探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

間宮林蔵の故郷を行く

2017-04-17 00:37:17 | 会員の調査報告
会員のカネコです、
昨日は来月の深川巡墓会で解説する間宮林蔵の生誕地であるつくばみらい市上平柳へ行ってきました。
取手駅からバスで30分ほどの所にある上平柳。バス停を降りると田園風景が一面に広がっていました。



林蔵の生家に隣接して間宮林蔵記念館があり、林蔵の愛用品や蝦夷図、北蝦夷地図などが展示されており、林蔵の業績がよく理解できる内容になっています。





生家は小貝川の河畔に建っていたものを昭和46年(1971)に解体移築し、増改築されていたものを当時の状態に近づけて復元しています。

この記念館の近くにある浄土宗専称寺は間宮家の菩提寺で、林蔵が生前に建てた自身の墓や祖父母・両親の墓があります。



また、林蔵の子孫は幕臣になった家と上平柳の農家を継いだ2系統に分かれますが、上平柳の子孫の墓も墓地内にあり、間宮姓の墓も数家みられました。

林蔵は16歳の時に江戸に修行のために出府する際、隣村狸淵の名主飯沼甚兵衛の養子となっていますが、その飯沼甚兵衛の墓と供養塔も探してきました。
飯沼家の墓所は専称寺の近くにある浄土宗浄圓寺にありました。
古い墓碑が数基あり、[當所飯沼甚兵衛]と刻まれた立派の墓碑もありましたが、甚兵衛は襲名の名であるかも知れませんので、果たしてこれが林蔵の養父かどうかは確証がありません。

『伊奈町の歴史散歩』には甚兵衛の供養塔が狸淵の旧家長塚家の近くの墓地にあると書かれており、その場所も探しました。
浄圓寺から小貝川沿いの道を西北に進むとその墓地はあり、甚兵衛の供養塔がありました。

上平柳・狸淵は静かな農村地帯でしたが、この地から大きな志を抱き、一人の若者が旅立ち、大きな偉業を成し遂げたことを想うと感慨深いものがありました。
今回の調査に関しては巡墓会のレジュメに詳しく記載したいと思っています。

再びバスで30分かけ取手駅に戻ると、時間があったので、本多作左衛門重次の墓所、取手宿本陣染野家の菩提寺念仏院、取手図書館を巡りました。



取手図書館の2階には茨城県の郷土資料が豊富にあり、良い本とも出会えました。
4月にしては暑い一日でしたが、郷土に根付いた歴史を感じることができ、良い小旅行となりました。
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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」申込みフォーム
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間宮氏研究余滴-火盗改間宮友三郎光徳-

2017-04-01 00:07:11 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
ここ数回にわたり間宮林蔵の先祖と考えられる小田原北条氏家臣間宮氏一族について書きましたが、間宮氏一族の中からは火附盗賊改を勤めた人物がいます。

我々の師である釣洋一先生著『江戸刑事人名事典』には次のように書かれています。

間宮友三郎光徳
元文5年(1740)申歳生まれの光徳には、藤五郎、与五郎という二人の兄がいたが、二人とも早世したため、宝暦14年4月4日(1764・5・4)25歳で亡父光政の遺跡を継いだ。同月18日(5・18)浚明院殿(家治)に初めて謁す。
明和2年11月29日(1766・1・10)西城御書院番に列し、御徒頭に進んだ後、寛政9年12月23日(1798・2・8)御先手鉄砲頭に転じ、5年後に火附盗賊改加役を務めた。

この釣先生の本には間宮友三郎光徳について三田村鳶魚が「泥坊の話」に記述したことを載せています。これによると文化元年(1804)の3、4月頃盗賊の清吉という者が荒かせぎをしていて、なかなか捕まらず、その被害は6、7月に増えていき、火盗改であった、間宮友三郎は御免願を出したとあり、間宮友三郎光徳が清吉を捕らえられなかったことで火盗改を辞職したことになっています。
しかし、釣先生は間宮友三郎光徳は文化元年7月4日(1804・8・9)に現職中に死去解任されたことを指摘しています。
つまり三田村鳶魚が清吉を捕らえられなかったことで辞職したと言っているのは誤認ということになります。

同書には間宮友三郎光徳は東京都葛飾区堀切の妙源寺に合葬墓があると記されており、法名は観立院殿誰有日珠居士。墓碑の写真も掲載されています。

私は平成21年(2009)7月に妙源寺にある二本松藩儒から昌平黌教授となった安積艮斎の墓所を見に来た際に間宮家の墓所も確認しました。



正面中央に[妙法 顯了院殿法山日到居士]と刻まれています。『寛政譜』で照合すると光徳の父光政であることが分かります。その隣に刻まれている[卓曜院殿義峰日忠居士]は左側面の銘文から明治元年(1868)に死去した江戸期最後の当主光平であることが分かりました。

『寛政譜』によるとこの間宮家は笹下城主間宮豊前守信元の四男間宮監物信俊を祖としています。信俊は天正18年3月29日(1590・5・3)伊豆山中落城の際に兄康俊とともに討死にしたとあります。康俊は間宮林蔵の祖間宮隼人の父という説がある人物です。
信俊の長男源十郎も同じく戦死し、二男三郎右衛門光信が徳川家に仕え300石を賜り旗本となりました。妻は北条家の家臣江戸摂津守忠朝の女、後妻長谷川四郎兵衛重次の女とあります。
その後、正信-政重-政茂-光政と続き、友三郎光徳となります。
家紋は角四目結、五三の桐、三割桔梗とあります。

間宮一族を追跡する中で、火盗改となった人物を再発見し、改めて間宮氏族の幅広さを感じました。
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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
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