探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

8月27日 菅野覚兵衛の墓 (南麻布 光林寺)

2010-08-29 01:05:02 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

海援隊に所属した千屋寅之助、または千頭義郎こと菅野覚兵衛の墓が、広尾からちょっくし仏大使館側へ入ったところにあります。都営バス「光林寺前」の目の前です。

近代的な駐車場を入っていくと一変、江戸時代にタイムスリップしたかのやうな錯覚に陥ります。「慈眼山」の青字による扁額が掲げられた山門をくぐると線香の臭いが立ち込めてきます。

本堂にお祈りを捧げ墓域へ行きました。本堂左手を奥へ進み右手の弁理公使平井君墓をすぎて左手、焼却炉の前に本堂側を向いて菅野家之墓ほか二基があり、真ん中に「海軍少佐従六位勲五等菅野覚兵衛墓」があります。(=写真)



左面には「天保十三年十一月二十三日生(1842.12.24)明治二十六年(1893)五月三十日卒、享年五十二」と書かれています。

右面には「高知県土佐国安芸郡和食村士族(現在、芸西村和食)、故有り福島県に転籍」と刻まれていて、出身などがわかります。

その左には妻「菅野起美之墓」が、この人は楢崎将作の末娘で君江ともいい、坂本鞆こと龍の実妹です。(=写真)



「義光院泰操貞心大姉」と右面に戒名が刻まれ、昭和九年(1934)九月二十日没。建立者は「昭和十三年三月和智初児、石丸都技」と左面にあります。

この光林寺はヒュースケンの墓が有名ですが、ほかにも昨年会員のカネコさんによるレポートがありますので、そちらもご参照ください。

10月4日 白金・麻布・広尾調査

光林寺 臨済宗妙心寺派 慈眼山(港区南麻布4-11-25)
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興国寺墓地の調査(鹿児島市)

2010-08-20 19:05:43 | 会員の調査報告
 久保でございます。
 よろしくお願いします。

 2009年9月に鹿児島市の興国寺墓地に調査に参りました。

 ここには、高崎崩れでお馴染みの高崎五郎右衛門の墓と、
 幕末の薩摩藩家老新納駿河の墓があります。

 鹿児島市は、廃仏毀釈に関連して巨大墓地が多いです。
 管理事務所があるところもあるのですが、ないところも多く、
 後者の場合、自力で探すのはちょっと大変です。

 事前に、鹿児島市に住む友人に、墓地の下調べをお願いしました。
 その結果、「墓地は存在し、墓石群が見えるが入口がどこにあるのか
 わからない」との事。
 まぁ、実際に行けばなんとかなるだろう、と当日へ。

 さて当日。友人の車にて、墓地のそばへ。
 すると、高台にある墓地が見えました。

 「あ、墓地だ。あそこか」と思うも、車が入る道はもちろん
 人が入る道も見当たらない。

 交通量もそこそこあったので、車を止めることもできず。
 一度通過して、ぐるっと回って再度同じところへ。

 もしかして、墓地の上に入口があるのかな・・・しかし、
 この上に出るのも、どうやっていいのか・・・と心配しながら
 車中から目をこらしていると、車1台がようやく通ることができる
 道を発見。狭いけど、入ってしまえ!!!と勢いよく入ると、
 無事、墓地の入口下の階段にたどり着きました。

 ここから階段を上ります。



 身分の高い人の墓は上の方にある、と地元の方に教えていただき、
 ひたすら登りました。



高崎五郎右衛門の墓です。

高崎正風が建てました。


新納駿河の墓は、まだ上にありました。



新納の墓は、草むらの中にあり、墓碑にたどりつく
道がありません。草を押しわけたどりつきました。

ネット上では、彼らの墓はここにあると記述されていますが
画像はどこにもありませんでした。無事に墓碑が確認できて
良かったです。


長々と駄文を失礼いたしました。
今後とも、ご指導いただきますようお願いいたします。


 

 

 

 
 
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西行南游日記 PART-Ⅲ《丸亀駅前》8月11日

2010-08-13 19:28:33 | 会員の調査報告
また性懲りもなく夏休みを土佐へ行った会員のカトケンです。

さすがに土佐の夏は墓が山の中にあるため危険地帯--図書館へ篭って未刊行史資料の筆写に勤しみました。

あちらはちょうど祭りの季節。前夜祭の鏡川花火大会を間近に見物、翌日は1日中よさこい節が街に流れていて、貴重な体験ができました。

調べ物もそこそこに今回のターゲットは、汽車にての帰途、丸亀に下車。土肥大作・七助兄弟と矢野市之進の墓(いずれも丸亀藩)を訪ねることでした。

まず土肥兄弟の墓は駅から1,2分の法音寺にあります。駅を出て204号線を丸亀城方面に向かい、右手にある本照寺の手前を右折すると寺の入口が見えてきます。

鯱がついて年季の入った山門をくぐると奥に100坪ほどの墓域が待っています。土肥家の墓はほぼ中央にあり、南向きに建っていました。

昭和に大作の養孫によって建てられた兄弟墓の傍らにある大作の墓である「新治県参事土肥君墓」はなんとも趣がありました。(=写真右)



坂本龍馬没後、長岡謙吉率いる新海援隊が土佐藩の命を受けて瀬戸内海から高松藩征討の目的で四国に上陸。丸亀藩に協力を求めるため土肥大作を訪ねてきます。

生前の坂本から何らかの指示があったのでしょうか。

それというのも、今回の目的であるもう一人、矢野市之進敬勝のところへ文久初年に坂本が剣術修業名目で訪れ、1ヶ月ほど滞在しています。

当時、丸亀城下鷹匠町(現在は城西町二丁目)にある矢野宅の2軒隣りに土肥の家があり、なんらかの交流があったのではないかとされています。

このとき坂本は記録上、生涯最初の写真を撮りました。このとき一緒に映っている相手が矢野市之進なのです。

矢野の墓は、丸亀駅から予讃線沿いを高松方面に5分ほど行った専念寺にあります。

城北小学校に接している2つのお寺の1つで、門を入ると右手に法音寺の半分くらいの広さの墓域があり、所狹しと墓石がひしめく中に松の木の左側に線路側を向いて目的の墓が建っていました。(=写真)



若き日の坂本と没後の坂本が丸亀藩士を通じて浮かび上がる不思議なスポットです。同人研究のエアポケットになっているとも言えましょう。

ちなみに土肥大作の弟七助は、長州の赤根武人の許へ旧桑名藩南合哲三郎や鳥取藩士らとともに亡命した人物です。

なお、最初は法音寺の場所がわからず、丸亀市立資料館の方にお尋ねしたところ、展示も見ずに聞きたいことだけ聞いてしまったにもかかわらず、大変親切に教えていただきました。この場を借りて感謝申し上げます。

さすがに一般の方に「土肥大作の墓は何処ですか?」と聞くわけにもいかず、寺の名を間違って記憶していたのを訂正までしていただいたことも手伝って、わずか2時間半余りの同地滞在が大変貴重なものとなりました。

参考文献:『共同研究坂本龍馬』(新人物往来社)

法音寺は浄土宗西山派、海徳山、摂取院。
(香川県丸亀市本町)

専念寺は浄土真宗本願寺派。
(香川県丸亀市瓦町)
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7月3,4日 京都・奈良・滋賀調査

2010-08-05 20:10:19 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
去る7月3日、4日と京都・奈良・滋賀を調査してきました。
大雨が降りしきるなかで調査でしたが、いろいろなお寺を調査してきました。
多くの電化製品が被害に遭いましたが(笑)

初日の3日には、小野駅近くの正源寺墓地にて三宮義胤男爵と夫人、父母、三宮周六男爵以降のみを発見。
石山駅からほど近い石山寺を観光拝観後少し離れた石山寺の墓地にて当寺の住職家である
鷲尾光遍男爵以降の墓地を調査。左は鷲尾家歴代。右は鷲尾光遍男爵。
 
そして京都の要法寺にて梅園子爵家と外山子爵家の墓地を再調査。
外山家は以前外山光輔子爵以降の合祀墓のみしか発見出来ていませんでしたが今回他の江戸期の墓も発見に成功しました。

4日には、奈良県で法隆寺裏にある中宮寺宮墓地と隣にある中宮寺一般墓地に調査に出向きました。
殆ど時間が無い中でしたが中宮寺墓地で天誅組のメンバーの一人で平岡鳩平と名乗っていた
北畠治房男爵を発見に成功しました。
この墓碑は、長年探し続けていたので感動も一入でした。
墓碑は全部で6基で後方側に北畠治房の夫妻合祀墓がありました。
この墓碑のうち1基は分家の北畠秀雄家の墓碑です。

この後急いで帰ったので気づきませんでしたが真裏に平松子爵家の分家である平松時冬家の
墓碑があることをカネコさんに教えて頂きました。
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