探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

2月20日 大杉栄 梅澤孫太郎の墓

2010-02-25 00:30:33 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

静岡での調査報告です。お恥ずかしい話ですが、この街で生まれ、歴史に興味を持ってから既に20年近くなるにもかかわらず、こんなに身近に有名な墓があることを最近まで知りませんでした。

関東大震災で処刑された無政府主義者といわれる大杉栄の墓(=写真)。



なんとコンクリート製です。場所は静岡市沓谷霊園にあり、園内西側の入口を入り緩やかな坂を昇り切った左手に山側を向いて立っています。傍らには荒畑寒村による黒く大きな説明碑がありました。

大杉は牢屋に入れられる度に新しい外国語を取得してくる人物として描かれていたのは、深作欣二監督の映画「華の乱」でした。1988年の邦画で、主役ではありませんが…

同所には一橋家用人で徳川慶喜の最側近 梅澤孫太郎の墓が園内ほぼ中央の位置にあります。150cmほどの高さの自然石で、山岡鉄舟書。

梅澤は静岡移住後も慶喜近くに仕えました。水戸藩国友尚之の三男で、会沢、藤田に学んだ典型的な水戸藩士でありながら天狗党を鎮静に行くなど苦しい立場を経験しました。

原市之進や平岡円四郎ら慶喜側近が相次いで殺害される中、幸にして命を全うできた人物です。文化14年1月1日(1817.2.16)生まれですから、年齢も高く、一目置かれていたのかもしれません。

余り知名度は高くありませんが、大河ドラマ「徳川慶喜」に出てきたことは既に12年も前とはいえ自分としては深く印象に残っています。明治14年(1881)5月20日没、享年65歳。

映像化される人物は、深く人口に膾炙するところとなるように思いますが、今回はそんなまとめ方をしてみました。
(葵区沓谷1-174)
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2月21日 高萩・笠間調査

2010-02-21 23:24:28 | 会員の調査報告
皆様、こんにちは。会員のクロサカです。
今日2月21日、祖父に車で茨城県高萩市と笠間市へ調査に出かけました。
自宅から車を走らせること約2時間で高萩ICから降りました。
ここから事前に調査済みの赤塚墓地を探し始めました。
しかし一向に墓地が見つかりません。
周辺の方々に聞くも要領を得ませんでした。
そこで最終手段としてある地域に聞き込みに出ました。
実は赤塚墓地は、水戸藩附家老であり、松岡藩主であった中山家家臣の墓地です。
ということで今でも家臣の子孫が多く住んでいらっしゃる武家屋敷街に行き、
こちらでの聞き込みは、成功し高萩IC近くにあることが分かったので移動しました。
墓地は広くもなく、狭くもなくと言ったところで多くの家臣団のお墓があり、
墓地内には、植物学者で小石川植物園初代園長松村任三のお墓もあります。
藩主である中山家の墓地は、家臣墓地とは別域にあり、
最後の藩主中山信徴夫妻と中山信實男爵夫妻、中山信守夫人と子女、
分家の墓地がありました。

その後笠間に向かいます。
こちらで訪ねた盛岸院は笠間藩主牧野家の菩提寺でこちらも一般墓地とは
別に牧野家墓地がありました。
本堂の右の庫裏の裏辺りの高台でした。
お寺の方によると、もともとは本堂裏にあったそうですが、
関東大震災で江戸の菩提寺である要津寺の墓地を改葬することになった際に
遺骨を盛岸院に移転合祀させ、別域に墓碑を造ったとのことでした。
牧野家歴代の墓には、『江戸大名墓総覧』によると明治以後の当主の分骨が、
合祀されているとのことでした。
その墓碑の裏には要津寺にあった初代藩主牧野成儀の墓碑が移転させられていました。

今日だけで華族家2家を調査出来たのでとても有意義な調査となりました。
写真は、盛岸院の牧野家の墓碑です。
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2月7日 祇園寺ふたたび

2010-02-18 21:49:46 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

水戸市八幡町にある祇園寺を昨年6月に引き続き訪ねました。

まず、朝比奈弥太郎の墓を特定。朝比奈家は元駿河今川の臣で代々弥太郎を名乗り、幕末における諸生党首領は弥太郎泰尚、明治元年10月6日(1868.11.19)息子靱負とともに千葉県八日市場で戦没。

この没年月日から朝比奈家墓地のいちばん奥の真ん中にある墓碑の左面に刻まれた日付が一致。正面に2つの戒名が刻まれ、右が「真性院円融智徳道光大居士」、左が「実明院真空浄相居士」となっています。

ここにある同家の墓碑を順繰りに見てくると代々「大居士」の法号が与えられていることから、この大居士を泰尚と判断できます。

泰尚は父泰然、泰然の実弟信徳は養子に行き、やはり諸生党幹部となった佐藤図書の父になります。

前回気づきませんでしたが、朝比奈家と隣り合わせにある墓(本堂側)は、桜田事変関与者・坂下事変襲撃者 木村権之衛門のもの。

そしていまひとつ確認できたのは、市川三左衛門弘美の墓が「倶に一処に会す」と刻まれた大正になって建てられた碑であること。

昨年訪れた際、最初は市川家上座中央にある墓碑が三左衛門のものではないかと思いました。しかしながら、その墓碑に「慶安」と刻まれていることから疑念を抱いたところ、この度やはり「慶安」に間違いないことが確認できました。

また、この墓と同じ位牌型の朝比奈家にある2対の墓碑がやはり慶安(1648~52)、延宝(1673~81)という同じ年代に建てられていることから、三左衛門のものではないという判断ができました。

白い看板を見ただけではどれがその墓なのか判りません。2度目でようやく確定できました。

しかし、考えてみれば水戸市による白木柱がこの2人の墓碑の傍らには建てられておりません。

寺独自のものなのか判りませんが、木村権之衛門らのように、同寺内に白木柱がある以上、この両者にそれがないことは、両者に対する復権の道はまだまだ遠いことがわかります。

それだけ天狗党対諸生党の対立構図は、今もなお怨念が消え去らないのでしょう。

市川、朝比奈両者の墓碑のある所には、ともに大きな杉の木が立っていて、この寺の中では何か象徴的な存在となっているような印象を受けるのは、筆者の思い過ごしでしょうか。
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2月7日 水戸市 神応寺 六地蔵寺

2010-02-16 22:14:36 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

梅の花咲く2月の水戸は、その寒さに比べ賑やかな雰囲気で私を迎えてくれました。

水戸の寺は余りないと以前書きましたが、調べてみると出て来る出て来る…というわけで、今回、神応寺と六地蔵寺を訪ねました。

水戸市元山町にある神応寺には、天狗党挙兵でおそらく最年長であろう山国兵部の墓があります(=写真中央)。寛政5年年(1793)生まれですから、敦賀で処刑されたのが数え歳73歳です。元治2年2月4日(1865.3.1)没。



通称喜八郎、諱は共昌。実弟に同じ天狗党挙兵の田丸稲之衛門直允がいます。

場所は本堂裏手、縦長の墓域の奥の方、鳥居のある赤い屋根のお堂の少し手前にあります。

例によって水戸市による白木柱が建ち、場所を教えてくれます。

山国家の墓は、兵部のほか合計12基と地蔵からなり、中心にある山国の墓碑には一千字を超える事績が芳野金陵の撰文により刻まれています。
お寺の話では神葬にしたため戒名はないとのこと。
また、本堂背後の無縁塔の傍らには水戸藩殉難慰霊碑が2対建っています。白く背の低い方の裏面に「山国兵部共昌七十三歳」ほか武田父子ら天狗党挙兵で処刑された人たちの名が刻まれています。余り知られていない史跡ではないでしょうか。

宗派は時宗、山号は藤沢山(元山町1-2)

もう一つの六地蔵寺は、水戸駅から東方3キロに位置する枝垂れ桜で有名な場所です。交通の便が悪く、大洗鹿島線「東水戸」駅からでも1キロはありますので気をつけましょう。

ここには水戸藩儒者 立原翠軒の墓があります。父蘭溪、息子杏所、孫春沙・朴二郎、翠軒・杏所それぞれの妻の墓もあります。

翠軒は、徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂が中断されていたのを江戸中期に復活させた人物ですが、不幸なことに弟子の藤田幽谷とその編纂方法をめぐって対立。
これが水戸藩政争の端緒となってしまいました。

それでも小宮山楓軒、青山延于など著名な学者となる弟子を育てたことは翠軒の大きな功績です。

また同寺には、明治になって『大日本史』を完成させたといわれる栗田寛の墓があるとのことでしたが、栗田家の墓域に栗田姓の墓碑が実に多く、日没間際ということもあって、確認できたのは小宮山楓軒撰、立原杏所書からなる栗田干載という人物の墓のみでした。

宗派は真言宗豊山派、山号は倶胝密山、院号は聖宝院(六反田767)
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関宿調査

2010-02-15 00:18:15 | 会員の調査報告
カワチです。

幕末の関宿藩士といわれている清水小十郎について調べに、千葉県立関宿博物館に行ってきました 。

関宿城博物館は、東武野田線川間駅からバスで30分ほど行った、利根川と江戸川の分流点のスーパー堤防の上にあります。 
記録に残る関宿城の姿を再現した立派な外観で、河川とそれにかかわる産業に関する展示が非常に充実していました。

清水小十郎は、幕末の剣豪千葉定吉の三女・幾久の夫といわれています。 
幾久との間に産まれた長男・勇太郎は、幾久の姉・佐那の養子となっていわれています。
慶応四年、関宿藩の藩論は恭順に決し、それを不服とする約百名の藩士が脱藩したといわれています。 
彼らは万字隊を結成し、彰義隊と合流して上野戦争を戦っていますが、清水も参加したといわれています。
維新後は小間物屋を経営しますがうまくいかず、西南戦争が勃発すると巡査となって出征し、戦後自刃したといわれています。
明治初年の警視庁を調べている私にとって、以前より気になっている人物でした。

しかし、上記した経歴はすべて著名な歴史小説家である阿井景子先生の「龍馬のもう一人の妻」に書かれていることで、史料から見つけ出したことではありません。
当然、歴史と歴史小説は別物です。しかし阿井景子先生は執筆の際に綿密な歴史調査を行われる先生で、拙著「侍たちの警視庁」でも檜垣直枝・楢崎健吉を書くときには先生の作品を参考にさせていただきました。先生の作品に出てくる檜垣や楢崎の設定は、史実に忠実であるという確認も取れました。
 
そこでこのたび清水小十郎という人物の史実を知りたく、博物館に寄贈されている「関宿藩士人名録(塚本家文書)」を見せてもらいにいきました。
お願いして人名録を見せていただけたことで、関宿藩には清水姓は一家しかないことがわかりましたが、小十郎という名前は載っていませんでした。
人名録により、幕末の関宿藩には清水耕蔵という人物がいたことがわかりました。
清水耕蔵という人物は脱藩しており、その点は阿井景子先生の書かれている小十郎の経歴とも一致しているのですが、関係についてはわかりませんでした 。
これでは「侍たちの警視庁」の続編に清水小十郎を取り上げるわけにはいきません。残念でした。

関宿城博物館からニキロほどの場所にある実相寺には、藩士の墓が多数あると博物館の方から聞いたのですが、日が暮れてしまったので今回は諦めました。
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