探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

7月23日 感応寺―静岡にある幕臣の墓

2011-07-31 18:38:26 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

久しぶりなり山沢の遊び(陶淵明)…否、大変ごぶさたしてしまいました。

ここのところ、掃苔は続けているのですが、なかなか記事になるようなネタが見つからなかったため、投稿していませんでした。

静岡市内の幕臣の墓--小弟はゆかりのお寺を訪ねるのが好きで、帰省の日課になっています。

今回は、徳川家康の側室お万の方(養珠院)が得度したと伝えられ、また同人が東照大権現百日法要を営んだといわれる感応寺を訪ねました。

ここにある幕臣の主な墓は、次の通り。

○小栗下総守尚三(徳川慶喜家扶)=写真
中村藩主相馬氏の三男で幕臣小栗家の養子に。京都町奉行などを歴任。



明治初年に日野の人たちが新選組の近藤勇・土方歳三のために「殉節両雄之碑」を建立すべく、徳川慶喜公に篆額への揮毫をお願いしたときに慶喜公側の窓口になったのがこの人物。

ご存知のとおり、慶喜公は落涙するばかりで結局、会津中将松平容保が引き受けました。

文化十三年二月二十九日(1816・3・27)出生~明治三十二年(1899)八月十七日没。法名:要徳院殿尚孝日淳居士(墓碑左面)。背の低い墓碑右面に略歴が刻まれています。豊子夫人は至徳院殿妙孝日要大姉、明治十八年(1885)五月十四日没。

裏面には「明治三十二年(1899)十一月嗣子倉三郎建之」とあり、倉三郎は養子で嫡子綱太郎政良は明治十八年に没しているので、あとで養子をとったのでしょう。

○幸田藤吾継寛(慶応二年遊撃隊)=写真



新通小学校通り側、壁に面しており、墓碑の傍らに燈籠が建っているため、見つけやすかったです。

幕府瓦解後、旅館経営で静岡市より功労が認められた人物。

天保十三年(1842)出生~大正七年(1918)九月二十三日没。

○蜂屋啓之丞定憲(慶応二年奥詰銃隊)=写真



新通り側壁沿い、やや壁に寄り添って建っています。

日照りのため右側面が読めず。天保十四年(1843)九月出生~明治二十六年(1893)六月二十八日没。

○宇都野源次郎正安(蜂屋定憲次男朝次郎養父・慶応二年奥詰銃隊)=写真



幸田継寛墓から一列本堂側に位置し、同墓と向かい合う形で建っています。

法名:実乗院正安日導居士(墓碑正面)、明治三十二年(1899)十月七日逝、俗名宇都野正安(墓碑左面)

かつて静岡に移住した幕臣研究の泰斗前田匡一郎先生から、この寺には山路愛山家の墓があったとのことで、ご案内いただいた際に本堂側に固められた無縁墓を点検してみましたが、それらしい墓碑はみつかりませんでした。



近代的な造りでコンパクトな本堂(=写真)に比して由緒深いこの寺は、宗派が浄土宗、山号が常住山。
(葵区駒形通1-5-5)

参考文献:前田匡一郎『駿遠へ移住した徳川家臣団』第五編・羽衣出版
コメント (6)
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上高田寺院調査

2011-07-18 22:21:09 | 会員の調査報告

会員のカネコです。
今日は上高田の寺院を調査して来ました。
最近は多忙だったため、久々の調査となりました。

上高田へは何度か調査に来ています。
この辺りは寺院の密集地帯であり、特に大名や幕臣の墓が多く残っています。

青原寺、龍興寺、高徳寺、松源寺、功運寺、宝泉寺、自証院墓地を廻って、最後に保善寺を訪ねました。

ここには志摩鳥羽藩主稲垣家の墓がありますが、今回の目的は旗本小栗家の墓です。
小栗上野介忠順の墓は権田村東漸寺、さいたま市普門院、雑司ヶ谷霊園の3ヶ所にありますが、それ以前の小栗家はこの保善寺を菩提寺としていました。
上野介の先祖の墓がどうような状態になっているかを確認してきました。

このお寺は境内に幼稚園があるので、立ち入るには許可が入ります。
幸い、ご住職に対応して頂き、小栗家の墓まで案内してもらいました。
現在、小栗家のご子孫の墓参はないようで、上野介の両親の墓は無縁墓に集石されていました。


正面に[小栗家累代之墓]と刻まれており、その右に[忠院殿天心清鑑居士]、左に[鏡壽院殿長榮清久大姉]と上野介の両親の名が刻まれていました。
上野介の父忠高は新潟奉行在職中に没したため新潟にも墓所があります。

さらにご住職に案内して頂き、もう1基小栗家の墓を見ました。
小倉家の墓域内にある[小栗家累代之墓]と刻まれた唐破風型の墓碑でした。
この小倉家は大阪の財界で活躍された家とのことでしたが、ご住職も小栗家との関係は分からないとのことでした。裏面には[昭和五年八月位置替改葬 小倉清之助執行]と刻まれていました。
墓石の格式から小栗家の当主の墓を使用したと思われますので、ここに小栗家歴代が葬られていると思い、持参した花を供えてきました。
この小倉家と小栗家の関係については今後の調査課題になりそうです。

コメント (2)
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