探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

巡墓会を終えて…

2016-06-30 00:15:08 | 会員の調査報告
カトケンです。
今回の5月の巡墓会にて、池上本門寺を取り上げたが、直前になって掃苔仲間からの指摘で分かった人物の墓がある。

一番最初に説明した中野石翁の左側2つ隣りに「奥津氏」と刻まれたもので、提供された情報では家斉の側室「お蝶の方」とのこと。法名「速成院」で没年は嘉永5年6月(1852)と刻まれている。

ものの本によれば、このお蝶の方は、奥津氏娘とも、曽根重辰娘ともされ、私は当日まで墓碑を「奥野氏」と誤読していたから、謎のまま説明もしないでいた。

ところが、当日説明を終えて改めて見てみると、「奥津氏」となっており、その後、幕臣たちの履歴から「奥(興)津」を拾ってみたところ、

寛政譜では曽根弥三郎重辰(しげとき)といい、戦国時代に駿河国興津の城主から派生した家であった。

重辰の長女が「本城に仕う」とあるから、これがお蝶の方と考えられ、幕末は断絶しているようだが、菩提寺は深川法禅寺とある。現在の神田寺のことかーー

訪ねてみたいが、なかなか時間がとれない。平日は2時間かけて職場に通ってるし、土日は洗濯せないかん、健康維持も欠かせない。

仕事も経理は日々責任が伴うから休むわけにはいかん。夜は人との付き合いもある。

そんなこんなで本来、や、本業とも云ふべき掃苔を怠っている。

いつか訪ねることを楽しみに、今は目の前のことに専念しようと思う。ーおわりー

写真は池上本門寺 石翁の1基おいて左隣「お蝶の方」墓碑(正面及び裏面)




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6/17,18 土佐、讃岐掃苔~土佐史談会創立100年記念行事の出席を兼ねて~

2016-06-21 21:19:24 | 会員の調査報告
また性懲りもなくサンライズ瀬戸に乗って土佐へ行っちょった会員のカトケンです。

○高知市内
水源地山の望月亀弥太(=写真)



今年1月に北添佶磨の生家へは行けたのですが(高知県高岡郡日高村岩目地)、

帰りにどうしても望月亀弥太の墓が分からなくて。

何のことはない。すぐ目の前まで来ていたのに入る山を間違えちょっただけやったきね(土佐弁)。

あとで地図見て愕然としたことは言うまでもなかったのですが。

まあ、何よりたどり着けて良かったです。

○香川県仲多度郡琴平町榎井(えない)日柳燕石の墓(=写真)



帰りは高松から寝台に乗るので
いったん琴平で降りて高杉晋作などが匿われた呑象楼へ。榎井小学校の校内に塀が取っ払われた形で建っていた。燕石の胸像もあり。向かいの春日神社には燕石の記念碑が。

呑象楼の元あった場所はここではなく、琴平駅から程近い商店街を抜けたところに呑象楼の跡という石碑が建っている。

そしてこの石碑をまっすぐ突き抜けた正面が日柳燕石の生家跡。ここにも石碑あり。

そこを左に折れて踏切を渡りずんずん行き、右手に日柳燕石の墓これより二丁と刻まれた石碑を頼りに民家の間を抜けていくと、こんもりとした樹の陰にひょっこり墓石が顔を出している。

犬を散歩させている人に会釈をしながら、その木陰のところに来ると両側に石柱を拵え、いくつか記念碑を配した墓地が現われた。(=写真)





これぞ日柳燕石こと加島屋長次郎の墓。向かって右に両親の墓、左には長男の墓。(=写真)



奥には御子孫の墓と思われる新しい墓碑が2基建つ。

琴電の出発時間を気にしながら、フィルム写真の撮影を一通り終え、次の目的地へ。

昨夏と同じ勝手知ったるコース。今回は高松築港まで行かず、栗林公園で降り今回の旅の締めくくりに訪れた姥ヶ池(ばあがいけ)墓地を訪ねる(高松市宮脇町)。

無事、
○徳川慶喜の侍医 柏原学而の墓(=写真)


を見つけて悠々とJR高松駅へ向かったーーおしまい





土佐史談会100年記念行事の写真
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