探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

漫画版 幕末・維新人物伝 榎本武揚、本日刊行!

2021-05-19 23:30:18 | 日記
会員のカトケンです。

拙共著『探墓巡礼ー谷中編』(出版舎風狂童子)刊行時に函館で様々なところに宣伝してくれた平沼さんから、この程ご友人の漫画家が書かれた『コミック版日本の歴史78 幕末・維新人物伝 榎本武揚』が本日刊行されたと連絡があった。



幕末・維新人物伝 榎本武揚

作画の瀧玲子さんは、平沼さんのご紹介で榎本家にうかがって現当主隆充さんから武揚に関することを聞いてきたのだとか。

刊行したポプラ社のホームページで立ち読みすると、日ごろ隆充さんが口癖のようにおっしゃっている兄が鍋太郎、弟が釜次郎(武揚)が早速出てきて、伊能忠敬の弟子であった父円兵衛が兄弟に命名した由来が描かれている。

箱館戦争だけでは榎本像を理解できないし、箱館戦争以前の榎本の生い立ちから様々な場所での修養時代まで知ることができる。江川塾でジョン万次郎に英語を習ったり、学友に大鳥圭介がいたり。また、箱館奉行堀利熙に従った蝦夷行も触れられている。

さらに目次を見ると明治政府出仕後も触れられているようである。

榎本の伝記は元来極端に少ないから、少年時代、取っ掛かりに赤木駿介『榎本武揚ー物語と史跡を訪ねて』(成美堂出版)を読んだとき、明治の榎本が描かれておらず物足りなさを感じたことだった。

明治時代がどのように描かれているか楽しみである。

最近では、北海道大学大学院で榎本の研究をされている武藤三代平さんが明治政府に出仕した榎本について論文を書かれていることをインターネットで知った。

釣洋一先生の営まれていた春廼舎があったころ、榎本隆充さんがまだ大学生だった武藤さんを連れて来られて何度かお話ししたことが思い起こされる。

榎本が昌平黌、長崎海軍伝習所、さらに留学生となりオランダに学んだことは知られていても、明治政府でどのような地位に置かれていたか研究自体が少ないから、伝記化・論文化はとても貴重なものと思う。

ドラマ化にしても、日テレの年末時代劇スペシャル『五稜郭』で主役榎本を里見浩太朗が、安部公房『榎本武揚』を劇場で永島敏行が演じたり、NHKで江守徹扮する黒田清隆が主役のドラマ(ジェームス三木脚本)でささきいさおが榎本を演じていたことが記憶に残るくらいだ。

このNHKドラマは小弟が大学の時で、同級生の涌井さんがビデオに録画し、ゼミの指導教官だった福地惇先生にお渡ししたら、日ごろゼミで明治政府高官の書簡などを輪読をしていたため、当時の高官たちの雰囲気がよく描かれているとの感想がもたらされたことが懐かしく思い出される。中でも、なべおさみ扮する伊藤博文がそっくりだったと先生から披露された時には皆で大笑いしたことだった。

話が逸れてしまったが、この今回榎本が描かれたコミック版日本の歴史シリーズは子供向けに製作しているものの、他の原作者にうかがったところでは、いくらか反応があり、100頁あって大人でも十分読み応えがあるのではないかとのことだった。

ご興味ある方は、老若男女を問わずぜひご一読ください!!

最後に昨夏榎本が晩年を過ごした向島を訪ね歩いた時に撮った鐘ヶ淵榎本武揚像(=写真)を掲げておこう。



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青山霊園今橋権助墓

2021-05-17 23:31:17 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

土佐勤王党で幕末に仲間を斬つた罪で揚屋入り、維新を迎へ晴れて娑婆に出た今橋権助といふ人物の墓が特定できたご報告。

青山霊園2種イ10号70側北向きに高田家之墓があり、その敷地内に茶色い[今橋家之墓]がある(=写真)。



側面に[巌 明治二十二年(1889)一月十八日没]と刻まれてゐる。巌は権助の明治以降の名前。まさかと思つたが、『高知県人名事典 新版』には[明治32年(1899)1月18日没]と書かれてゐて、没した年は違へど月日は同じだから間違ひなからうけれども、10年違ひなのが気になつて何とも煮え切らない思ひをしてゐた。

それがこの程部屋の片づけをしてゐたら、今橋の死亡記事を引用してゐる『須崎市史』のコピーが出てきて、没年の[明治二十二年]が正しいことが分かつた。

卒論を書くときにーーテーマは古勤王党から国民派へと言つて、土佐勤王党の生き残りの明治を追ひかけたものーー大概大学図書館の郷土コーナーに高知県内の市町村史が所蔵されてゐたのだが、『須崎市史』と『野市町史』(野市町は現在香南市)だけ所蔵が無くて、しかもこの2冊が古勤王党を取り上げるには重要だつたため、仕方がなく高知県立図書館(現在は市民図書館と一緒になり場所も移りオーテピアとなつてゐる)まで自転車に乗つて借りに行つたのだつた。

その時、テッキリ『須崎市史』はコピーしてゐないものとばかり思つてゐたので、意外だつた。しかもこの記述が今回確定する決め手となつたから尚更有難かつた。

そこには簡単な家系図が記され、息子と孫の名前が明記されてをり、単なる同姓同名でないことが分かつて没年月日の一致を見た。しかも、東京で亡くなつたことまで書かれてゐる。

東京で亡くなつたからといつて、当てずつぽうで墓探しをして青山霊園だとか谷中霊園だとか、さうさう当たるものぢやない。一地方のどちらかといふと郷土人物に位置づけられる者の墓に青山で出くはすとは何たる偶然かそれとも必然か。

ともあれ、この今橋権助こと巌といふ人物の功績は、明治10年(1877)に板垣退助ら立志社と対立する古勤王党も西南戦争に呼応して挙兵しようと企てるのだが、それを高知県西部に位置する高岡郡で完全に阻止して見せたことだ。

これには中央政府の佐佐木高行司法大輔の激励が一役買つてゐたし、派遣された土佐出身の陸軍軍人北村重頼が立志社の調達した武器を一気に取り上げたことの側面支援にもなつてゐる。

高知県は今にも挙兵せんとする危険な状態で、大阪に来た政府要人の暗殺まで企てゝゐたのだから、実現してゐたら相当歴史がひつくり返つてゐたことだらう。

それだけたつた10年足らずの明治政府に物申す、或いは転覆してやるといふ批判が大きかつたわけで、そこで捕まつた立志社幹部や同志は数年の獄中生活を送つて、再び娑婆に出た後に議員や閣僚を務めた者もゐる。

土佐の人物だけでなく、陸奥宗光もゐたことを考えるとこのとき大物たちが受けた大打撃がより一層分かるし、反対に阻止した側の貢献度がいかに重要か推して知るべしといふものだ。

これを私はよく警察が事件を未然に阻止したときに例へる。つまり、事件になつてゐたら損失は計り知れないけれど、事件を阻止した側は余り評価されない、寧ろ不当に評価されないでゐると思つてしまふ。

いかに何も起こさせない、未然に防ぐことにより事件や戦争に巻き込まれなくて済んだわけだから、阻止した側はもつと評価されて良いのではないか。お巡りさんの役割は報はれないなと感じてしまふ。

皆さんはどう思はれるだらうか。

佐佐木高行が明治6年末(1873)に板垣退助らが政府を辞めて一斉に土佐に帰つたとき暴発が起きないか常に気を配り、時には古勤王党を阻止陣営にあの手この手で味方に引き入れようとする、いはゞそれが奏功して見事高知県が焦土と化すのを免れたわけである。

かういふ歴史の陰になつてゐる部分を取り上げれば少し違つた見方ができるのではないか。実はこの辺を卒論以降の論文第2段にしようとして、既に20年以上の月日が経つてしまつた、何とも情けないお話。
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