会員のカネコです。
7月の上旬に文京区立森鴎外記念館で開催されているコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」を見てきました。
鴎外には二人の弟篤次郎と潤三郎がおり、共に学問の世界に生きました。
特に鴎外と17歳年が離れた潤三郎は考証学者として歴史学・書誌学の分野で活躍し、鴎外を陰から支えました。
私はかねてから、森潤三郎を探墓巡礼顕彰会の偉大なる先輩だと思っていました。
潤三郎は人物を調べるに当たり、墓を探し、墓碑銘を書き起こし、さらに子孫を探すという方法を行っており、我々が行っている方法論を既に確立していました。
鴎外の後期の作品である『澁江抽齋』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』あたりの史伝シリーズではこの墓碑調査や子孫探しがよく出てきますが、これはやはり潤三郎の力によるものが大きく、潤三郎なくして鴎外後期の作品の輝きはなかったものだと思います。
国立国会図書館サーチで森潤三郎を検索すると、様々な書籍や論文が出てきます。
特に『紅葉山文庫と書物奉行』『多紀氏の事蹟』あたりは当時、いや今もですが、あまり取り上げられることがない書物奉行や多紀氏を取り上げ、やはりここでも詳細な墓碑調査を行っています。
我々の中ではおなじみの『掃苔』では「現存する町奉行の墓」を連載し、大正・昭和初期まで現存し、現在失われてしまった墓の貴重な情報を得ることが出来ます(但し、釣洋一先生が指摘した矢部定謙の墓碑の戒名に誤字があり、誤字脱字等があることは前提としなければなりません)。
他に国会図書館には蔵書がないのですが、『鳥居忠耀事蹟』という本もあり大変興味深いものがあります。
私がとても驚いたのは『今昔』(3)11に掲載された「竹垣三右衛門の碑文」を読んだ時です。
竹垣直温の墓碑は菩提寺である愛宕青松寺かその塔頭の清岸院にあるはずでしたが、現在は不明となっています。
以前、その調査の経緯は当ブログに書きました。
中町奉行丹羽遠江守長守とその子孫達
潤三郎の記事によると、直温の墓は確かに愛宕青松寺にあり、関東大震災で倒壊してしまい、当時の様子も書かれています。その後、どうなったかは不明ですが、少なくとも関東大震災の直後までは倒壊しながらもその墓があることが分かり、これは大変貴重な記録であると思いました。
潤三郎の遺した業績を見る度に、現場に行き、記録を採ることの意義や、人物研究のための墓碑調査の重要性などを改めて再確認させられます。
展示品の中には鴎外が大正天皇の即位式に京都へ行った際に潤三郎と一緒に京都の墓巡りをする様子が分かるもののもあり、微笑ましくなりました。また、三兄弟の母が雑誌に子育て論を求められ、「ただ育ち放題に致しておきました」と言い、それぞれが勉強して学問の道に進んだと話していて、この記事も大変興味深かったです。
久々に常設展も見ましたが、7月は鴎外の命日とあって、いつもはレプリカで展示されている「遺言書」のオリジナルが展示されていました。
あの「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」を見る度に、男の生涯にとって死に様こそが生き様だとつくづく思います。
このコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」は10月1日(日)まで開催されています。
残りわずかですが、ご興味がありましたら行かれてみてはと思います。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ申込みフォーム
7月の上旬に文京区立森鴎外記念館で開催されているコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」を見てきました。
鴎外には二人の弟篤次郎と潤三郎がおり、共に学問の世界に生きました。
特に鴎外と17歳年が離れた潤三郎は考証学者として歴史学・書誌学の分野で活躍し、鴎外を陰から支えました。
私はかねてから、森潤三郎を探墓巡礼顕彰会の偉大なる先輩だと思っていました。
潤三郎は人物を調べるに当たり、墓を探し、墓碑銘を書き起こし、さらに子孫を探すという方法を行っており、我々が行っている方法論を既に確立していました。
鴎外の後期の作品である『澁江抽齋』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』あたりの史伝シリーズではこの墓碑調査や子孫探しがよく出てきますが、これはやはり潤三郎の力によるものが大きく、潤三郎なくして鴎外後期の作品の輝きはなかったものだと思います。
国立国会図書館サーチで森潤三郎を検索すると、様々な書籍や論文が出てきます。
特に『紅葉山文庫と書物奉行』『多紀氏の事蹟』あたりは当時、いや今もですが、あまり取り上げられることがない書物奉行や多紀氏を取り上げ、やはりここでも詳細な墓碑調査を行っています。
我々の中ではおなじみの『掃苔』では「現存する町奉行の墓」を連載し、大正・昭和初期まで現存し、現在失われてしまった墓の貴重な情報を得ることが出来ます(但し、釣洋一先生が指摘した矢部定謙の墓碑の戒名に誤字があり、誤字脱字等があることは前提としなければなりません)。
他に国会図書館には蔵書がないのですが、『鳥居忠耀事蹟』という本もあり大変興味深いものがあります。
私がとても驚いたのは『今昔』(3)11に掲載された「竹垣三右衛門の碑文」を読んだ時です。
竹垣直温の墓碑は菩提寺である愛宕青松寺かその塔頭の清岸院にあるはずでしたが、現在は不明となっています。
以前、その調査の経緯は当ブログに書きました。
中町奉行丹羽遠江守長守とその子孫達
潤三郎の記事によると、直温の墓は確かに愛宕青松寺にあり、関東大震災で倒壊してしまい、当時の様子も書かれています。その後、どうなったかは不明ですが、少なくとも関東大震災の直後までは倒壊しながらもその墓があることが分かり、これは大変貴重な記録であると思いました。
潤三郎の遺した業績を見る度に、現場に行き、記録を採ることの意義や、人物研究のための墓碑調査の重要性などを改めて再確認させられます。
展示品の中には鴎外が大正天皇の即位式に京都へ行った際に潤三郎と一緒に京都の墓巡りをする様子が分かるもののもあり、微笑ましくなりました。また、三兄弟の母が雑誌に子育て論を求められ、「ただ育ち放題に致しておきました」と言い、それぞれが勉強して学問の道に進んだと話していて、この記事も大変興味深かったです。
久々に常設展も見ましたが、7月は鴎外の命日とあって、いつもはレプリカで展示されている「遺言書」のオリジナルが展示されていました。
あの「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」を見る度に、男の生涯にとって死に様こそが生き様だとつくづく思います。
このコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」は10月1日(日)まで開催されています。
残りわずかですが、ご興味がありましたら行かれてみてはと思います。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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