探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

渋沢栄一と論語、すなわちサラリーマンの秘訣?

2021-06-12 00:22:18 | 日記
会員のカトケンです。
大河ドラマ「青天を衝け」で高崎城・横浜外国人居留地襲撃を断念した栄一に妻千代が「孔子先生も『過っては改むるに憚ることなかれ』と言っています」と声をかけていた。

渋沢と論語は、その著書というより発言録である『論語と算盤』により広く知られているが、4月のEテレ「100分で名著」は渋沢の同書が取り上げられた。

論語の知っているフレーズがいくつか出てきて面白かった。

すなわち、
もしやむを得ず、政治から軍隊と食料と信頼のうち1つ無くさなければならないとしたらどれを残すかと弟子に問われ、最後に残るのが信頼だと孔子は言う。これは他の一節「民は信無くば立たず」に通じている。政治をやるには国民の信頼が欠かせないという意味だ。

渋沢は政治の世界は諦め、実業界へ転じるが、岩崎弥太郎との比較や利益一辺倒ではなく世の中に役立つ商売が常に念頭にあり、資本主義という言葉を使わなかったという。

『論語と算盤』で最後は対極にあるものを受け入れていくのが渋沢の解釈だという守屋淳先生の解説だった。水戸藩の政争で対立する敵同士をやっつけ過ぎて人材がいなくなってしまった話も出てきた。

数年前に職場の研修に講師で見え、中国の古典を分かりやすく説いてくださり、受けた講義の中でいちばん面白かったことが思い起こされる。

ところで、小弟が日頃親しんでいる論語のテキストは、山本七平『論語の読み方』(祥伝社黄金文庫)である。この本の一節に渋沢栄一の父が農民の身分だが論語に親しみ、論語で息子を諭そうとするごく一般的日本人として登場する。

渋沢と聞いて小弟が思い浮かべるのはこの件りである。渋沢自身の歴史的事象はカネコ会員に任せるとして、この『論語の読み方』に出てくる論語と日本人論が面白くて読み始めたのだが、今考えてみると仕事で部下を持ち始めた頃、父親よろしく部下との接し方のヒントになるのではないかとよく読んでいた。

弟子の性格や資質によって教え方が変幻自在に変わる孔子ーーそんな理想の上司には程遠いが、あの頃よく話した話題をきっかけに、今では部下を持つあの頃の部下たちにこちらから相談することもしばしば。これは自分なりの[下学して上達す]なのかもしれない。

そういえば初めて役付として転勤する直前、釣先生ご夫妻や天然理心流剣士の方々に送別会(さほど遠く離れるわけではなかったが)を自分のたっての頼みで東京都北区飛鳥山で催してもらった。

ちょうど桜の季節で人がいっぱいだったが、帰りに晩香廬、青淵文庫、渋沢史料館を皆で見学した。これが目的の誘導の宴だったのだが、歴史愛好家が集う春廼舎メンバーにもとより反対の人はいなかった。

その時の入館券を見ると[10(平成22年).3.27]とある(=写真。渋沢史料館のパンフレットとここ2年ほどで集めた無料の渋沢資料など)。まさに光陰矢の如しである。


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歴史研究吉成勇主幹のお別れ会

2021-06-07 20:39:09 | 日記
会員のカトケンです。

4月21日の当ブログの投稿にもあったように、弊会メンバーがリレー連載をしている『歴史研究』を長年にわたり編集して来られた吉成勇主幹が3月にご逝去され、お別れ会が6月5日(日)東京都千代田区神保町、日本教育会館に入る喜山倶楽部で行われた。



参加者は着いた者から献花して故人を見送り、席は一定の距離が取られ配置されていた。『歴史研究』編集委員の加来耕三先生は新人作家として売り込んだときに話を聞いてくれた一人が吉成主幹だったというお話、古代史がご専門の松尾光先生は運動として歴史を研究すると結論を迫られるが吉成さんがいつもおっしゃっていたのはどのような結論でもまとめることや発表し続けることが大事だというお話など、参加者代表から印象的なお言葉が発せられた。

吉成主幹のお兄様である征一様、奥様である昭代様からご遺族としてのご挨拶も述べられた。主幹の下の弟さんには勝の名前が入っていて、3人とも戦時中らしい名前が付けられたと、お兄様のお話だった。

吉成主幹は神奈川県厚木市出身で早稲田大学政経学部を卒業され、人物往来社に就職。紆余曲折を経て昭和34年創刊の『歴史研究』の編集に携わり、歴史研究会の全国大会を各地で開催、在野で研究する多くの歴史愛好家を輩出し続けた。

お別れ会後の食事会では、当時の同僚の方から吉成主幹は雑誌記者として、外へ取材に行くというよりも机でコツコツメモを作って様々な企画を考えるタイプだったなどのお話が飛び出した。歴史研究会の事務所が元々新人物往来社のあった有楽町旧都庁近くの新東京ビル、神田神保町のお菓子屋の上、そしてこの5月までの五反田との変遷とともにそれぞれの場所での逸話が披露され、吉成主幹がこれだけ長く歴史研究の発行を続けて来られた秘訣を垣間見たようで興味深かった。

また、編集部にクレームが入ると喜んで菓子折りを持ってその人のところに行き、親しくなって原稿を書いてもらうことにしてきたという名編集者ぶりも披瀝されて、一堂笑いに包まれた。

さらに、吉成主幹亡き後の『歴史研究』の発行は、この6月から事務局を戎光祥出版に移し、井手窪剛先生が編集長を引き継がれるとのご挨拶があった。何よりも歴史を愛して止まなかった吉成主幹を支えた従前のメンバーとともに志を引き継ぐことが表明され、参加者としても意を強くした。

井手窪先生は、5月19日にこのブログに投稿したポプラ社の「コミック版日本の歴史」シリーズのいくつかの原作を手掛けられている方であり、加来耕三事務所のご出身、この2年あまりの間、吉成主幹の下で編集のノウハウを学び満を持しての登板となる。

思い起こせば、我々が最初に巡墓会を開催したとき、吉成主幹から今まで編集をして来て歴史上の人物の墓を取り上げて一度もクレームを言われたことがないと言葉を掛けていただいた。10年以上経った今はお墓の紹介にも色々難しい面が出て来ているが、この言葉によってどれだけ我々が背中を押され、励まされて来たことか計り知れない。

改めて巡墓会開催や掃苔行脚連載の道筋をつけてくださった吉成主幹に感謝申し上げるとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げたい。合掌
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