会員のカネコです。
昨年、11月に開催しました染井霊園巡墓会の補足をさせて頂きます。
この会では岩崎弥太郎の一族とブレーン達を紹介させて頂きました。岩崎家の詳細系図も作成し説明しました。
明治初期に岩崎一家として扱われた豊川(小野)家・吉村家・藤岡家のうち、豊川(小野)家・吉村家の墓は紹介しましたが、会の開催前の時点では藤岡家の墓の所在が分からず、ご紹介できませんでした。
ところが、巡墓会の終わる直前に偶然見つけました。
1種イ5号6側の位置で岩崎一族の墓が密集している地帯からは少し離れた場所でした。
藤岡正敏は土佐藩士で岩崎弥太郎の妹さを娶り、三菱発足後は大阪の岩崎別邸の初代名代人を務めました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/a1/449a2263a4c07b8a33b37d18ffade71b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/a9/8e63de33d538bd596d5f343d9b251f1a.jpg)
それぞれ[藤岡正敏之墓][藤岡佐喜之墓]と刻まれていました。
これで岩崎一家として扱われた豊川(小野)家・吉村家・藤岡家の3家の墓全てが染井霊園内にあることが分かりました。
藤岡正敏とさきの間には3人の娘があり、それぞれ荘田平五郎(福澤諭吉愛弟子、三菱重役)、志村源太郎(日本勧業銀行総裁、貴族院議員)、各務鎌吉(東京海上火災保険社長・会長、貴族院議員)に嫁いでいます。
なお、荘田平五郎の墓は白金瑞聖寺(非公開・宿利重一著『荘田平五郎』に写真あり)、各務鎌吉の墓は多磨霊園にあります。
巡墓会で岡倉天心の墓を説明させて頂きましたが、天心の墓から離れた1種ロ12号3側には、弟で英文学者の岡倉由三郎の墓があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/b7/a368d67385eabe84293b74e20ec3bf8e.jpg)
円墳上に[寂滅為樂]と刻まれた角石が建てられた珍しいお墓です。
クロサカさんが説明した水戸・松戸徳川家の墓のすぐ近くに足利家の墓があります。この足利家は江戸期に喜連川家と称した関東公方の末裔で、1万石以下ながらも10万石の格式を与えられた名家です。
幕末の当主縄氏は水戸藩主徳川斉昭11男で喜連川家に養子に入りました。明治になってから足利に復姓しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/f7/5db85c435ee3e39cd85166f269563caa.jpg)
ここにあるのは縄氏の実子で子爵となった足利於菟丸夫人[足利子爵夫人榮子之墓]と子孫の墓である[足利家の墓]の2基です。この場所に墓所が設けられたのはやはり縄氏の実家水戸徳川家の縁故であると考えられます。
水戸徳川家と言えば徳川光圀が『大日本史』において南朝を正統とし、楠木正成など南朝の忠臣を顕彰していて、それは水戸学として発展し、幕末の勤王の志士達に影響を与えました。足利尊氏が戦前まで朝敵とされていたこともこの水戸学の影響が大きいと考えられています。
この足利家に南朝を正統とした水戸藩から養子に入ったことは興味深いものがあります。しかもこれによって、足利家は南朝方の新田氏の一門を称した徳川家の血筋となったのも皮肉な話に思えます。
歴史を縦の軸でみると時折、面白い事実に出会うことがあります。特に南北朝と幕末維新には密接な繋がりがあります。
このようなことを考えるのもまた探墓巡礼の醍醐味でもあります。
次回の谷中霊園巡墓会で取り上げる新田俊純もまた南北朝と幕末維新を繋ぐ人物でありますので、またその折に南北朝と幕末維新の関連をお話したいと思います。
昨年、11月に開催しました染井霊園巡墓会の補足をさせて頂きます。
この会では岩崎弥太郎の一族とブレーン達を紹介させて頂きました。岩崎家の詳細系図も作成し説明しました。
明治初期に岩崎一家として扱われた豊川(小野)家・吉村家・藤岡家のうち、豊川(小野)家・吉村家の墓は紹介しましたが、会の開催前の時点では藤岡家の墓の所在が分からず、ご紹介できませんでした。
ところが、巡墓会の終わる直前に偶然見つけました。
1種イ5号6側の位置で岩崎一族の墓が密集している地帯からは少し離れた場所でした。
藤岡正敏は土佐藩士で岩崎弥太郎の妹さを娶り、三菱発足後は大阪の岩崎別邸の初代名代人を務めました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/a1/449a2263a4c07b8a33b37d18ffade71b.jpg)
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それぞれ[藤岡正敏之墓][藤岡佐喜之墓]と刻まれていました。
これで岩崎一家として扱われた豊川(小野)家・吉村家・藤岡家の3家の墓全てが染井霊園内にあることが分かりました。
藤岡正敏とさきの間には3人の娘があり、それぞれ荘田平五郎(福澤諭吉愛弟子、三菱重役)、志村源太郎(日本勧業銀行総裁、貴族院議員)、各務鎌吉(東京海上火災保険社長・会長、貴族院議員)に嫁いでいます。
なお、荘田平五郎の墓は白金瑞聖寺(非公開・宿利重一著『荘田平五郎』に写真あり)、各務鎌吉の墓は多磨霊園にあります。
巡墓会で岡倉天心の墓を説明させて頂きましたが、天心の墓から離れた1種ロ12号3側には、弟で英文学者の岡倉由三郎の墓があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/b7/a368d67385eabe84293b74e20ec3bf8e.jpg)
円墳上に[寂滅為樂]と刻まれた角石が建てられた珍しいお墓です。
クロサカさんが説明した水戸・松戸徳川家の墓のすぐ近くに足利家の墓があります。この足利家は江戸期に喜連川家と称した関東公方の末裔で、1万石以下ながらも10万石の格式を与えられた名家です。
幕末の当主縄氏は水戸藩主徳川斉昭11男で喜連川家に養子に入りました。明治になってから足利に復姓しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/f7/5db85c435ee3e39cd85166f269563caa.jpg)
ここにあるのは縄氏の実子で子爵となった足利於菟丸夫人[足利子爵夫人榮子之墓]と子孫の墓である[足利家の墓]の2基です。この場所に墓所が設けられたのはやはり縄氏の実家水戸徳川家の縁故であると考えられます。
水戸徳川家と言えば徳川光圀が『大日本史』において南朝を正統とし、楠木正成など南朝の忠臣を顕彰していて、それは水戸学として発展し、幕末の勤王の志士達に影響を与えました。足利尊氏が戦前まで朝敵とされていたこともこの水戸学の影響が大きいと考えられています。
この足利家に南朝を正統とした水戸藩から養子に入ったことは興味深いものがあります。しかもこれによって、足利家は南朝方の新田氏の一門を称した徳川家の血筋となったのも皮肉な話に思えます。
歴史を縦の軸でみると時折、面白い事実に出会うことがあります。特に南北朝と幕末維新には密接な繋がりがあります。
このようなことを考えるのもまた探墓巡礼の醍醐味でもあります。
次回の谷中霊園巡墓会で取り上げる新田俊純もまた南北朝と幕末維新を繋ぐ人物でありますので、またその折に南北朝と幕末維新の関連をお話したいと思います。