探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

6月14日 祐天寺・長泉院・和田堀廟調査

2009-06-21 15:35:25 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
6月14日は祐天寺・長泉院・和田堀廟へ調査へ行きました。

東横線の祐天寺駅から歩いて10分程度で祐天寺に着きます。
まず山門入って横に長州藩主毛利家の墓が2基並んでいます。毛利家は明治維新の際に神道に改宗し、都内の墓所の整理を行っています。その際に残された旧石です。
墓地は境内左側に路地を挟み2ヶ所あります。
著名人の墓は境内からすぐ横の墓域に集中しています。
大正天皇生母柳原愛子の墓が歴代住持墓のある墓地中央になります。隣接して実家の柳原伯爵家の墓があり、そのななめ後ろには土佐藩主山内家の夫人墓があります。その後ろ側には土佐藩士の墓が点在しています。
その他には渋沢栄一の従兄で実業家の渋沢喜作(成一郎)、生実藩主森川家、公家の堤家、大奥関係者とみられる格式のある江戸期の女性墓などがあります。

長泉院は祐天寺からさらに歩いて15分程度の所にあります。ここには七卿落ちの一人東久世通禧の墓があります。この墓地には儒学者松崎慊堂、漢学者渡辺樵山の墓もあります。

杉並区にある和田堀廟は築地本願寺の墓地で、ここにも著名人の墓が数多くあります。
入って真っ直ぐ行くと五摂家九條家の分家(九條武子で有名)の自然石の墓があります。
さらにその並びに大日本帝国憲法の起草に関わった伊東巳代治の墓があります。
九條分家手前から右の高台に登ると本家の九條道実の墓があります。京都の九條家の墓石と同型の小型の宝篋印塔です。
その他、この和田堀廟には首相佐藤栄作、小説家樋口一葉、海音寺潮五郎(写真)、作曲家古賀政男、音楽家服部良一、実業家辻嘉六、蘭方医土生玄碵(シーボルト事件に連座)等の墓があります。
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6月7日 与楽寺・染井霊園調査

2009-06-21 14:46:25 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
6月7日に田端与楽寺、染井霊園の調査へ行きました。

田端の与楽寺はJR田端駅から歩いて10分程度の所にあります。
ここには陸軍大将大島久直の墓(写真)があります。
墓地は境内の左側一帯で、墓地最奥、歴代住持墓所の奥に大島家の墓域があります。墓碑正面には「陸軍大将正二位勲一等功二級子爵大島久直墓」と刻まれています。墓域には久直の愛馬の小さい墓碑がありました。

JR巣鴨駅から歩いて5分くらいの所にある染井霊園は4大霊園の一つで、数多くの著名人の墓があります。
この日の調査目的は九鬼家の墓です。九鬼隆一の家族の墓があります。
1種イ2号4側にあります。隆一夫人星崎波津子や長男一造の墓があります。一造は周造の兄にあたり、爵位を継承する前に逝去しています。
他にこの日調査したのは裏辻家、樺山資紀、宍戸璣 、土方久元、濱尾新、近藤家、川田小一郎、宇和島伊達家の分家、調所家、岩崎弥太郎の分家などもあります。岩崎本家の墓所は隣接していますが非公開となっています。
その他に明治天皇の侍医の高階経徳、官僚小原重哉、ジャーナリスト宮武外骨、写真家下岡蓮杖、漢学者安岡正篤、苗木藩士青山直道等の調査をしました。

この染井霊園にも幕末維新以降の重要な人物が眠っており、今後の詳細調査の必要性を感じました。

これから夏にかけては掃苔には厳しい季節になります。この日も与楽寺と染井霊園でハチの大群に遭遇しました。今年は毒性のある毛虫も発生しているそうですので、注意しながら掃苔をしましょう。
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5月31日 長谷寺・立山墓地・青山霊園調査

2009-06-21 02:12:50 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
5月31日は会合の前に長谷寺、青山霊園、立山墓地の調査をしました。

長谷寺には著名人や政治家等名墓が数多くあります。墓地へ入り真っ直ぐ行くと目に付くのが石柵に囲われた会津藩家老西郷近光の墓があります。近光の孫は幕末の家老西郷頼母です。周りには頼母の近親の墓もあります。
西郷家の墓を左に行くと井上馨の墓があります。
井上家の墓域の左奥には三草藩主丹羽家の合祀墓があります。元々は西郷家の背後周辺に散在していましたが、平成17年に整理され、旧石は廃棄されました。
この墓域の手前には実業家立川勇次郎の墓があり、さらに進み右へ曲がると橋本左内の弟で子爵になった橋本綱常の墓があります。
さらに奥へ進むと海軍大将山屋他人、波多野敬直、最奥に画家の黒田清輝の墓があります。
墓地の左奥の墓域には会津藩士の墓が密集した墓域があります。樋口家や井深家といった会津藩士の名家の墓が集石されています。
雨のため、かけ足の調査となりましたが、他には昭和の名優エノケン、ソニーの盛田昭夫、歌手坂本九など著名人の墓が数多くあります。

立山墓地は青山霊園の飛び地で、会津藩出身の桐生氏が開いた墓地で、現在の青山霊園の原型となった墓地です。
海軍大将山下源太郎、陸軍大将立見尚文、松平正直、九條家の子女墓、出羽長瀞藩主米津家、鶴殿家、元田永孚の子女墓、赤報隊の相良総三等の墓があります。

青山霊園は短時間でしたが、「青山墓地録」「東京青山共葬墓地明細案内図」の記述の確認をしましたが、道路拡張等により改葬されている墓が多かったです。それから1種ロ28側3番4にあった豊後岡藩主中川家の墓(写真)が改葬されていました。

今後も青山霊園の最新状況を把握すべく鋭意調査をします。
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6月7日(2)常磐共有墓地と2人の史家

2009-06-13 15:11:55 | 会員の調査報告
常磐共有墓地は、水戸市松本町13 大悲山 保和院 桂岸寺敷地内に当たり、祗園寺側から行くと、赤い仁王門、桂岸寺、駐車場をはさんで西側が常磐共有墓地になります。

その中に回天神社及び忠魂塔、それを南北に挟むように水戸殉難志士墓第一、第二があり、小さな墓碑が整然と並べられ、ある種すがすがしささえあります。桂岸寺墓地側には回天館があります。

常磐共有墓地はさらにその奥、道を挟んで甲地区(東側)と乙地区(西側)に分かれています。

回天神社の傍らには徳富蘇峰撰文「流芳万古」の石碑があり、回天館は高橋多一郎・庄左衛門父子の蝋人形が迎えてくれ、天狗党殉難者ゆかりの品々が展示されています。
この回天館は、天狗党が敦賀で処刑直前に押し込められたと伝わる「ニシン倉」が移築されたものです。

水戸殉難志士墓第一には、遠く土佐の立川番所で住谷寅之介とともに坂本龍馬と会った大胡聿蔵の墓、そこに接する常磐共有墓地甲地区には田丸稲之右衛門の実子・川瀬七郎衛門教徳、「波山始末」を書いた川瀬教文、北辰一刀流小沢寅吉、神道無念流菊池慎七郎。格さんとして知られる安積澹泊らに加え、見切れなかったものに藤田幽谷・東湖父子、その姻族の豊田小太郎、桜田事変襲撃者の関鉄之助など枚挙にいとまがありません。

甲地区を隔てる道沿いにあるはずの彰考館総裁 名越南渓の墓は子孫である名越時孝、時中、時正三代のお墓しかありませんでした。
『水戸学の達成と展開』(錦正社)をものされた史家名越時正氏がおそらくこの家のご子孫であろうと、今回調査の確認事項にしていましたが、やはり予想どおりでした。平成17年に行年90歳でご逝去されていました。ご冥福をお祈りいたします。

乙地区には藤田健・小四郎兄弟、桜田事変襲撃者では前出川瀬教徳の次男金子孫二郎・蓮田市五郎・海後磋磯之介…この海後については、言わずと知れた同事変の生き残り証言者ですが、息子淳を経て、さらに孫の宗臣は教育勅語の研究をはじめとした教育学の大家にして、明治天皇の侍講を務めた元田永孚の伝記執筆者としても著名な方でした。これは知らず、自分としては大発見でした。

まだまだ紹介したいお墓はたくさんありますが、この他に戊午密勅、東禅寺事件、坂下事変など事件・テーマごと見ていくのもアプローチの1つだと思います。

全体を実見したところでは、常磐共有墓地の難点として、墓地内に平行に張りめぐらされた参道を縦軸とすると、途中に横軸になる道がなかなかないことです。いったん参道に入ると、墓域のどん詰まりまで行くか、再び入口まで戻らないと行けません。
これは目の前に見たい墓があるのに、墓と墓の間隔も開いていないため、手も足も出ない状態に陥ります。

良いところとしては、前にも紹介したように、この場所にも白い木柱が建っていて目指す墓を見つけやすい上、そうした案内のある墓碑は必ずと言っていいほど幅が大きく高さもあり、詳細な事績が刻まれていることです。これらがそのまま貴重な伝記資料になりますので、これぞ探墓の醍醐味であると思います。

1つ例を挙げれば、金子孫二郎のものは白い墓碑で、黒色が薄れたようになっており、両面にびっちり文字が刻まれているため、解読・筆写には相当時間を要しそうでした。

また、墓地全体の印象としては、乙地区は余り木がなく、甲地区は奥へ行くほど木が鬱蒼としてきます。今の時分から夏の間に行くならば、日焼け・蚊の予防対策が欠かせません。

墓碑の数がおびただしいため、全域をくまなく見るのであれば、1日ではすまないでしょう。自分としては何度も足を運びたくなる魅力的な場所でした。

今回、実地を踏んで数々の疑問点が浮かびましたので、継続して調査を進めていきたいと思います。最後に、情報・資料提供していただいた茨城県立博物館の方、会員のクロサカさんとカネコさんに感謝申し上げます。(今回の水戸市調査-おわり)
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6月7日(1)祗園寺

2009-06-12 12:02:19 | 会員の調査報告
2日目、水戸市八幡町の祗園寺を訪ねました。筑波山挙兵を行った天狗党と敵対し、戊辰戦争を旧幕の立場で戦った諸生党を率いた市川三左衛門の墓があります。
前日、茨城県立歴史館で原市之進に関する講演会が開かれ、講演後にその講師の方から諸生党の墓地として同寺を教えていただきました。
行き方は、水戸駅北口7番乗り場から茨城大学行きのバスに乗り、茨城高校入口のバス停で下車、進行方向を右に曲がると山門が見えてきます。
祗園寺は、曹洞宗 寿昌山 祗園寺と称し、明の東皐心越禅師を開祖とし、徳川光圀により創建されました。住所は水戸市八幡町11-69であり、茨城高校・中学に隣接していて、墓域は山門をくぐって本堂手前を左手に入ったところにT字型に拡がっています。
墓域に向おうとする右手に高さ3mはある諸生党殉難碑が建っています。裏面には500名にも及ばんとする諸生党殉難者の氏名が刻まれていて、天狗党殉難者に勝るとも劣らない勢いです。遺族や歴史家などが顕彰に熱心のようで、殉難碑の左傍らに黒色で丁寧な解説碑に刻まれた賛同者も相当数にのぼっています。その石碑によると、新潟県の西山町や千葉県の八日市場にも諸生党記念碑があるそうです。
このお寺にあるお墓の目印は木柱ではなく、白いプレートの看板です。それを頼りに、洋画家の中村彝(つね)の墓(墓域中央)、朝比奈家の墓(本堂裏手)、市川三左衛門の墓(諸生党殉難碑を背に墓域の突き当たり)に向かいました。墓域は奥行きはそんなにありませんが、幅は100mを優に超えます。
朝比奈家の墓は、「朝比奈弥太郎墓」の看板に導かれて行きました。10基ほど墓碑があり、古くて読み取りづらいものが多く、その中にあって状態がよかったのが、立原翠軒撰書による城代朝比奈雲斎(右兵衛泰雄・号は道軒・父弥太郎)墓でした。墓碑によれば、戦国時代駿河の今川氏に仕えた朝比奈氏を発祥としていることなどが書かれ、興味深いものがありました。しかし、肝心の弥太郎の墓はよく判りませんでした。それも、あとで判ったことですが、初代水戸藩主徳川頼房に仕えた人物も弥太郎、幕末の諸生党も弥太郎で、諱が判らない限りどうにもなりません。雲斎墓は文化十一年建立ですから、代々弥太郎なのでしょう。
さて、やはりメインは市川三左衛門です。墓碑は風化が激しく、正面に「○○常莫大居士○霊」と戒名がほとんど読み取れない状態です。下には家紋のような葉の形が刻まれています。横面のない自然石で、裏面には何もありません。ただ、戒名の右上に「慶安二年」と書いてあるように読めます。そうすると本当に三左衛門の墓なのかどうか疑いが出てきます。
位置関係は三左衛門と思われる墓が一番奥の真ん中で、両側を市川家一族が取り囲むようにして左側に6基、右側に7基並んでいます。所々読めない墓碑もあって、じっくり調べるには30分はかかるでしょう。
そんな中で印象的だったのが、左側奥から2番目に位置し、三左衛門、その妻、息子たちを一緒に葬った「倶会一処」と刻まれ、先端が三角の形をした墓碑です。その墓だけ、かなり前かがみに建っていました。「ともに一所に会す」と読むのでしょう。裏面には「市川三左衛門弘美/配 岸子/秀五郎弘称/主計弘継/安三郎/大正六年六月合葬/弘勝建立」(/は改行)とありました。
お寺のパンフレットには、この他に農本主義者橘孝三郎、詩人山村暮鳥などの墓があると記されています。
そのあとは、いよいよ常磐共有墓地に向かいました。祗園寺から西へ徒歩で5分ほどの所。バス停なら茨城高校入口から2つ目の末広町3丁目が最寄りになります。つづく
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