探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

9月12日 生実・姉ヶ崎・市原調査

2010-09-16 01:30:32 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
9月12日(日)は千葉方面に所用があったため、数カ所程墓碑調査をしました。

まず、生実重俊院でで生実藩主森川家の墓を見ました。
墓地は本堂裏で、墓域正面に初代藩主重俊の墓(写真)があり、その右側と後ろ側の3つのエリアに渡り50基近くの墓碑が林立しています。
その殆どが巨大な板碑型となっています。


次ぎにJR姉ヶ崎駅前の妙経寺に行きました。
ここには幕府撤兵隊士の墓があります。
山門入ってすぐの右側の墓地にあるこの墓は「徳川義軍の墓」として知られ、自然石に[義軍墓]と刻まれ、台石に戦死隊士の名が刻まれています。


隣に[細川外記之墓]と刻まれた新しい墓碑がありましたが、これに関しては当会でお世話になっている大佗坊先生のブログに詳しく書いてありました。


この寺の墓地は広く、明治23年姉崎沖での海難事故で死亡した横須賀海軍兵の墓や、八戸藩士で詩人、維新後八戸藩大参事を務めた井上桜塘などの墓がありました。

この後、市原市の上総国分寺に行った所、入口に平将門の墓との伝承がある将門塔と呼ばれる宝篋印塔がありましたが、案内板によれば南北朝時代に建てられた石塔のようで将門との関係性は薄いようでした。
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8月29日 鎌倉調査

2010-09-14 22:10:42 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
8月29日(日)に鎌倉の寺院を調査して来ました。

今回はレンタサイクルで市内を廻りました。
まず、寿福寺へ行きました。
島津家一門で海軍中将となった黒岡帯刀や鶴岡八幡宮宮司筥崎博尹(写真)の墓などを見ました。


非公開の地区には外務大臣伯爵陸奥宗光の墓もあります。

隣の英勝寺では徳川家康の側室で水戸徳川家初代頼房の養母となったお勝の方の墓を見ました。
祠堂の裏にあり正面から墓碑を確認することは出来ませんが、庭園の横道を進むと墓碑の右側面を見ることが出来ます。

その後、北鎌倉へ行き東慶寺へ行きました。
ここは文化人の墓が多数あります。
文芸評論家の小林秀雄、哲学者安倍能成、和辻哲郎、岩波書店の創業者岩波茂雄などの墓がありますが、今回の目的は六角家の墓でした。小林秀雄の墓の近くにあり、六角玄通の名が墓誌に刻まれていました。


隣の浄智寺では作家の澁澤龍彦の墓を見ました。澁澤龍彦は渋沢栄一の遠縁に当たり、深谷血洗島の栄一の生家前にある渋沢家墓地の龍彦の実家[澁澤武家之墓]にも龍彦の名が刻まれています。


次ぎに報国寺に行き、作家林房雄、歌人で旧足守藩主木下家の木下利玄の墓を見ました。林房雄の墓には側面に[児玉誉士夫誌之]と書いてあり、親交の深かった児玉誉士夫の書であることが分かりました。
木下家の墓は横にある墓誌に泉岳寺・谷中霊園に散在していた墓を合祀したと記されていました。

次ぎに妙本寺に行き、鎌倉幕府2代将軍源頼家の娘で4代将軍九條頼経の正室源媄子、海軍大将・男爵上村彦之丞の墓を見ました。
この上村彦之丞の墓域の前に江戸初期の宝篋印塔があったのですが、よく見ると正面に[養珠院殿妙紹日心大姉]側面に[夫東照大権現御息紀州大納言源頼宣水戸中納言源頼房(後略)]と刻まれており、徳川家康側室のお万の方の墓碑であることが分かりました。徳川家の墓はかなり調べていますが、今までに全く聞いたことのない情報でしたのでとても驚きました。


次ぎに上行寺で桜田門外の変で井伊大老を襲撃した水戸浪士広木松之助の墓を見ました。広木松之助はこの寺に潜伏して切腹しています。この墓は大正5年 (1916)に建てられたもので、正面に[贈正五位廣木松之助之墓]と刻まれ、先に見た海軍大将上村彦之丞の書によるものです。


向かいにある別願寺には4代鎌倉公方足利持氏の墓と伝わる宝塔があります。

最後は来迎寺で源頼朝挙兵時に源氏方に付き戦死した三浦義明、多々良重春の墓を見ました。五輪塔型の墓碑が2基並んでいました。
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8月22日 高輪・白金・上大崎調査

2010-09-14 21:26:47 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
8月22日(日)に高輪白金・上大崎の寺院を調査して来ました。

まず、高輪の源昌寺へ行き、幕末にロシアに渡り外交官となった増田甲斎の墓を見ました。角石型の墓碑には[全生院明道義白居士]という法名が刻まれています。


この寺には大和竜田藩主片桐孝利夫妻の宝篋印塔があり、以前見た時は本堂横の墓地にありましたが、今回の調査では本堂裏の新しく整地された墓地に移動していました。

その後、白金瑞聖寺に隣接する海福寺墓地で三河足助藩主本多家の墓を見ました。初代藩主忠周は減封され三千石の旗本となってます。

瑞聖寺の墓地には大名・華族家の墓が多数ありますが、墓地は非公開となっています。

その後、上大崎の寺町へ行きました。
清岸寺は大給松平家の分家の旗本二千石松平家の墓を見ました。
ここには幕末に軍艦奉行を務めた松平履堂の墓があります。


最上寺では旗本で維新後に「旧幕府」を刊行し、旧幕臣達の回想や論考、文芸作品を紹介した戸川残花の墓を見ました。
戸川家の墓所は2ヶ所あり、ますが、墓地最右奥の塀際に残花の墓があります。墓碑正面には[殘花戸川安宅墓]と刻まれています。


最後に常光寺で福沢諭吉初葬の地を見ました。福沢諭吉は遺言によりこの地に葬られましたが、後に麻布善福寺に改葬され、常光寺には[福沢諭吉先生永眠之地]と刻まれた石碑が建てられました。


この寺には上野沼田藩儒学者川崎也魯斎の墓もあります。

この上大崎の寺町は寛政の頃に増上寺の子院が移転して出来たもので、詳細な調査をすれば他にも著名人の墓が見つかりそうです。
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染井霊園巡墓会のお知らせ

2010-09-11 00:10:42 | イベント
探墓巡礼顕彰会では全国歴史研究会墓碑研究部会と共催で5月に開催した「護国寺・雑司ヶ谷霊園巡墓会~近代日本の群像~」に引き続き、第3回目の巡墓会を開催します会員外の方も大歓迎です。

■参加要項
★日時 平成22年11月28日(日)雨天決行 12:30より受付
13:00(現地出発)~16:00(現地解散)
★集合場所:JR巣鴨駅改札口前コンビニ付近(地図参照)



交通:JR山手線巣鴨駅・地下鉄三田線巣鴨駅
★講師:釣洋一先生(探墓巡礼顕彰会会長)
探墓巡礼顕彰会会員
★テーマ:「墓碑を訪ねて先人達に学ぶ」
西郷像を作った高村光雲、蝦夷地探検家松浦武四郎、白洲正子の祖父樺山資紀、三菱関係者など多彩な人物を取り上げます。
★参加費用:1,000円
(定員30名・参加費は当日受付にて)
※解散後、希望者で懇親会を行います。(3,000円程度で/場所未定)

■詳細等は決まり次第、『歴史研究』誌上、下記歴史研究会HP、
 探墓巡礼顕彰会ブログにて発表致します。

・歴史研究会HP(インターネット歴史館)
全国歴史研究会HP

★参加ご希望の方は、下記まで、電話、FAX、メールにて
 お申込み下さい。
全国歴史研究会墓碑研究部会
〒141-0031 東京都品川区西五反田2-14-10-504
TEL 03-3779-3127 FAX 03-3779-5063

(文責:カネコ)
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西行南游日記 PARTⅢ ②

2010-09-02 01:18:56 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

丸亀市内にいたのはほんのわずかな時間でしたが、旧城下町を思わせる場所がそこかしこにありました。

坂本龍馬が直清流矢野道場を訪れた場所が旧鷹匠町ですが、丸亀城の西に位置する現在の城西町に石碑が建っています。(=写真)



また矢野道場付近は外堀に面していたのですが、その南にはこのような石碑があって(=写真)、矢野道場やその一軒おいて南隣りの土肥兄弟宅を偲ばせるのに十分です。



さて、そこからやや東に行くと丸亀城がお目見え。矢野・土肥両家の目の前にあった外堀はすでに石碑だけになっていますが(=写真)、内堀はしっかり残っています。



その内堀にかかった長い橋を経て城内へ突っ込むと、右手に昔の公民館を思わせる建物が現はれます。そこが既述のように、親切な事務員さんのいた市立資料館になっているのです。

そこで聞いて初めて法音寺の場所を知りましたから、あんな駅のそばにあるんだったら最初から行っていたのにと悔しかったのですが、いかんせん、そこは自分の準備不足--

ネタ元が寺名を間違っているとは露ほども思はず、事前に調べたのは矢野敬勝の墓のある専念寺だけだったがゆえに起こりうることでした。

ですから、事前調べの大事なこといかばかりかを痛感した行脚となったのでした。

そこからはみるみる出てくるわ出てくるわで、専念寺に向かう途上、村岡宗四郎母子屋敷跡の碑が商店街の一角に設けられた駐車場の突き当たりに立っていたのです。

その石碑は比較的最近建立されたもの。なんと高杉晋作を匿った家との説明書が側面に刻まれていて吃驚仰天した次第--思わぬ副産物を得てホクホク顔で専念寺に到着。

電車沿いの寺は学校の敷地の中にあるような造りになっていて、その辺りは今は瓦町、かつて「中の丁」と呼ばれていた由。

城下街を活かした街づくりが全く土地勘のない人間にも往時を偲ばせる工夫があって、たった2時間半の滞在であったのに、最後は時間が余って500mlが安いスーパーに立ち寄ることができました。

おかげで父親が好きでよく学生時代に買って帰ったうどん--もちろん讃岐!--をもスーパーにてゲット。母親に必ず買って帰る高知の芋ケンピとともに「孝」を実践することができました。

丸亀の街、丸亀の方々に感謝することこの上ない巡礼となりました。

篤く御礼申し上げますとともに同市のまちづくり・まちおこしのためには協力を惜しみません。土佐の高知ともども四国の発展のためにみなさんも一致団結して盛り立てていこうではありませんか。

そんな思いを抱かせてくれた顕彰活動はこれからもまだまだ続きます---

お楽しみに!!

「勤王志士村岡宗四郎母子屋敷跡」の碑、松屋町商店街東側から入ってすぐ、「きもの匠 ふじかわ」向かい。石碑には「家業醤油醸造越後屋」において兵器を隠し、ひそかに弾薬を製造。「大和五條の変で捕縛、慶応三年一月二十九日(1867.3.5)病没、年廿二。長藩井上善心や高杉晋作を匿う」といふ。「平成十五年十月廿二日 医療法人社団厚仁会建之」
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