会員のカネコです。
9月19日(日)は三浦半島の三崎へ行ってきたので2ヶ所で墓所調査をしてきました。
京浜急行三崎口で降り、バスで油壺へ行きました。
油壺マリンパーク正面入り口を右に進むと海岸へ下る細い道があり、その途中で2つ分かれる道を進むと戦国期にこの地にあった新井城主三浦道寸義同の墓があります。
墓碑正面に[従四位下 陸奥守道寸義同公之墓]と刻まれていました。
右側面に[三浦長門守]とありましたので、義同の子孫で紀州徳川家の家老となった三浦長門守家によって建てられたものと思われます。
この後、バスで三崎港方面へ向かい、日の出バス停で降り本瑞寺へ行きました。
この寺は源頼朝ゆかりの桜の御所があった所と言われ、三浦氏の菩提寺であったお寺です。寺紋は三浦氏の丸に三引両です。
境内に入りすぐ右側には美術評論家で男爵の岩村透の銅像があります。これは朝倉文夫の作です。
その右側には高浜虚子門人の俳人松本たかしの墓ががあります。自然石を置いただけの質素な墓でした。
境内の左に広がる墓地には岩村透の墓がありました。
石円墳の上に角柱を置いた形式で正面に[岩村透先生之墓]と刻まれていました。
父岩村高俊は宿毛伊賀家の家臣で戊辰戦争の際、長岡藩の河井継之助の嘆願を一蹴して長岡戦争の原因を作った人物としても知られています。高俊の墓は京都の東大谷廟所武家墓域にありますが、非公開となっています。
この後は折角、三崎港へ来たのでマグロ丼を食べて帰りました。
9月19日(日)は三浦半島の三崎へ行ってきたので2ヶ所で墓所調査をしてきました。
京浜急行三崎口で降り、バスで油壺へ行きました。
油壺マリンパーク正面入り口を右に進むと海岸へ下る細い道があり、その途中で2つ分かれる道を進むと戦国期にこの地にあった新井城主三浦道寸義同の墓があります。
墓碑正面に[従四位下 陸奥守道寸義同公之墓]と刻まれていました。
右側面に[三浦長門守]とありましたので、義同の子孫で紀州徳川家の家老となった三浦長門守家によって建てられたものと思われます。
この後、バスで三崎港方面へ向かい、日の出バス停で降り本瑞寺へ行きました。
この寺は源頼朝ゆかりの桜の御所があった所と言われ、三浦氏の菩提寺であったお寺です。寺紋は三浦氏の丸に三引両です。
境内に入りすぐ右側には美術評論家で男爵の岩村透の銅像があります。これは朝倉文夫の作です。
その右側には高浜虚子門人の俳人松本たかしの墓ががあります。自然石を置いただけの質素な墓でした。
境内の左に広がる墓地には岩村透の墓がありました。
石円墳の上に角柱を置いた形式で正面に[岩村透先生之墓]と刻まれていました。
父岩村高俊は宿毛伊賀家の家臣で戊辰戦争の際、長岡藩の河井継之助の嘆願を一蹴して長岡戦争の原因を作った人物としても知られています。高俊の墓は京都の東大谷廟所武家墓域にありますが、非公開となっています。
この後は折角、三崎港へ来たのでマグロ丼を食べて帰りました。