探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

流山市立博物館友の会催行『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』のボランティアガイドをしました

2019-02-24 20:14:38 | イベント
会員のカネコです。
本日は流山市立博物館友の会催行『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』のボランティアガイドで染井霊園と周辺寺院の著名人墓所の案内をしました。
流山市立博物館友の会は元新人物往来社社長大出俊幸様が会長を務めており、大出様にかねてより当会の活動をご支援頂いている関係でお話しを頂きました。

当会では平成22年(2010)に染井霊園、平成25年(2013)に染井霊園周辺の寺院にて巡墓会を開催した実績があり、それをベースにして、今回は著名人を中心に1時間半以内のコンパクトな内容にしてご案内しました。

『板橋・巣鴨をめぐる歴史探訪』は午前中に板橋駅前の近藤勇墓所からスタートし、旧板橋宿の観明寺、平尾本陣跡を巡り、いたばし観光センターでガイドさんの解説を聞いた後、巣鴨駅へ移動し、地蔵通り商店街で昼食をとって、午後の染井霊園での巡墓会となりました。
我々の恩師でもある釣洋一先生ご夫妻もお越しになり、近藤勇墓所で先生作のレジュメを配布の上、解説もされました。先生とは久々にお会いしたが、大変元気なご様子でした。

今回、当会のカトケンさんが腰を痛め、静養中のため、クロサカ、カネコの2名にてお墓の案内をしました。
染井霊園と周辺寺院で案内した人物は以下となります。

・染井霊園
高村光雲・光太郎・智恵子 明治~昭和期を代表する芸術家一家
松平定敬 箱館まで抵抗した桑名藩主
下岡蓮杖 日本営業写真館の開祖
土方与志 新劇運動に捧げた生涯
岡倉天心 日本近代美術発展の功績者
二葉亭四迷 日本最初の近代小説家
嘉納次郎作 実業家であった嘉納治五郎の父
樺山資紀 白洲正子の祖父
徳川武定 松戸に生まれた徳川様
宮武外骨 ジャーナリスト、明治文化研究家
松浦武四郎 北海道の名付け親、幕府と明治政府両方に仕えるも一貫してアイヌ人擁護
・慈眼寺
谷崎純一郎 日本近代文学を代表する大文豪
芥川龍之助 先祖は江戸城奥坊主、日本近代文学を代表する大文豪
・本妙寺
本因坊歴代 囲碁家元筆頭の系譜
千葉周作 水戸藩士、北辰一刀流創始者
遠山景元 江戸南北町奉行、父子とも大器晩成、急流勇退す

岡倉天心の墓所では「映画『天心』上映する会」副代表上野健夫様、宮武外骨の墓所では宮武外骨に関するの書籍を手掛けた元崙書房編集者でたけしま出版竹島いわお様より貴重なお話しをして頂きました。

千葉周作・遠山景元の墓所では釣先生にも少しお話しを頂きました。



短い時間でしたが、流山からお越し頂いた皆様に様々な人物のご案内をすることができました。
レジュメも後日読んでいただけるよう、詳細なものを作りましたので、ご参加頂いた皆様にはこれを読んで頂いて、またお墓巡りして頂ければ幸いに存じます。

このような機会を設けて頂いた、大出様はじめ、流山市立博物館友の会の皆様に厚く御礼申し上げます。

さて、年末にお伝えしました通り、今回のボランティアガイドを持ちまして、当会としてはしばらく活動を休止して、各々ソロ活動という形で活動いたします。
各人の活動については時折ブログでもお伝えする予定ですので、引き続き当ブログをチェックして頂けますと嬉しく思います。
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五代目古今亭志ん生の先祖考

2019-02-12 00:35:38 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
今年の大河ドラマ『いだてん』ではビートたけしさん演じる五代目古今亭志ん生師匠が明治と昭和の橋渡しをするような役割を果たし、とても重要なポジションを担っています。
それにしても昨年の鶴瓶さん演じる岩倉具視同様、役者が素のキャラクターで登場するというのは流行りなのでしょうか?

それはさておき、志ん生師匠はドラマでも描かれている通り、若い頃は素行が悪く、放蕩生活をしていたのですが、出自は旗本家であり、自伝でもそのことを語っています。

平成26年(2014)に志ん生師匠の実家美濃部家の家系について調べたのですが、結局、完全なる解明に至らずそのままになっていました。
折角の機会なので、その時に調べたメモ、収集した資料、撮影した墓碑を整理し、再度検討してみたいと思います。

志ん生師匠のお墓は様々な形で紹介されていますが、文京区小日向にある浄土宗還国寺で、ここが美濃部家の菩提寺となっています。
本堂横の平地の墓地に[美濃部家之墓]と刻まれた角型墓があり、墓誌には志ん生師匠、その子志ん朝師匠の戒名が刻まれています。



さらに高台の墓地には美濃部家の本家と考えられる[美濃部家之墓]と刻まれた角型墓と古い小型の五輪塔があります。



ただ、墓碑からは家系が分からず、墓碑調査後に文献からその家系を辿ることにしました。

志ん生師匠は自伝『びんぼう自慢』で自らの家系を語っています。

「あたしんとこは、おやじの代まではさむらいだったもんだから、昔の戸籍にゃァ、士族なんて書いたものです。
 さむらいたってヘッポコじゃァなくって、徳川の直参で八百石ばかり取っていた。もっともね、美濃部家の本家てえのは三千石の知行を取っていたというから、こりゃァ旗本の中でも大看板です。下手な大名なんぞ、ブルブルッとくるくらいのもんですよ。
 美濃部重行てえのがあたしの祖父さんで、このひとは槍の指南をしていて、小石川の水道橋…いまの水道橋のあるあたりの、小高いところの、とほうもなく大きな屋敷に住んでいた。
 あたしのガキのころ、よくおやじから、「この辺がそうだったんだよ。ズーッと向こうのほうまでなァ…なんてことを、きかされたものであります。
 美濃部の菩提寺てえのが、そこらか遠くない江戸橋の近くにあって還国寺てえ寺で、本家の墓なんてえのは、すばらしく立派です。「あっちのが二千石の家の墓だ。ほおら、うちのほうがデッかいだろう」なんて、おやじが説明してくれるのをきいて、子供心に、なるほどウチの先祖は三千石だったんだなァと、大変鼻が高かったことを覚えております。本家が三千石で、あたしんとこが八百石ということは、つまり、祖父さんの代が、その前の代あたりに分家したんでしょうなァ、要するに“分け美濃部”てえところです。
 (中略)その連れ合いの、祖母さんてえ人も、だいぶ長生きしてたから、あたしも知っているが、いい女でしたねえ、なんでも田安家の親戚関係だったそうで、きれで上品で、物腰やわらかくって、裏長屋に置いておくなんざ、もったいないほどの婆さんでしたよ。
 おやじの名前てえと盛行で、お袋のほうがてう(ちょう)というんですが、このおやじてえ人が大変の道楽ものでして、八百石の若様だから、何一つ不自由なんぞないはずなのに、どういうもんだかヶにジッとしていない。表ェ出て、着物や大小なんぞどっかへあずけて、頭髪ィなおして町人の風をして、そいでもって吉原へ行ったり、寄席へ出入りして遊んでばかりいる。」
と、あります。

しかし、同書巻末の小島貞二編集の年譜には次のように書かれています。
「6月5日、神田亀住町(現・千代田区外神田5丁目)において、美濃部盛行・てうの四男として出生」と、志ん生本人は語っているが、戸籍によると、父は美濃部戍行(弘化2年8月18日生まれ)、母は志う(安政元年8月18日生まれ)で、その五男として6月28日生まれる。」

とあり、志ん生師匠の記憶には誤認があったようです。

また、これも志ん生師匠の自伝ですが『なめくじ艦隊』の巻末の年表には祖父の出自について次のように書かれています。
「明治36年12月30日 養祖父釖四郎没。
(実祖父平四郎は嘉永4年10月27日没。養祖父釖四郎の父内藤甚左衛門は徳川家斉の代より幕府に仕え、大番、先手鉄砲頭、布衣寄合などを歴任したのち隠居、剃髪して如童と号したが、美濃部平四郎とは兄弟、もしくは義兄弟の関係であったと推定される)」

これによると、祖父釖四郎は父戍行の養父であり、実祖父は平四郎という人物で、釖四郎の父は内藤甚左衛門といい、釖四郎は内藤家から美濃部家へ養子に入ったことになります。

志ん生師匠の出自については『志ん生のいる風景』(矢野誠一著・文春文庫)でも触れられており、結城昌治が「週刊朝日」に連載した『志ん生一代』での考証を紹介していますが、結局そこでもはっきりとしたことは分かっていません。

ここからは志ん生師匠サイドからの情報を基に、旗本の家系調査で必須の『寛政重修諸家譜』と『寛政譜以降 旗本家百科事典』と照らし合わせ、遡っていきます。
まず、「釖四郎重行」「平四郎」「戍行」に該当する人物を『寛政重修諸家譜』『寛政譜以降 旗本家百科事典』で探しましたが出てきません。
『寛政重修諸家譜』第17巻には本姓菅原氏の項に美濃部氏15家が記載されています。その中で、還国寺を菩提寺とした家が以下となります。

本家 500石 美濃部茂盛家
分家 200俵 美濃部茂勝家(茂盛二男)
分家 200俵 美濃部忠茂家(茂勝二男)

禄高が志ん生師匠が語っていた3000石、2000石、800石とは全然違うのです。おそらく、志ん生師匠の父あたりが盛っていたのでしょう。

そこで、内藤甚左衛門に注目してみると、『寛政重修諸家譜』美濃部忠茂家の最後に宝暦期~寛政期の当主宗兵衛茂賈の養子に「内藤甚五兵衛忠安が三男」として「銕之丞茂高」が出てきます。
この内藤甚五兵衛忠安の家は『寛政重修諸家譜』第13巻藤原氏秀郷流内藤氏の中に内藤忠貫を祖とする家として記載があります。
しかし、「銕之丞茂高」=「釖四郎重行」とするには時代が合いません。
「釖四郎重行」の父甚左衛門は甚左衛門忠安の子甚之助忠榮の子忠房に該当するものと思われます。

ここで、また美濃部家に戻ると、美濃部忠茂家の幕末期の情報を『寛政譜以降 旗本家百科事典』でみてみると、「今回以降の記事なし」として記載がありません。同書で時折みられる、特定できなかったパターンです。

もう一度『寛政譜以降 旗本家百科事典』の全美濃部家を確認すると、[不明]欄に「美濃部初四郎」という人物が出てきます。「釖四郎」と似ています。よく見てみると、「当分茗荷谷御先手頭内藤甚左衛門方同居」と記載されています。これはもう「釖四郎」と同一人物で間違いありません。

だた、この[不明]欄の人物は『寛政重修諸家譜』の家との紐付けができない人物であるため、結局、「釖四郎」なり「平四郎」が「美濃部茂盛家」「美濃部茂勝家」「美濃部忠茂家」なのかよく分かりません。少なくとも分家ということであれば、「美濃部茂勝家」「美濃部忠茂家」になると思いますが、おそらくは「内藤甚五兵衛忠安が三男銕之丞茂高」が養子に入った「美濃部忠茂家」の家か、志ん生師匠が話している通り、祖父かその前に分家した家であったのではないかと思われます。
近親者で養子に入ったりすることはよくありますので、2世代ほど経って内藤家から再び養子を迎えたということなのかと思います。

あと気になった点としては美濃部氏族の諱は「茂」の字を通字としていますが、志ん生師匠の祖父・父は「行」の字を使っています。これは当時の将軍は「家茂」であったためこれを憚り「茂」の字を避けたものと思われます。

不明確な部分としては「釖四郎」と「平四郎」の関係、水道橋の屋敷、還国寺の高台にある墓は「美濃部茂盛家」なのか「美濃部茂勝家」なのか?といったことが残りました。現時点での私の考証はここで限界となりましたが、ここから先は、やはり志ん生師匠の研究者の方に追及して頂きたいものです。

志ん生師匠に限らずですが、幕末の旗本や、明治以降の幕臣の子孫と称する人物の家系を辿ると、必ず『寛政重修諸家譜』以降の空白地帯で行き詰まります。『寛政譜以降 旗本家百科事典』で埋められる場合もありますが、それでも不完全です。
ともかく、『寛政重修諸家譜』以降の家系を調べるってぇのはてーへんなことです。
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東京における土佐巡り

2019-02-05 00:00:39 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。12月の連休に東京の土佐巡りをした。

相棒の行きたいところに従い目黒から南麻布、品川から鮫洲・立会川を経て品川神社を暗くなるまで巡った。

途中、めぼしい史跡があらば土佐と無関係でも立ち寄った。清正公や大久保彦左衛門墓のある立行寺など。





最後は御殿山と長州藩士たちが英国公使館焼き討ち前の相談場にした土蔵相模。その間に流星忌参加者からの問合せに答えるなど目まぐるしい。昨年は最後の最後まで歴史尽くしだった。

夜は恵比寿にある溶ける餃子「安兵衛」へ行ったがあいにくいっぱいだったので近くの居酒屋へ。

その前にせごどん史跡[勝・西郷会見の地]碑へ。後藤象二郎の明治時代の屋敷があった新高輪プリンスで改修されたばかりのロビーの内装にも目を見張った。庭も素晴らしかった。

翌日、多磨霊園を回り土佐人士や徳富蘇峰、橋口壮介・柴山愛次郎などせごどん史跡も忘れず堪能した(=写真)。



夜は祝杯をあげ、自宅に招き鍋を突いた。冬はこれに限る。

最終日、一昨年ブログに載せた[旧多摩聖蹟記念館]へ。11月なら銀杏がきれいだったが、さすがにもうその影はない。だが、明治150年の貴重な展示を見学できたし(企画展は4月まで延長)、何よりも気になっていた三条実美の別荘対鴎荘の情報がいろいろあって面白かった。すでに解体されて久しいが、元々あった隅田川沿いの橋場から移転された経緯など充実したものだった。

征韓論政変で体調を崩した三条実美が療養した建物だっただけに、これもせごどん関連史跡と言えよう。元の場所に石碑が建っているというから機会があれば訪れたい。

三条は征韓論で板垣退助参議との絡みがあるし、幕末は土方久元や黒岩直方ら土佐藩士が三条ら五卿の九州滞在を支えている。

暮れゆく年を感じながら再び土佐への情熱にかきたてる貴重な休みとなった。

1月は事情があって毎週静岡にとんぼ返りする必要があり、20日は10年続けている詩吟の新年会があって、今年は夏に50周年記念大会や秋に昇段試験もあるのだが、年を重ねても活気あるメンバーに再び奮起の念を燃やしてもらえた気がした。
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