子孫によって祭祀が続けられているように思われます。
前述の通り、本家である伯爵家の家督相続が複雑であり、男爵家のご子孫とは世代も離れているため、男爵家の方が伯爵家の墓所を継承することは難しいように思います。

以前も書きましたが、幕末維新に活躍した人物の墓所といえども、あくまでご子孫の祭祀の場であり、ご子孫が絶えた場合は、その維持が難しくなります。
我々ができることとしては記録に残し、墓所が確かに存在したことを伝えるということになるかと思います。

大変厳しい現状ですが、澤伯爵家の墓所がご縁者によって維持されることを願っております。
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史誠会催行での青山霊園巡墓会

2019-06-21 23:15:28 | イベント
会員のカトケンです。土曜、あいにくの雨でしたが、史誠会様の依頼にて初めて1人で青山霊園巡墓会を行い、5名様の参加を得て、案内させていただきました。

巡墓人物は次のとおり。
・加納道之助(近藤勇の面通しをした御陵衛士)
・篠原泰之進(赤報隊に属しながら落命しなかった御陵衛士)
・秋月悌次郎(会津戦争降伏の使者、小泉八雲の友人)
・大鳥圭介(箱館政権陸軍奉行、駐清公使)
・外島機兵衛(会津藩士)
・小野権之丞(会津藩士、箱館病院副頭取)
・澤太郎左衛門(開陽丸艦長、幕府オランダ留学生)

5名のうち3名が顔見知りで和気あいあい、ほのぼのと巡ることができました。

途中、宮古湾海戦に参加した安藤太郎、箱館戦争参戦の小菅辰之助、近藤勇と面識のある後藤象二郎、オランダ留学生西周の墓も紹介。

今回、案内のための事前勉強で秋月悌次郎と山岡鉄舟が義従兄弟であることが分かりました。

秋月の養子胤継の実家が鉄舟の生母磯の実家だったのです。鹿島神宮の神官塚原家で、胤継こと六助の父直興の祖父が磯の父直昌でした。意外なところがつながるもので、早速拙共著『探墓巡礼』[山岡鉄舟]項目に載せた家系図に加えたいところです。

また、篠原泰之進が晩年を過ごした次男秦弥三郎・キクノの墓(=写真。平成23年頃撮影。2種イ11号3側)がどうしても見つからないことも話しました。



さらに、大鳥圭介の左前の墓碑同妻道子の裏面に大鳥による追悼文が刻まれていて、戦争ばかり行って苦労かけてしまったという大鳥の人間性が垣間見えるやうな文面に皆しばし立ち止まりました。

道々、知り合いの方から面白い行事のことを聞いたり、一緒に東軍慰霊祭を回った思い出を振り返ったりできて充実したものとなりました。

一つ残った課題はーーこれもお話しましたがーー小野権之丞父義行と林権助安倫が兄弟であると会津藩士の系図で分かったのですが、この権助と鳥羽伏見で戦死する権助安定の系譜がいまひとつ一致しなかったことです。

しかも安倫の時代では安定は栄吉といい、同じ林でも治助などの通称を持つ家。この辺りが明確になれば、同じ青山霊園の外交官林権助の墓も含めて紹介できたのにと思いました。

青山霊園から銀杏並木を通って聖徳記念絵画館へ。明治天皇の愛馬の骨が馬の形のまま展示してあるなど、絵画プラスアルファが楽しめました。

終了後打上げを行い、貴重な情報交換ができ、有意義な時を過ごせました。

お招きくださった近藤様、ご参加いただいた皆様に改めて御礼申仕上げます。
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「東京二本松会総会」に出席しました

2019-06-16 16:53:24 | イベント
会員のカネコです。
6月9日(日)に東京二本松会総会に出席しました。





東京二本松会は二本松市出身の東京近郊在住者による同郷人の会で、昨年で創立50周年を迎えました。
私は生まれも育ちも神奈川県ですが、両親は共に二本松市出身なので2世となります。
幼少時よりお盆休みには二本松の母方の実家に帰省していたこともあり、二本松の歴史のことは長い間、ライフワークとして調べていました。
平成23年(2011)に二本松藩主丹羽家18代ご当主丹羽長聰様とご縁があり、丹羽様が会長を務めている東京二本松会への入会のご案内を頂きました。本人が二本松出身者ではなくとも二本松に所縁があれば入会可能とのことでしたので、その年に二本松仲間の遠藤さんと入会し、今年からは会報編集員として役員入りをしました。

同郷人の会ですので、特に歴史に特化した会ではありませんが、会長が旧藩主家の丹羽様であることや、旧藩士の子孫の方が所属されていることもあり、私の活動にプラスになることが多く、今年、会報編集作業で会に貢献できたことは大変嬉しい出来事でした。

総会は毎年、前半に議事と講話があり、後半は懇親会が行われます。
昨年の総会では戊辰戦争150年ともあって、二本松市文化財保護審議会委員根本豊徳先生による『二本松藩の戊辰戦争』の講話がありました。少年隊の悲劇に代表されるように、二本松藩の戊辰戦争に関しては悲劇的な物語に眼が行くものですが、根本先生の講話は戊辰戦争に至る経緯を史料に基づき、時系列に述べていく形で、二本松戦の全体像が分かりやすく理解できる内容でした。

今年は二本松市教育委員会文化課長塩田英勝様による『「戊辰戦争150年事業を振り返って」』と題された講話が行われました。
塩田様は昨年行われた二本松市歴史資料館特別企画展「二本松藩と戊辰戦争」、二本松市コンサートホールで開催された「二本松戊辰戦争歴史シンポジウム」、二本松市民会館で開催された「二本松戊辰戦争戦没者慰霊祭」の模様を映像を交えながら解説されました。



私は上記全てに参加しましたが、昨年の記憶を思い起こしながら復習もでき、大変素晴らしい内容であったと思いました。
特に慰霊祭での丹羽長聰様による祭文奉読の映像をノーカットで紹介して頂き、その時の記憶が蘇りました。

「歴史シンポジウム」は前半が『数学者が見た二本松戦争』の著者渡部由輝先生による講演と後半はパネルディスカッション「白河・棚倉・三春における戊辰戦争~白河から二本松、それぞれの信義~」と題し、白河市文化財課 専門学芸員内野豊大先生、白河市文化財保護審議会委員植村美洋先生、三春町歴史民俗資料館主幹兼副館長平田禎文先生、二本松市文化財保護審議会委員根本豊徳先生が各藩の戊辰戦争について語りました。渡部先生の講演は一部で突っ込み所満載で伝説的な講演となっていますが、あまり講演されることはない方なので、大変貴重な体験となりました。パネルディスカッションで画期的だったのは三春の平田先生がお越しになったことです。二本松では長い間、三春は裏切り者だという印象が強く、私もよく二本松の方から「三春から嫁を貰うな」ということをよく聞かされたものです。案の定、質疑応答の際にその事についてどう思うかという質問が飛び出し、会場が若干凍り付いた雰囲気になりましたが、平田先生は三春としてはそう言われることは耐えるしかない、武士道としては最悪なことをしたが、領民を守るための決断であり、これにより城下や領内は戦火を免れた、こういう機会を使い三春藩の置かれた立場にも理解して頂きたいというご回答があり、会場から拍手が起こり、温かい雰囲気の中で閉会をしました。

昨年の二本松市における「戊辰戦争150年事業」を振り返り、これらに参加できたことは私にとっても大きな財産になったと改めて思いました。

講話の後は懇親会があり、毎年さまざなま方と二本松のお話しをさせて頂き、有意義な情報を頂いています。
今年も二本松藩政にその名を残す崎田家、平島家、浅岡家、林家といった藩士のご子孫の皆さまとお話しができました。
また、今年は私がかねてから尊敬していた若き研究者の方にもご入会して頂くこともでき、二本松の輪が広がったことに喜びを感じました。

ご来席していた三保市長様とは二本松城三の丸御殿再建に関するお話しをしました。二本松市では現在、再建のために図面をはじめ御殿に関する記述がある史料を探しているとのことです。戊辰戦争で城下が焼けたとはいえ、福島県歴史資料館や西尾市岩瀬文庫などにも二本松藩士の史料がありますので、まだまだ探せば史料が出てくるのではないかとのお話しをいたしました。
もし、このブログをご覧の方で、二本松藩士が所蔵していた文書や二本松城に関する記録が文書や図面をお持ちの方、所在を知っているという方は二本松市役所の方へお知らせ頂ければと思います。

東京二本松会に入会して8年となりますが、会員の皆さまの郷里を想う心には胸が熱くなります。今後ますますの会の発展を祈念すると共に、今後も役員の一人としてお役に立てればと思っております。
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「幕末遊撃隊-己巳150年」に参加しました

2019-06-15 22:23:00 | イベント
会員のカネコです。
6月2日(日)に三十六臣会様主催の「幕末遊撃隊-己巳150年」に参加してきました。
昨年、当会が幹事を務めた流星忌「箱館戦争関係者慰霊祭in谷中」に来て頂いた池内様が発起人となられ、開催決定と共にご案内を頂いておりましたので、大変楽しみにしていました。

遊撃隊からは伊庭八郎や人見勝太郎(寧)などが箱館戦争に参戦しており、流星忌幹事としては是非この会に参加せねばと思っていました。

私個人としては箱根戦争での遊撃隊の戦いについては不勉強で、知見はあまりありませんが、この箱根戦争については小学生の時に見た大型時代劇スペシャル『五稜郭』(日本テレビ・1988年放送)を見た時に初めて知りました。

このドラマでは舘ひろしが伊庭八郎を演じ、壮絶な最期を遂げるシーンがありました。伊庭八郎はクロードチアリ演じるフランス軍人カズヌーブと木古内で一緒に奮戦していました。八郎はカズヌーブにピストルの弾が残りを聞くと、カズヌーブは「アトイッパツ」と答え、八郎は「最後まで取っておけ」と告げました。二人で木陰で休息していると、カズヌーブが「ワタシシナナイネ、オモマリモッテル」と言い、箱根で奮戦する八郎の錦絵を見せ、八郎は「悪い冗談だ」と言いしばし眺めます。ここで鈴木瑞穂の格調高い語りで、八郎が箱根の戦いで片腕を失うほどの奮戦をして、江戸では錦絵になる程の人気になったことが解説されます。しばし錦絵を見ていた八郎は何を思ったか、急に錦絵を口にくわえ、片手で掴み破ります。するとカズヌーブは「ナニヲシマスカ!ワタシ、ニホンノミヤゲニカイマシタ。ケッコンシテコドモウマレタラコレヲミセマス。コレガニッポンノサムライダ、オマエノチチ、コノヒトトイッショニタタカッタンダ」と言い、続けてフランス語で「日本に武士道があるならフランスにも騎士道があるんだ」と叫びます。「オレハオマエトトモダチニナリタカッタンダ、ワカッテンノカハチロー、トモダチニダ」と言うと、八郎は「フランスにも侍がいるんだな」とつぶやきます。カズヌーブはさらに「ハチロートモダチダ、トモダチ」と叫びます。するとそこに西軍の砲弾が八郎に直撃します。草むらに飛ばされた八郎がカズヌーブの名を叫び、カズヌーブが駆け付けると、瀕死の八郎は「土産をやるぞ、さっきの錦絵の代わりだ、俺の、俺の首を刎ねろ」と言います。カズヌーブが「ノーノーオレニハデキナイヨ」と言うと、八郎は「これが日本の武士道だ」と言い短剣を抜き腹に突き刺します。苦しみながら「カズヌーブ、おぬしも武士なら介錯しろ」「1発」と言うとカズヌーブは涙ながらに立ち上がり、ピストルを八郎のこめかみに突き立てると、八郎は「よし、撃て」と言い、カズヌーブはゆっくり引き金を引きます。

この伊庭八郎の最期はあくまでドラマ上での創作ですが、大変印象深いシーンとして焼き付き、箱根戦争はこのシーンとセットで伊庭八郎が片腕を失った戦いとして私の脳裏に深く焼き付けられました。

さて、前置きが長くなりましたが、「幕末遊撃隊-己巳150年」は箱根町立郷土資料館での講演会と、臨済宗金湯山早雲寺境内にある遊撃隊戦死士墓前での奉納演武と法要の2本立てで行われました。

13:00から行われた講演会は箱根町立郷土資料館学芸員高橋秀和先生による「戊辰戦争の舞台、箱根の様子と人々」から始まりました。箱根戦争の推移や、戦場となった村の人たちの動きや被害に関するお話しがありました。この話の中で出た湯本村名主福住正兄のことに興味を持ちましたが、幸いにもこの後、早雲寺にてそのお墓を詣でることができました。

続いては東海大学馬場弘臣教授による「戊辰箱根戦争とは何だったのか?-幕府遊撃隊と小田原藩の苦悩-」で、遊撃隊と戦った小田原藩の動向についての詳しいお話しがありました。小田原藩は勤王を表明していたものの、佐幕に寝返り、さらに新政府軍に恭順した上で、遊撃隊と戦うという一転二転した不可解な行動をしています。その理由について、藩主大久保忠礼の出自から遡り、幕末の政局や軍役負担など、箱根戦争に至るまでの小田原藩の動向から探り、箱根戦争直前の翻意に至る状況を史料に基づき丁寧に解説をされました。
最後に馬場先生が話された昭和13年(1938)の林忠崇の談話が大変心に響きました。林忠崇が語るには、自分は天皇に逆らう気は全くなく、薩長のすることが腑に落ちなかった、すべては臣下の争いだで、早く天皇に接近するものが政略上官軍と称し、他を排して賊軍と言うのだと思う、どうも将軍の取り扱いが腑に落ちなかった、何の野心もなかった、といったことであり、これは東軍の身を投じた者の共通の想いではなかったかということです。

近年は官軍・賊軍という言い方はあまり聞かなくなり、西軍・東軍という呼称を多く聞くようになりましたが、かつて、東軍側は賊軍という扱いを受けていて、私の父母の郷里二本松でも古老の方は賊軍の汚名をそそぎたいということをよく言っていたものです。しかし、戊辰戦争を東軍として戦った人たちは決して天皇に弓ひく「賊」では無く、薩長を中心とする西軍のやり方への不満、徳川家の処遇に対する不満から、やむを得ず、錦の御旗を掲げた西軍と一戦を交えた訳です。各藩・各人が戦いに至った経緯はまちまちで、様々な事情がありましたが、この林忠崇の談話の内容は東軍として戦った人々の多くが思っていたことにように思いました。

それと、馬場先生の講演で特筆すべきことは配布されたレジュメです。本文中にも書かれていましたが、後から読み直せるよう、講演内容をそのまま文章化したものになっていて、これは恩師を見習ったとのことです。
当会の巡墓会のレジュメも当会が師事している釣洋一先生がレジュメは後から読めるものを作るようにと仰っていたので、会の後に読めるよう詳細なものを作ってきました。時には3、40ページにも及びましたが、そうすることで、聞き逃したことや、聞いている時には分からなかったことが後から復習できます。
馬場先生のレジュメは話し言葉そのままという画期的なもので、当会もスタイルとも違ったもので、こういった形もあるのだなと大変参考になりましたし、当会が「後から読み直せるレジュメ」というスタイルで作ってきたのは正しかったのではないかという後押しをして頂いたような気持ちにもなりました。

参加者の記念品として配られた『幕末遊撃隊己巳150年 記念読本』も大変充実した内容で、特に池内様作成の遊撃隊の隊士名簿が圧巻でした。これだけ隊士が網羅された名簿は他には無いと思います。
名簿を眺めると、気になる人がいました。第二軍の阿部四郎三郎(四郎五郎)とあるのはおそらく、阿倍四郎五郎家の当主ではないかと思いました。阿倍四郎五郎家は以前、当会の染井霊園周辺寺院巡墓会で本妙寺にある墓所を案内しました。阿倍四郎五郎正之を祖とする家で、加藤清正の家とも姻戚関係となっており、加藤家改易後にその遺品を引き継いでいた家でもあります。そのご縁で、一度ご子孫の方にもお会いしたことがありますが、太平洋戦争で一切が焼失して、ご先祖のことは殆ど分からないとのことでした。
他には第一軍の前橋藩(富津村百姓)とある人物が12名いますが、これは安政5年(1858)から慶応3年(1867)まで富津陣屋を警備していた二本松藩が足軽として登用した地元農民で、前橋藩が富津陣屋の警備を引き継いだ際に、彼らも引き継がれています。二本松藩の足軽として9年間の任務を果たした彼らですが、この箱根戦争の後、かつて仕えた二本松藩が壮絶な戦いの末落城するなど想像できたでしょうか。

二本松藩の富津警備については以前当会ブログにも書いています。

富津と二本松藩

箱根戦争や遊撃隊について詳しく調べたことはありませんでしたが、図らずも自分が過去に調べたことと接点があり、大変興味深いものがありました。

馬場先生の講演の後に、少しお時間を頂き、不肖私より昨年の流星忌開催の御礼とガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の案内をさせて頂きました。事前に池内様にお願いして、配布資料の中に本のチラシも入れて頂きました。
貴重なお時間を頂きましたことを改めて御礼申し上げます。

その後、早雲寺に移動し、15:20より遊撃隊戦死士墓前で伊勢亀山心形刀流赤心会様による奉納演武が行われました。心形刀流は伊庭八郎の祖伊庭秀明が開いた流派です。
二刀流の演武など、大変な迫力があり、貴重な体験をしました。



その後、碑前にて法要が行われ、ご子孫や関係者による焼香がありました。
最後は人見勝太郎(寧)のご子孫である人見寧則様からのご挨拶がありました。涙ながらのお言葉には人見様の想いが詰まっていて、心を打たれました。
人見様には流星忌にもお越し頂いており、今回再会できご挨拶できたことは嬉しい出来事でした。



会が終わった後は、当会のクロサカさんと早雲寺の探墓をしました。
以前来た時は有名な小田原北条氏五代、飯尾宗祇、今大路道三の墓は見ていましたが、講演の中で出ていた福住正兄や福住家と共に湯本村の名主を務めていた小川家、北条家の後裔と伝わる仙台藩士の家など初めてみるものもあり、充実した探墓巡礼となりました。

遊撃隊と箱根戦争に関する知識を深められ、様々な方とお話しや情報交換ができ、私にとり大変有意義な一日となりました。
この会を主催した池内様はじめ三十六臣会の皆さまや、講演をされた馬場先生、高橋先生のご尽力に改めて敬意を表するとともに、皆さまの今後ますますのご活躍を祈念いたします。
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6/2開陽丸子孫の会に出席

2019-06-14 00:05:10 | 会合報告
会員のカトケンです。先日、毎年参加している[開陽丸子孫の会]に出席。小杉雅之進御子孫の従者の身分で自己紹介させていただいた。

『探墓巡礼』を刊行し、谷中地区に限られるが、箱館戦争に参加した人ばかりでなく、オランダ留学生や榎本と接点のあった人、高橋泥舟・山岡鉄舟などの恭順派も載せており、旧幕府方の決定版だと案内したところ、予想以上の反応があった。

久しぶりにお目にかかる四国のJさんは順天堂のことが載ってるならとご注文くださり、あとでレターパックにて送らせてもらったほどである。

幕府海軍に関する神谷先生のお話は浦賀をおさえる重要性が分かったし、中島三郎助御子孫恒英さんの喜びの声も会を和ませた。

また、小弟から御子孫探しに協力する旨も申し出た。墓を基軸に新たな五稜郭への旅を目指したい。



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