会員のカトケンです。
丸亀市内にいたのはほんのわずかな時間でしたが、旧城下町を思わせる場所がそこかしこにありました。
坂本龍馬が直清流矢野道場を訪れた場所が旧鷹匠町ですが、丸亀城の西に位置する現在の城西町に石碑が建っています。(=写真)
また矢野道場付近は外堀に面していたのですが、その南にはこのような石碑があって(=写真)、矢野道場やその一軒おいて南隣りの土肥兄弟宅を偲ばせるのに十分です。
さて、そこからやや東に行くと丸亀城がお目見え。矢野・土肥両家の目の前にあった外堀はすでに石碑だけになっていますが(=写真)、内堀はしっかり残っています。
その内堀にかかった長い橋を経て城内へ突っ込むと、右手に昔の公民館を思わせる建物が現はれます。そこが既述のように、親切な事務員さんのいた市立資料館になっているのです。
そこで聞いて初めて法音寺の場所を知りましたから、あんな駅のそばにあるんだったら最初から行っていたのにと悔しかったのですが、いかんせん、そこは自分の準備不足--
ネタ元が寺名を間違っているとは露ほども思はず、事前に調べたのは矢野敬勝の墓のある専念寺だけだったがゆえに起こりうることでした。
ですから、事前調べの大事なこといかばかりかを痛感した行脚となったのでした。
そこからはみるみる出てくるわ出てくるわで、専念寺に向かう途上、村岡宗四郎母子屋敷跡の碑が商店街の一角に設けられた駐車場の突き当たりに立っていたのです。
その石碑は比較的最近建立されたもの。なんと高杉晋作を匿った家との説明書が側面に刻まれていて吃驚仰天した次第--思わぬ副産物を得てホクホク顔で専念寺に到着。
電車沿いの寺は学校の敷地の中にあるような造りになっていて、その辺りは今は瓦町、かつて「中の丁」と呼ばれていた由。
城下街を活かした街づくりが全く土地勘のない人間にも往時を偲ばせる工夫があって、たった2時間半の滞在であったのに、最後は時間が余って500mlが安いスーパーに立ち寄ることができました。
おかげで父親が好きでよく学生時代に買って帰ったうどん--もちろん讃岐!--をもスーパーにてゲット。母親に必ず買って帰る高知の芋ケンピとともに「孝」を実践することができました。
丸亀の街、丸亀の方々に感謝することこの上ない巡礼となりました。
篤く御礼申し上げますとともに同市のまちづくり・まちおこしのためには協力を惜しみません。土佐の高知ともども四国の発展のためにみなさんも一致団結して盛り立てていこうではありませんか。
そんな思いを抱かせてくれた顕彰活動はこれからもまだまだ続きます---
お楽しみに!!
「勤王志士村岡宗四郎母子屋敷跡」の碑、松屋町商店街東側から入ってすぐ、「きもの匠 ふじかわ」向かい。石碑には「家業醤油醸造越後屋」において兵器を隠し、ひそかに弾薬を製造。「大和五條の変で捕縛、慶応三年一月二十九日(1867.3.5)病没、年廿二。長藩井上善心や高杉晋作を匿う」といふ。「平成十五年十月廿二日 医療法人社団厚仁会建之」