goo blog サービス終了のお知らせ 

探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

令和6年土佐掃苔録 谷干城夫人玖満子の父の墓など

2025-05-31 20:51:52 | 会合報告
会員のカトケンです。

5月9日から高知入り。初日と2日目午後、さらに3日目夜もあいにくの雨であったが、11日の土佐史談会令和7年度定期総会に出席するなど、様々な方と交流ができ、あっといふ間の楽しいひと時であった。1年経ってしまったが、昨年訪ねた高知市内の墓碑を遅まきながら紹介したい。

昨年も雨に降られるなかであったが、5年ぶりの訪高とあって、借りた自転車をこいで夢中で駆け巡った。

〇奥福井・谷玖満子実父國澤七郎と伯父たちの墓

コロナで高知を訪ねられないときに、谷干城夫人玖満子の伯父で医師澤村道朔の墓所に実父國澤七郎の墓があると山本泰三著『土佐の墓 その一』(土佐史談会、昭和62年刊)に書かれていることがずっと気になっていた。学生時代に一度来たことがある鹿持雅澄邸跡に寄ってから訪ねた(=写真)。



鹿持邸のやや南側にある山のヘアピンカーブのような登山道に沿って登っていくと、左手の少し高くなったところに澤村家の墓所がある。ここに澤村道朔や國澤七郎の墓があり(=写真)、さらにそこから北側に降りたところに接するように國澤の実弟濱田元龍の墓もあった(=写真)。この人もまた医師である。玖満子の伯父・父・叔父兄弟のそろい踏みであった。





澤村・國澤両家の墓碑がずらりと並んだここの墓碑を見ていくと、玖満子の父七郎は養父通雄の娘を娶っているが、弘化元年生(1844)の玖満子が生まれる前の天保6年(1837)にこの妻は没しているから、玖満子の生母は後妻弘田氏娘ということになる。

玖満子は次女で、文久2年(1862)に嫁ぎ、明治10年(1877)西南戦争で政府側の熊本鎮台司令長官である夫谷干城を支え、部下の将校夫人たちと炊事や負傷兵の看護に当たった人である。

東京市ヶ谷の谷邸で養蚕所を設けて、毎年自ら繭を作ったり、山内家最後の当主豊範の嗣子豊景の養育や大日本婦人教育会などの団体役員を務めたり、慈善事業などにも勤しんだ。

父七郎は土佐藩の階級で言うと士格である小姓組に属し、教授館句読役などを務め、明治7年(1874)11月21日没。墓碑左面に[實澤村道益二男、享年五十九]と刻まれている。逆算すると文化13年生まれ(1816)となる。

澤村家の墓所はあまり高い山ではなく、難なく登れる場所で、見つけやすいと思う。山本の著書にはこの場所は[小田阜・鹿持山南の山]と書かれている。

〇山ノ端 近藤正英、北代平助、友永安太郎、伊野部恒吉らの墓

こちらは昨年7月に訪れたときにやや雨足が悪かったが、植木枝盛の墓を探すべく小高坂山の山ノ端に登った。登り口が分からず、結局植木枝盛の墓にはたどりつけなかった。越前町の[男爵野村維章邸跡]の碑のある通りを西へ信号を渡って2つ目の角を右へ曲がり、すぐまた右に入ると通が行き止まりになり、民家に突き当たる。その左側にある山の急斜面を登っていき、そこからかなり登って竹藪のようになった鬱蒼としたところの右側に近藤正英(嶽洋社長、代言人)の墓があった(=写真右端)。



近藤は嘉永4年(1851)川口清成の次男に生まれ、近藤正道の養子になった人。嶽洋社は南奉公人町(現高知市上町)にあった500名を擁する民権結社で、これを率いた。土佐郡小高坂村助役や高知市議、県議から私立共立学校長、尋常中学校長まで幅広く公職をこなした。また、高知県最初の部落改善団「帝国義行会」初代会頭として、社会改良にも尽くしている。

長女菅尾は海軍大将島村速雄に嫁ぎ、次男正太郎の妻は土木設計者廣井勇の次女鶴である。今までこのブログや講演で触れた人物たちと閨閥がつながっていて、不思議な縁を感じる。大正4年(1915)65才没。

この近藤正英墓の奥にある安岡家墓所の裏手に坂本龍馬の継母北代伊与の実家北代平助らの墓があった(=写真2点)。これは本に書かれていない場所であり、驚きであった。御子孫の故北代寛二郎氏の名前が墓誌に刻まれている。山田一郎著『坂本龍馬―隠された肖像―』(新潮社、昭和62年刊)で初めて名前が判明した伊与の存在につながる墓にようやくたどり着けた。





ところが、[北代平助重治墓]では妻のものとともに没年が明和年間(1764〜1772)となっており、平助娘伊与が慶応元年(1865)年に62才で没しているから、生まれは享和4年または文化元年(1804)となる。つまり、平助と伊与の生存期間は30年超の開きがあり、重ならないから、平助は伊与の親たり得ない。

山田の同書では、北代家の「四代平助(泰作)」としながら、2行先に「四代平助重治」と違う諱をあてている。墓碑によれば、重治が伊与の親たり得ないことから、この記述は明らかに誤りで、北代家二代にも平助を名乗る人物がおり、他の代(一から七まで)は皆別の通称を用いているため、この二代平助が重治の可能性が高いが、系譜を見てみないと確定的なことは言えまい。

北代家の墓所からさらにその奥の平らになって墓地が広がっている場所の南側に少し降りると、鍋島高明編『高知経済人列伝』(高知新聞社、平成20年刊)で取り上げられた実業家友永安太郎の墓があった(=写真右奥)。



友永は、谷是編『高知県人名事典 新版』(高知新聞社、平成11年刊)にも項目があり、安政6年(1859)生まれ。春野町の農家から高知市街へ出て米穀商や質屋で財をなし、高知市議会議員や高知巡航株式会社社長など運輸関係の会社役員を歴任している。さらに高知市の幼稚園の開設に尽くすなどして昭和14年(1939)81才没。

「常に読書を好み、家庭では気むずかしいむっつり屋であったが、外に出ると穏やかな人柄で、いつも着物で通し、老いてはステッキを使った」(高知県人名事典新版)との逸話がいつ読んでも微笑ましくなる。

この山ノ端を下る途中、登るときに道路から民家横の急斜面を登り切った辺りの民家のある西側、つまり下りのときは右側になるところにやはり墓地が広がっているのだが、奥の囲いのある墓地に伊野部恒吉の墓があった(=写真)。



伊野部は明治29年(1896)生まれ、祖父が創業した日本酒醸造「瀧嵐」の社長で、土佐の作家田中貢太郎や田岡典夫が所属した文士グループ博浪沙同人と交流し、すっかり常連になったり、詩人吉井勇の高知滞在に香北町(現在の香美市。アンパンマンミュージアムのある美良布からさらに物部川の上流に10kmほど上がった)猪野々にある草庵渓鬼荘(現在その傍らに香美市立吉井勇記念館あり)を提供したりするなど、酒造業の傍ら文士のパトロンを務めた人物である。

醸造技術の向上を目指し、高知醸造会を組織して会長になり、高知市内での酒の製成高が最も多く、全国清酒品評会優等賞を受けている。高知市議を3期、高知商工会議所議員など幅広く活躍したが、昭和16年(1941)46才没。

この山ノ端の墓のうち、近藤正英のもの以外は『土佐の墓 その一』に載っていない場所だが、よく見ると『土佐の墓 その三』の巻末(一、二の補足)に伊野部の墓の場所が「山ノ端宗善寺谷西尾根」と記されている。著者の山本泰三先生の調査には改めて感服する。

この伊野部の墓で面白いのは、祖父の実家高橋家の墓が隣にあることである。父吉次郎の墓碑左面[安藝郡赤野村高橋竹太郎二男也]との刻みから、祖父高橋にたどり着いたのだが、このようなことを確認できたときに小弟は掃苔の醍醐味を実感する。

赤野村は現在の安芸市の最西端に位置し、隣の安芸郡芸西村に接する。竹太郎の墓碑はなく、その長男(つまり伊野部吉次郎実兄)高橋安馬・妻・安馬長男の古い墓碑があり(=写真)、墓誌にある関係性を示す記述からつながりを確認できた。



雨をしのいだほんのひとときであったが、後で振り返ってみるとかなり充実した掃苔であった。
*******************************************************************
★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』のご注文は下記フォームよりお申込みください。


★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシを公開しています。

★下記SNSにて当会の最新情報を更新しています。是非フォローください。


*******************************************************************
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『歴史研究』最新号(2025年5月第730号)に掃苔行脚を寄稿

2025-05-06 23:42:21 | 会合報告
会員のカトケンです。

掃苔行脚をリレー連載している『歴史研究』最新号「特集 島原・天草一揆」(2025年5月第730号)に東京都文京区護国寺の富田鉄之助の墓を寄稿した。毎度刊行の度に宣伝を忘れてしまうため、お知らせしておきたい。

富田は、旧仙台藩士で第2代日銀総裁を務めた人物。一昨年の「護国寺・雑司ヶ谷巡墓会」で紹介した場所である。富田が日銀総裁を辞任する際に蔵相の松方正義と意見の相違があり、けんか別れするところを仲介した人物の生誕地碑が、筆者の住む京丹後市の隣町与謝野町にあったことから取り上げたものである。京都丹後鉄道与謝野駅から積雪を押して30分ほど歩いて訪ねた[神鞭知常先生生誕地]の碑が福寿寺にアクセスする手前の駐車場にひっそりと建っていた。[こうむちともつね]と読む。

神鞭は与謝野町石川の出身で、宮津藩士となって出仕し、瓦解後米国留学で富田と知り合った。大蔵省に勤務し、主税局次長を最後に退官。その後衆議院議員になり、松方内閣などで法制局長官を務めた人物である。

墓は青山霊園にあり(=写真右。左端は父の墓)、正面[神鞭知常之墓]、裏面[重蔵之長子、母土肥氏。嘉永元年八月四日(正しくは弘化五年。1848・9・1)生於丹後国与謝郡石川村(現京都府与謝郡与謝野町石川)。明治三十八年(1905)六月二十一日卒於播州須磨(現兵庫県神戸市須磨区)。享年五十八]と刻む。



松方正義の墓と同じ並びにあって関連付けると分かりやすい。なお、富田の前任初代日銀総裁吉原重俊の墓は、中央通りから忠犬ハチ公の飼い主上野英三郎の墓に向かう東三通り入口南側に高くそびえ立つ。

最後に、神鞭の生誕地碑の写真も掲げておこう。

*******************************************************************
★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』のご注文は下記フォームよりお申込みください。


★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシを公開しています。

★下記SNSにて当会の最新情報を更新しています。是非フォローください。


*******************************************************************
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企画展「しずおか別荘ものがたり」を見て~静岡市歴史博物館開館2年を問う~

2025-03-23 00:03:14 | 日記
会員のカトケンです。

2月の土佐史談会関東支部例会のため、京丹後から東京まで足を伸ばした後、実家のある静岡に戻り、開館2周年を迎えた静岡市歴史博物館に企画展「しずおか別荘ものがたり」を見に行った(写真は昨年4月末から6月までの今川義元展のパネルから)。



その場所は、昔静岡市立図書館があった場所で、荘厳な建物に静謐な雰囲気が幼かったときの記憶から甦るが、元をたどれば明治時代に葵文庫と言って、江戸幕府旧蔵書を所蔵していた場所であった。その後は青葉小学校になっていて、就職してから営業でお客さんである教師の方を訪ねたことがあった(のち廃校)。

企画展は3階に上がり、目の前の駿府城巽櫓や富士山が眺められる展望台を通って入るのだが(=写真)、その日は展示室に向かう途中、講演をされている第2代館長大石学先生の声が館内に響いていた。NHKEテレの「知恵泉」で聞き慣れたお声だけにすぐに判った。



展示は、井上馨の長者荘にまつわるものや遺品が配置され、だいたい文化財資料館のときの企画展《御楯組血盟書》で並べられたものをさらに充実させた感じであった。


常設展示にある井上馨立像もあったから、バラエティ豊かな常設展から今後の企画展をある程度占うことができるかもしれない。

井上馨といえば、小弟は平成元年の日本テレビ年末時代劇スペシャル「奇兵隊」の萩原流行を思い浮かべてしまう。堤大二郎演じる伊藤俊輔とともに英国に密航し、英仏蘭米四国連合艦隊が下関を砲撃すると倫敦で新聞を読んで知り、急ぎ帰国。敗戦後、松平健演じる高杉晋作が偽家老宍戸某となってデーブ・スペクター扮するアーネスト・サトウと談判を伊藤が通訳していた(日本語でしゃべっていた気がするが)。

そんな幕末の激的な展開に息を飲み、その後山口市内の袖解橋で井上が俗論派に襲撃されるところなども印象的で、現場を訪ねたことがあったほどだ。ご存知のとおり、井上は瀕死の重傷を負いながら祖母の励ましと居合わせた美濃の医師所郁太郎の手術により、奇跡的に生き永らえ、明治時代に政治家として活躍できたのである。

そのような生涯を知っていただけに、静岡での企画展が再び行われたことに感慨深いものがあった(=写真)。



もう一人の主役、西園寺公望と坐魚荘も思い出深い経験がある。大学を卒業し静岡に戻って就職、営業車でたまたま静岡高校の近くを通ったとき、パン屋のドアに痩せっぽちの西園寺公望の写真が貼られているのに気づいた。なんだろうと思って見てみると、《西園寺公望と興津》という企画展が当時まだ清水市だった(現静岡市清水区)フェルケール博物館で行われている宣伝ポスターであった。

早速史学科出身の元請けの営業さんを誘って仕事をさぼって(?)清水へ見に行ったことが思い出される。若かったから無茶なことをしたものだが、営業は当時比較的自由な時間があり、売上げさえ目標分をこなしていれば何も言われることはなかった。そのとき、西園寺のデスマスクが展示され印象的だった記憶があり、やはり今回の展示でもお目見えしていた。

ともあれ、元老である西園寺詣でを時の政治家がこぞって行い、列をなすほどだったというからその盛況ぶりや如何に。

坐魚荘でボランティアさんが昭和の初めまで清見潟と呼ばれた興津はリゾート地であったと聞いたことも今となっては懐かしくなる。父が当時の別荘旅館で興津の脇本陣だった水口屋のことをしきりに口にしていたことが思い出される。大人の修学旅行よろしく、愛知県犬山市の明治村に移設された本物の坐魚荘を見に行ったことも楽しい思い出である。

だが、展示では井上と西園寺は取り上げられていたが、そのほかに興津に別荘を構えた、例えば成蹊学園を創始し、父親が元駿府与力であった中村秋香の別荘「松の下庵」や伊藤博文の養子で井上馨の甥である伊藤博邦の「独楽荘」、TOTO(東洋陶器)創業者大倉和親別荘などは、その一部の位置がパネルで示されていただけで、それら人物たちの解説がなかったのは寂しい気がした。備後国福山藩主阿部正桓の別荘は備品目録の展示があったようだが、川崎重工や川崎汽船の川崎正蔵の別荘「海水楼」などについても、できる限り詳しく取り上げて欲しかったと思う。

ただ、これらは将来の企画展で取り上げるネタとして取っておくということもあろうし、まとまった遺品が揃うという条件の無せる技なのかもしれない。そもそも長者荘や坐漁荘の存在を知らない人もいるだろう。

丸伸の石川たか子さんや父が設立前から応援してきた市の歴史博物館をもっと盛り立てるため、これからも時間の許す限り継続してモニターしていこうと思う。盛んに行われているトークイベントなど、静岡市民がもっと来てくれる、身近に感じてくれる館になることを期待したい。

ともあれ、開館2周年を過ぎ、今まで徳川家康・静岡浅間神社・臨済寺・静岡鉄道など単純明快で分かりやすいテーマが取り上げられてきたが、中でも今川義元展がいちばん充実していた。

展示が天・地・人のコーナーに分かれていたことがまずかっこ良かったし、とりわけ家臣団の概要が示され、苗字をたどることができるヒントが与えられた。この辺りも図録にきちんと記述されており、研究の伸びしろが期待される。

今川義元といえば、80年代からテレビで描かれた桶狭間にて信長に撃たれる貧弱な公家のイメージを払拭し、駿河を治めた大名として歴史上の人物に格上げされた観があり、感慨深いものがある。

静岡の殿様といえば、家康では天下人過ぎて、ともに臨済寺に墓のある今川義元や静岡県令関口隆吉がしっくり来る。あるいは米子に転封した豊臣大名中村一氏を取り上げるなど、挑戦的な試みもして欲しいものである。

関西では、この2月に大阪府岸和田市で大河ドラマ「功名が辻」で一氏を演じたタレントが「岸和田城冬の陣」と題し天守復興70周年を記念し復活した武者行列に呼ばれていたと報道されていたことが記憶に新しい。

静岡はというと、大河ドラマ「どうする家康」で今川氏真を演じた俳優が一昨年の春の静岡まつりに参列したなど見直しの機運もあって、そうした知名度の向上から、もっと歴史的な位置づけがなされることを期待してやまない。

静岡市は案外、歴史の宝庫だと言えそうだ。幼いころ、父から家康が安倍川の流れを変えた(安倍川の東に安西の地名があることが証拠)とか、駿府城の瓦を作る職人を愛知県渥美半島から呼んだために葵区瓦場町には「渥美」の苗字が多いなどと教えてもらったことがこうして今につながっている。

これからも先祖を追いかけつつ、生まれ故郷静岡市をめぐる歴史の旅を続けていきたい。4月26日から始まる企画展「明治維新と静岡〜徳川慶喜、家達と旧幕臣たち」も今から楽しみにしている。
(俳優の名前は敬称を略しました。)
*******************************************************************
★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』のご注文は下記フォームよりお申込みください。


★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシを公開しています。

★下記SNSにて当会の最新情報を更新しています。是非フォローください。


*******************************************************************

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第27回土佐史談会関東支部例会無事終了

2025-02-16 22:32:43 | 会合報告
会員のカトケンです。

令和7年2月8日(土)15:30から新橋の酒菜浪漫亭にて、第27回土佐史談会関東支部例会が催された。

18名の参加を得て、今年度2回目の例会を開くことができた。今回は理事の1人吉澤林助さんに「長宗我部氏と土佐の自然」について講演をお願いした。

吉澤さんは東京都立大の大学院生で、博士課程で歴史を学んでいる。Xに書いたように前回から例会の報告を載せるよう定例化したことから詳しくは『土佐史談』次号に譲るが、今までの研究史を踏まえ、朝鮮出兵前後で長宗我部元親の統治の仕方が変わってきたのではないかというものだった。

豊臣政権にもまれながら、自然環境に育まれたゆえの長宗我部氏の苦労を垣間見た気がした。

史料が10点以上引用されたが、さすがは現役の大学院生だけあって、手紙の尚書が一段下がって冒頭の空白に来る形式面について分かりやすい説明があったり、地名と人名の箇所がを多く取り上げたため、参加者の多くが高知県人であるから、地名やゆかりのある人物に敏感に反応していたりして、皆さん興味を抱いたようだった。

特に国人や家老の名前が出てきた中で、懇親会で国人の一人津野氏の本を『津野山鏡』上・下巻(リーブル出版)にまとめた子孫である津野久志さんからの紹介につながったり、いの町出身者からその地域を治めた久武氏に触れられたりと話題が尽きなかった。

要点を区切りよく繰り返し説明されたことも初めて聞いた人にはとっつきやすかった。今後は仮説をさらに確固たるものにすべく研鑽を積んでいただきたいものである。快活で歯切れの良い説明も好感が持てた。

懇親会は恒例の自己紹介を今回は最初の方で行ったら、土佐の宴会は飲むとグチャグチャになって話をしても聞いてくれないのに、この会は良いとお褒めをいただいた。こちらとしては、自己紹介後に興味ある方に話しかけるきっかけを作ろうとの試みだったから、思わぬ感想に驚いたことだった。

運営方法も理事の皆さんと相談して、より参加者の満足度を上げていけたら何よりだと考えている。ともあれ、毎度開催にご協力いただける理事の皆さんや参加者の方々には感謝しかない。コロナ後に同好の方々の交流の場が設けられることは本当に幸いと実感している。

1年早いもので、コロナ前のとおり年2回の例会を今年度は復活させ、何とか達成できた。

拙い手探りの運営で行き届かない面もあろうが、それはすべて私の責任である。歴代支部長に比して、知識も能力も手腕も遠く及ばないが、毎回楽しみにしてくださる参加者の方々の顔を思い浮かべては、次回以降の構想を練っていきたい。


*******************************************************************
★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』のご注文は下記フォームよりお申込みください。


★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシを公開しています。

★下記SNSにて当会の最新情報を更新しています。是非フォローください。


*******************************************************************
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治新政府に抗った堀内誠之進墓ー滋賀県大津市月見山墓地

2025-01-31 00:26:46 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

行ってまいりました!京都府へ引っ越してきて、昨夏1日鈍行を乗り継ぎ、一路大津へ。大津京駅で降り、まずは尾花川の膳所藩士「川瀬太宰先生邸宅趾」(=写真)。杉浦重剛謹書、裏面に「大正十一季四月三日/有志の寄附金を以てこれを建つ/尾花川靑年會」と刻む。



慶応元年(1865)閏5月、将軍家茂入京に際し、地雷で襲おうとした膳所藩士たち。新選組佐野七五三之助らが京から出動したところ、川瀬の妻幸が少々お時間をといふ間に夫へ宛てた同志の書簡を燃やし、証拠隠滅。川瀬はその後処刑されたーー

川瀬の住まいのあった通り、尾花川は道沿いに昔ながらの住宅が残っていて雰囲気があった(=写真)。そこから三井寺(=写真)の横にある大津市歴史博物館へ徒歩でものの10分くらいだろうか。「京極高次」展を鑑賞。





丹後国峰山藩の殿様京極家の本家であり、将軍家光の伯母常高院の嫁ぎ先として興味があった。

高次の置かれた秀吉と家康との絶妙な距離感、明智光秀との絡みもあって、戦国大名を個別に見ると様々な動きがあり、そのダイナミズムに触れた気がした。大河ドラマにしても、十分1年持つ生涯ではないかと思った。

その日は客足も大勢で、福田千鶴先生の講演会が催され、その時間になったら展示室の人たちがドッといなくなった。小弟はといふと、申し込み忘れてしまっただけである。

ただし、展示がじっくり見られた上、常設展では大津京の復元模型なども堪能。また博物館の過去の展示図録が充実しており、ちょうど大河ドラマ「麒麟がくる」の年に催された展示図録を求め、少し前に訪れた丹波篠山と光秀の関係なども分かり、収穫であった(写真は博物館からの琵琶湖の眺め)。



そこから琵琶湖疏水の大津側の口を見つつ(=写真)、川瀬太宰の墓を探したがたどり着けなかった。これは次回の課題としたい。京都へ抜ける街道沿いにある場所にあるはずなのだが、よう探せなかった。



気を取り直して最終目的地、土佐藩出身で明治新政府に全国の仲間と抵抗した堀内誠之進の墓を目指した。小弟の卒論を参考文献に掲げてくださった遠矢浩規先生の著書『明治維新勝者の中の敗者ー堀内誠之進と明治初年の尊攘派』(山川出版社、令和3年刊)に載った月見山墓地にある墓碑である。

滋賀県庁の南側の通りを東へ行き、大きな通りの少し手前に月見山墓地への参道がある(=写真)。民家に突き当たって左側に進むと墓地へ通ずる道がある(=写真)。





東海道線が見え、ホテルアルファワンを背にやや茶色みがかった自然石の墓が他の墓に挟まれるように建っていた(=写真)。JR大津駅から徒歩で十分行ける距離にあった。




薩摩の横山安武(森有礼の兄)など自ら身体を張って反抗するなど、できたばかりの明治政府を転覆しようとした堀内のような人たちは大勢にはならなかったが、かなり全国展開しており、それだけ明治政府が初期から民衆のためになっていない政治を行い、馬脚を露わしていた証であろう。

土佐と近江の関係は、山内一豊が長浜城主を務めたり、その母法秀尼の墓が近江国坂田郡(滋賀県米原市)にあるなど深いものがあるから、堀内の墓もまた1つその関係に1ページを加えた史跡として刻まれよう。

だいぶ時代が錯綜するが、幕末のみならず戦国時代の土佐関係が絡むと京都でも一豊とその夫人見性院や、見性院から一豊へ石田三成の挙兵を伝えた家臣田中孫作の墓が妙心寺大通院にあるし、明治にも琵琶湖疏水建設に尽力した坂本則美や河田小龍との関係も相まって話題が尽きない。

坂本則美は、このほかにも兄則敏がつくった堕胎・圧死の悪い習慣を矯正するための組織「しんしん社」(漢字は言偏に先の繰り返し)の社長となり、その経営に尽くした人で、高知県議、京都から衆議院議員にも出ている。その後、鉄道や炭鉱会社の社長を務めた。大徳寺芳春院に墓があるというが、見学できるのだろうか。龍馬以外の土佐の坂本にもこうした注目すべき人物がいる。

河田小龍については、昨年11月に高須の高知県立美術館で20年ぶりに絵の展示が催された。岡豊の高知県立歴史民俗資料館と桂浜の高知県立坂本龍馬記念館と3館同時開催と云ふまたとない小龍祭りであったが、残念ながらこの絶好の機会を逸してしまったーージョン万の漂流記を絵を交えて記した『漂巽紀畧』の著者であることはもとより、坂本龍馬・近藤長次郎・新宮馬之助ら亀山社中から海援隊になる海の漢たちを育てた師匠の足跡にもっと光が当たってもよかろう。小龍の墓は等持院にある。

幕府側からみた琵琶湖疏水として、田辺朔郎やその岳父北垣国道を以前このブログでも取り上げたが、案外土佐の人が関わっていて面白い。



高知県令も務めた鳥取出身の北垣と坂本龍馬、おそらく千葉重太郎との関係からできた人脈と思うが、その辺りも絡んできてなおさら興味深い。

ともあれ、ようやく目的を果たし、帰途に就いたが果たして、堀内誠之進ゆかりの土佐の墓も訪ねてみたいと思い、また新たに土佐での深掘りを続けたくなった。関西に来ると、土佐が一段と近く感じた。

さて、来たる2/8(土)第27回土佐史談会関東支部例会「長宗我部氏と土佐の自然」(東京都立大大学院生吉澤林助氏による講演)、ぜひお越しください。東京都港区新橋の酒菜浪漫亭15:30〜。お待ちしております。

*******************************************************************
★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』のご注文は下記フォームよりお申込みください。


★ガイドブック『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の告知チラシを公開しています。

★下記SNSにて当会の最新情報を更新しています。是非フォローください。


*******************************************************************


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする