探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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「豊臣氏」滅びず-芝金地院にある木下家の墓-

2016-07-01 00:01:01 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
大河ドラマ『真田丸』も半年を過ぎ、折り返しを過ぎましたが、これからは年末の大坂夏の陣に向かって、豊臣家が崩壊に向かって行く様子が描かれます。
大坂夏の陣で豊臣秀頼が自刃し、その子国松が処刑されることによって太閤秀吉の血筋が絶え、豊臣家が滅亡したことは言うまでもありませんが、実は豊臣秀吉の名跡を継いだという木下利次という人物がいたことはあまり知られていません。

昨年末に開催した当会のオフ会芝金地院巡墓会で私はこの木下利次について解説をしました。
金地院の墓地の片隅、無縁墓が集石されている一角に隣接して、旗本木下家の墓所があり、その中にこの旗本木下家初代の木下利次の墓があります。



正面:碧雲院殿徹叟利三居士
裏面: 元禄二巳巳年
   家門元領豊臣姓木下氏民部墓
    正月十三日
この墓碑にははっきりと「豊臣」の文字が刻まれています。

『寛政重修諸家譜』に書かれた略歴によると、利次は高台院(北政所ねね)の甥である備中足守藩主木下宮内少輔利房の二男として生まれました。幼少時より高台院に養われ、元和9年(1623)将軍徳川秀忠と世子家光に拝謁。この際に高台院の請願により、高台院の養子となっています。寛永元年(1624)2月、江戸に参府。同年高台院が危篤になると、秀忠より時服七領、羽織一領、家光より馬一疋を賜り、京都へ赴き看病するよう命じられています。9月6日(1624・10・17)高台院が逝去すると、11月にその遺物として秀忠に小瞿夢の茶壺、家光に記録一部、お江の方に菊の源氏一部を献上しています。
寛永3年(1626)近江国野洲栗太両郡の内に3000石を賜ります。この時、秀忠・家光が上洛するため、あらかじめ京都に参るよう命じられ、家光より時服四領、羽織等を賜り、秀忠・家光が江戸に帰る際にも時服、羽織を賜った後領国へ赴いています。寛永11年(1634)7月の家光上洛の際にも供奉。後に寄合に列し、貞享4年7月10日(1687・8・17)致仕して家督を長男の利値に譲っています。
元禄2年正月19日(1689・2・2)83歳で死去。妻は御船奉行向井将監忠勝の養女。四男崇達は芝金地院広恵の弟子となり、後に金地院の住職として僧録となっています。木下家の菩提寺が金地院となったのはその関係であろうと思われます。
利次以降の歴代当主は次の通りです。
利値=秀三=秀就=利意=利常―利嵩―秀般―秀舜

高台院の兄木下家定の系統は江戸時代を通じて本姓「豊臣」を称しています。
『寛政譜』第18巻には豊臣の項が置かれ、備前足守藩主、豊前日出藩主の大名2家、足守藩分家の旗本2家、日出藩分家の旗本2家、計6家の木下家が記載されています。

さて、インターネットで「木下利次」を検索すると「豊臣宗家の社稷を継ぐことを認められた」という記述が出てきますが、『寛政譜』には高台院の養子になった記述はあっても、豊臣宗家を継いだような記述は全くありません。
そこで『寛政譜』以外の木下家の系譜を探してみると、利次の本家筋にあたる『備中足守木下家譜』(東大史料編纂所蔵)があり、その中に次のような記述があったのです。
系図部分に「秀忠有命太閤秀吉為名跡於河内國三千石ヲ賜准諸侯列席」家譜部分に「寛永三丙寅年故太閤秀吉公家名相續被命」とあり、幕府の命により秀吉の家名を相続した事が記されています。
尚、この家譜の中では「利次」では無く「利三」と記されています。これは法名の「利三」と混同されたものではないかと思われます。
また、家譜部分にはさらに次のような記述があります。
「利三秀吉公ノ名跡ナルヲ以テ宗家タラン事ヲ云テ一族不敬甚シク仍一族公ニ訴テ義絶ス」とあり、利次が豊臣宗家である事を鼻にかけるような態度があり、木下一門がそれを怒り幕府に利次を義絶したという記述です。
その後「六世左門利常ニ至テ木下一統和睦天明三癸卯年八月廿八其旨公ニ訴フ」とあり、6代利常の代に木下一族と和解したとあります。
以上の記述は『寛政譜』には記述されておらず、利次の子孫が『寛政譜』編纂の際に提出した系譜にはあえて記さなかったのではないかと思います。
尚、『備中足守木下家譜』には利次の所領を「河内」と記していますが、これは「近江」の誤りであり、『備中足守木下家譜』の正確さについては若干疑問が残ります。
木下家には秀吉・高台院の遺品や肖像画などが伝来しており、『寛政譜』には8代将軍吉宗が木下家に伝来する豊臣秀吉の甲冑を台覧したとあります。また寛文6年(1666)に木下家で制作した高台院の肖像画は現在、名古屋市秀吉清正記念館に所蔵されています。
『備中足守木下家譜』は東京大学史料編纂所HPの所蔵史料目録データベース から閲覧できます。

ちなみに本姓豊臣氏を称した家は冒頭で紹介した『寛政譜』記載の6家以外に『地下家伝』に瀧口武者を再興した「瀧口」の中に豊臣姓を称した木下家があり、初代は木下秀峯といいますが、大名家の木下家との関係など出自は不詳です。
また、明治初期の政府官員の名簿を収めた『明治初期の官員録・職員録』には明治2年(1869)の職員名簿に職員の本姓も記されており、その中に豊臣朝臣を称した平山勝清という人物が見られます。この平山勝清出自も全く不明ですが、大名木下家以外にも豊臣姓を称した家がある事は興味深いものがあります。
大坂夏の陣で秀吉系豊臣本家は滅亡しましたが、実際のところ、姓としての「豊臣」は江戸時代を通じて残されており、特にその使用を憚るものではありませんでした。

金地院の現在の木下家の墓所の様子を見ると、無縁墓地隣の狭いスペースに並べられていて、長年子孫の墓参が無いように思われます。明治以降の子孫の墓が無い事から断絶したか、遠方に移住したものと思われます。
金地院は徳川将軍家の菩提寺のすぐ裏にあります。「豊臣」の文字が刻まれた墓が、徳川将軍家の墓所のすぐ背後にあることに歴史の因縁を感じさせられます。
また、金地院を創建した金地院崇伝は大河ドラマ『葵徳川三代』でも描かれた通り、大坂冬の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件にも深く関与しています。その崇伝の寺に「豊臣」氏の墓があるというのも皮肉な話であるように感じられます。

[参考文献]
『寛政重修諸家譜』続群書類従完成会
早川晴夫『豊臣氏存続―豊臣家定とその一族―』今日の話題社
東大史料編纂所蔵『備中足守木下家譜』
三上景文編『地下家伝』
宝賀寿男「会員研究 明治初期の政府官員の姓氏」(『歴史研究』)
コメント (6)
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