会員のカトケンです。
5月9日から高知入り。初日と2日目午後、さらに3日目夜もあいにくの雨であったが、11日の土佐史談会令和7年度定期総会に出席するなど、様々な方と交流ができ、あっといふ間の楽しいひと時であった。1年経ってしまったが、昨年訪ねた高知市内の墓碑を遅まきながら紹介したい。
昨年も雨に降られるなかであったが、5年ぶりの訪高とあって、借りた自転車をこいで夢中で駆け巡った。
〇奥福井・谷玖満子実父國澤七郎と伯父たちの墓
コロナで高知を訪ねられないときに、谷干城夫人玖満子の伯父で医師澤村道朔の墓所に実父國澤七郎の墓があると山本泰三著『土佐の墓 その一』(土佐史談会、昭和62年刊)に書かれていることがずっと気になっていた。学生時代に一度来たことがある鹿持雅澄邸跡に寄ってから訪ねた(=写真)。
5月9日から高知入り。初日と2日目午後、さらに3日目夜もあいにくの雨であったが、11日の土佐史談会令和7年度定期総会に出席するなど、様々な方と交流ができ、あっといふ間の楽しいひと時であった。1年経ってしまったが、昨年訪ねた高知市内の墓碑を遅まきながら紹介したい。
昨年も雨に降られるなかであったが、5年ぶりの訪高とあって、借りた自転車をこいで夢中で駆け巡った。
〇奥福井・谷玖満子実父國澤七郎と伯父たちの墓
コロナで高知を訪ねられないときに、谷干城夫人玖満子の伯父で医師澤村道朔の墓所に実父國澤七郎の墓があると山本泰三著『土佐の墓 その一』(土佐史談会、昭和62年刊)に書かれていることがずっと気になっていた。学生時代に一度来たことがある鹿持雅澄邸跡に寄ってから訪ねた(=写真)。

鹿持邸のやや南側にある山のヘアピンカーブのような登山道に沿って登っていくと、左手の少し高くなったところに澤村家の墓所がある。ここに澤村道朔や國澤七郎の墓があり(=写真)、さらにそこから北側に降りたところに接するように國澤の実弟濱田元龍の墓もあった(=写真)。この人もまた医師である。玖満子の伯父・父・叔父兄弟のそろい踏みであった。


澤村・國澤両家の墓碑がずらりと並んだここの墓碑を見ていくと、玖満子の父七郎は養父通雄の娘を娶っているが、弘化元年生(1844)の玖満子が生まれる前の天保6年(1837)にこの妻は没しているから、玖満子の生母は後妻弘田氏娘ということになる。
玖満子は次女で、文久2年(1862)に嫁ぎ、明治10年(1877)西南戦争で政府側の熊本鎮台司令長官である夫谷干城を支え、部下の将校夫人たちと炊事や負傷兵の看護に当たった人である。
東京市ヶ谷の谷邸で養蚕所を設けて、毎年自ら繭を作ったり、山内家最後の当主豊範の嗣子豊景の養育や大日本婦人教育会などの団体役員を務めたり、慈善事業などにも勤しんだ。
父七郎は土佐藩の階級で言うと士格である小姓組に属し、教授館句読役などを務め、明治7年(1874)11月21日没。墓碑左面に[實澤村道益二男、享年五十九]と刻まれている。逆算すると文化13年生まれ(1816)となる。
澤村家の墓所はあまり高い山ではなく、難なく登れる場所で、見つけやすいと思う。山本の著書にはこの場所は[小田阜・鹿持山南の山]と書かれている。
〇山ノ端 近藤正英、北代平助、友永安太郎、伊野部恒吉らの墓
こちらは昨年7月に訪れたときにやや雨足が悪かったが、植木枝盛の墓を探すべく小高坂山の山ノ端に登った。登り口が分からず、結局植木枝盛の墓にはたどりつけなかった。越前町の[男爵野村維章邸跡]の碑のある通りを西へ信号を渡って2つ目の角を右へ曲がり、すぐまた右に入ると通が行き止まりになり、民家に突き当たる。その左側にある山の急斜面を登っていき、そこからかなり登って竹藪のようになった鬱蒼としたところの右側に近藤正英(嶽洋社長、代言人)の墓があった(=写真右端)。

近藤は嘉永4年(1851)川口清成の次男に生まれ、近藤正道の養子になった人。嶽洋社は南奉公人町(現高知市上町)にあった500名を擁する民権結社で、これを率いた。土佐郡小高坂村助役や高知市議、県議から私立共立学校長、尋常中学校長まで幅広く公職をこなした。また、高知県最初の部落改善団「帝国義行会」初代会頭として、社会改良にも尽くしている。
長女菅尾は海軍大将島村速雄に嫁ぎ、次男正太郎の妻は土木設計者廣井勇の次女鶴である。今までこのブログや講演で触れた人物たちと閨閥がつながっていて、不思議な縁を感じる。大正4年(1915)65才没。
この近藤正英墓の奥にある安岡家墓所の裏手に坂本龍馬の継母北代伊与の実家北代平助らの墓があった(=写真2点)。これは本に書かれていない場所であり、驚きであった。御子孫の故北代寛二郎氏の名前が墓誌に刻まれている。山田一郎著『坂本龍馬―隠された肖像―』(新潮社、昭和62年刊)で初めて名前が判明した伊与の存在につながる墓にようやくたどり着けた。


ところが、[北代平助重治墓]では妻のものとともに没年が明和年間(1764〜1772)となっており、平助娘伊与が慶応元年(1865)年に62才で没しているから、生まれは享和4年または文化元年(1804)となる。つまり、平助と伊与の生存期間は30年超の開きがあり、重ならないから、平助は伊与の親たり得ない。
山田の同書では、北代家の「四代平助(泰作)」としながら、2行先に「四代平助重治」と違う諱をあてている。墓碑によれば、重治が伊与の親たり得ないことから、この記述は明らかに誤りで、北代家二代にも平助を名乗る人物がおり、他の代(一から七まで)は皆別の通称を用いているため、この二代平助が重治の可能性が高いが、系譜を見てみないと確定的なことは言えまい。
北代家の墓所からさらにその奥の平らになって墓地が広がっている場所の南側に少し降りると、鍋島高明編『高知経済人列伝』(高知新聞社、平成20年刊)で取り上げられた実業家友永安太郎の墓があった(=写真右奥)。

友永は、谷是編『高知県人名事典 新版』(高知新聞社、平成11年刊)にも項目があり、安政6年(1859)生まれ。春野町の農家から高知市街へ出て米穀商や質屋で財をなし、高知市議会議員や高知巡航株式会社社長など運輸関係の会社役員を歴任している。さらに高知市の幼稚園の開設に尽くすなどして昭和14年(1939)81才没。
「常に読書を好み、家庭では気むずかしいむっつり屋であったが、外に出ると穏やかな人柄で、いつも着物で通し、老いてはステッキを使った」(高知県人名事典新版)との逸話がいつ読んでも微笑ましくなる。
この山ノ端を下る途中、登るときに道路から民家横の急斜面を登り切った辺りの民家のある西側、つまり下りのときは右側になるところにやはり墓地が広がっているのだが、奥の囲いのある墓地に伊野部恒吉の墓があった(=写真)。

伊野部は明治29年(1896)生まれ、祖父が創業した日本酒醸造「瀧嵐」の社長で、土佐の作家田中貢太郎や田岡典夫が所属した文士グループ博浪沙同人と交流し、すっかり常連になったり、詩人吉井勇の高知滞在に香北町(現在の香美市。アンパンマンミュージアムのある美良布からさらに物部川の上流に10kmほど上がった)猪野々にある草庵渓鬼荘(現在その傍らに香美市立吉井勇記念館あり)を提供したりするなど、酒造業の傍ら文士のパトロンを務めた人物である。
醸造技術の向上を目指し、高知醸造会を組織して会長になり、高知市内での酒の製成高が最も多く、全国清酒品評会優等賞を受けている。高知市議を3期、高知商工会議所議員など幅広く活躍したが、昭和16年(1941)46才没。
この山ノ端の墓のうち、近藤正英のもの以外は『土佐の墓 その一』に載っていない場所だが、よく見ると『土佐の墓 その三』の巻末(一、二の補足)に伊野部の墓の場所が「山ノ端宗善寺谷西尾根」と記されている。著者の山本泰三先生の調査には改めて感服する。
この伊野部の墓で面白いのは、祖父の実家高橋家の墓が隣にあることである。父吉次郎の墓碑左面[安藝郡赤野村高橋竹太郎二男也]との刻みから、祖父高橋にたどり着いたのだが、このようなことを確認できたときに小弟は掃苔の醍醐味を実感する。
赤野村は現在の安芸市の最西端に位置し、隣の安芸郡芸西村に接する。竹太郎の墓碑はなく、その長男(つまり伊野部吉次郎実兄)高橋安馬・妻・安馬長男の古い墓碑があり(=写真)、墓誌にある関係性を示す記述からつながりを確認できた。

雨をしのいだほんのひとときであったが、後で振り返ってみるとかなり充実した掃苔であった。
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