探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

森鴎外記念館で「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」展を見る

2017-09-24 15:55:34 | 会合報告
会員のカネコです。
7月の上旬に文京区立森鴎外記念館で開催されているコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」を見てきました。







鴎外には二人の弟篤次郎と潤三郎がおり、共に学問の世界に生きました。
特に鴎外と17歳年が離れた潤三郎は考証学者として歴史学・書誌学の分野で活躍し、鴎外を陰から支えました。

私はかねてから、森潤三郎を探墓巡礼顕彰会の偉大なる先輩だと思っていました。
潤三郎は人物を調べるに当たり、墓を探し、墓碑銘を書き起こし、さらに子孫を探すという方法を行っており、我々が行っている方法論を既に確立していました。

鴎外の後期の作品である『澁江抽齋』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』あたりの史伝シリーズではこの墓碑調査や子孫探しがよく出てきますが、これはやはり潤三郎の力によるものが大きく、潤三郎なくして鴎外後期の作品の輝きはなかったものだと思います。

国立国会図書館サーチで森潤三郎を検索すると、様々な書籍や論文が出てきます。
特に『紅葉山文庫と書物奉行』『多紀氏の事蹟』あたりは当時、いや今もですが、あまり取り上げられることがない書物奉行や多紀氏を取り上げ、やはりここでも詳細な墓碑調査を行っています。

我々の中ではおなじみの『掃苔』では「現存する町奉行の墓」を連載し、大正・昭和初期まで現存し、現在失われてしまった墓の貴重な情報を得ることが出来ます(但し、釣洋一先生が指摘した矢部定謙の墓碑の戒名に誤字があり、誤字脱字等があることは前提としなければなりません)。
他に国会図書館には蔵書がないのですが、『鳥居忠耀事蹟』という本もあり大変興味深いものがあります。

私がとても驚いたのは『今昔』(3)11に掲載された「竹垣三右衛門の碑文」を読んだ時です。
竹垣直温の墓碑は菩提寺である愛宕青松寺かその塔頭の清岸院にあるはずでしたが、現在は不明となっています。
以前、その調査の経緯は当ブログに書きました。

中町奉行丹羽遠江守長守とその子孫達

潤三郎の記事によると、直温の墓は確かに愛宕青松寺にあり、関東大震災で倒壊してしまい、当時の様子も書かれています。その後、どうなったかは不明ですが、少なくとも関東大震災の直後までは倒壊しながらもその墓があることが分かり、これは大変貴重な記録であると思いました。

潤三郎の遺した業績を見る度に、現場に行き、記録を採ることの意義や、人物研究のための墓碑調査の重要性などを改めて再確認させられます。

展示品の中には鴎外が大正天皇の即位式に京都へ行った際に潤三郎と一緒に京都の墓巡りをする様子が分かるもののもあり、微笑ましくなりました。また、三兄弟の母が雑誌に子育て論を求められ、「ただ育ち放題に致しておきました」と言い、それぞれが勉強して学問の道に進んだと話していて、この記事も大変興味深かったです。

久々に常設展も見ましたが、7月は鴎外の命日とあって、いつもはレプリカで展示されている「遺言書」のオリジナルが展示されていました。
あの「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」を見る度に、男の生涯にとって死に様こそが生き様だとつくづく思います。

このコレクション展「森家三兄弟―鴎外と二人の弟」は10月1日(日)まで開催されています。
残りわずかですが、ご興味がありましたら行かれてみてはと思います。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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9月18日 港区光林寺調査

2017-09-19 11:06:59 | 会員の調査報告

会員のクロサカです。
強烈な台風が三連休に直撃したため、あまり行動できませんでしたが、最終日の月曜日に軽い調査をしてきました。

場所は何度か訪れている港区麻布にある光林寺です。
ここには対馬宗家や高鍋秋月家、岩村松平家など多くの大名墓、旗本加藤家(大洲藩分家)、旗本松浦家の旗本墓が林立し、明治以降になると丸亀と多度津京極子爵家、古河男爵家といった華族墓も増えてきます。でも一番の著名人はヒュースケンでしょうか。
これらはすべて調査済みですが、今回は新たに見つけた、または再訪した墓を紹介します。
この光林寺に関する記事は以前に幹事のカネコさん、カトケンさんも書かれていますので合わせてご覧下さい。
10月4日 白金・麻布・広尾調査

8月27日 菅野覚兵衛の墓 (南麻布 光林寺)




まずは伊東善平夫妻です。
墓碑側面に「長嵜縣平民」とありますが、大日本帝国憲法の草案を作った伊東巳代治伯爵の両親の墓です。同所には巳代治の七男七郎の墓もありました。
巳代治の墓は、明大前にある和田堀廟所にありますが、宗派の異なる光林寺(臨済宗)になぜ墓があるのかは不明です。
ただし伊東家墓地の周辺には「釋」という浄土真宗に多くみられる戒名が入った墓碑がありましたので、どこからか移転してきたものかもしれません。



続いて高台にある納骨堂に合祀されている尚旦夫妻です。
これは以前、同幹事のカネコさんに教えてもらい、2度目の来訪になりました。
尚旦は、琉球藩王尚泰(のちに侯爵)の三男として生まれ、分家しています。
尚泰と兄尚典は宗家のため那覇玉陵、甥で侯爵を継いだ尚昌のみ上野桜木町津梁院墓地に墓があります。



朝吹誠はザ・フィンガーズで活躍したバンドマンです。
このフィンガーズに所属していた成毛滋はのちにザ・グループサウンズで活躍しています。
この朝吹誠の曾祖父は朝吹英二といい、三井四天王の1人に数えられ、三井財閥の隆盛に貢献しています。祖父の常吉も三越社長を務めました。
朝吹家は華麗なる一族といっても過言ではなく、福澤諭吉の福澤家、ノーベル賞の野依家、長岡外史の長岡家、中上川彦次郎の中上川家、山本権兵衛の山本家、園田孝吉の園田家、尾崎三良の尾崎家、公家東園家、石井光次郎の石井家などと縁戚関係があります。

この日は蚊も多くて両腕をたくさん刺されましたが、いい調査ができました。

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先祖への旅~国立公文書館~

2017-09-14 23:22:37 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

久しぶりの先祖探索。気になっていたのは先祖の史料で活字になっていないもの。
我が先祖加藤筑後守が慶応4年(1868)箱根へ警衛に行っていることだ。

竹橋の文書館で明細短冊(=写真。旗本の分限帳に当たるもの)は活字になっているものの、箱根御用については翻刻されていない。



次のとおり読んでみたが、皆さんはどう読むか。

可達趣(表紙)

多賀上総介
駿府表為御警衛被差遣
同本御警衛之儀、御任せ
相成居候処、御都合も有之
候間、加藤筑後守并砲兵
歩兵隊附属役々共引揚
箱根近傍御警衛右兵隊□
被 仰付候間、其方ニも大
久保加賀守申合実備行届候様
可被致候事
加藤筑後守
同文兵? 御任せ文□除之





筑後守は歩兵頭並。多賀上総介は歩兵頭である。箱根の警備を任されたものの、何の都合にやあらん、引き揚げを命ぜられ、別の?兵隊が警備することとなったので、その隊長たる大久保加賀守へよろしく引き継ぎ願うと
小弟は解釈してみた。

徳川実紀にも軍艦にて駿府表へ遣わされ候なる記述があるが、これが将軍東帰の後なのか、富士山艦の戻った後なのかによってどの軍艦に乗って駿府に向かったのか気になるところ。

これが開陽丸であったなら、子孫の会に入れるのにと今はその資格があるか否かハッキリしないことを楽しみながら史料を探している。

それにしても、東京市史稿の講武所を読んだら、筑後守叙任前の忠左衛門が将軍に降嫁される親子様の護衛として、仲間50名とともに京を発し、中仙道を通って江戸まで来ていたことが分かり驚いたことも報告しておかなければと、この記事を書いている。

この週末静岡に帰り、様々な宿題に取り組みたい。時には友人とグラスを傾けながら。。。
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小石川、千駄ヶ谷、雑司ヶ谷

2017-09-10 01:04:17 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

先週、先儒墓地の後訪れた場所とともに、昨日の訪問先も報告したい。

まずは鷹匠町にあった高橋泥舟・山岡鉄舟・大久保昌次郎寓居跡へ(=写真)。



高橋・山岡までは解説にあるが、大久保までは誰も指摘しない。高橋の叔父で義弟と知ってか知らずか。だから、ここは親類三家が並んで住んでいたことになる。

今ではこの辺は播磨坂の桜が春に咲いてきれいだそうで。

次に極楽水を確認し、久しぶりの宗慶寺。例の茶阿局の墓あり。
小弟はやはり野口勝一の記念碑が好きである。

そこから通ったことのない伝通院の裏側を下っていき、小川笙船宅跡へ(=写真)。ここから小石川養生所へ通っていたことが偲ばれる。



何処かで見たことがあると思ったら、以前伝通院巡墓会が終わって、今の山門から降りてきた場所だった。ここは昔の伝通院の裏門通りに当たる。

そうすると、昔の山門は今の春日通りの辺りにあったということにならうか。

その日は外国奉行 堀織部正の墓のある源覚寺に寄られなかったが、また次の楽しみにとっておこう。真砂図書館で少し調べものをして帰った。

昨日は柴野栗山撰文の墓のある千駄ヶ谷瑞圓寺へ。本堂右手にある大きな「故一橋府儒員沖(正しくは中の下に皿)齋先生久保仲通墓」(=写真)



この人も栗山同様讃岐の人である。
これは高松の続き。現地で丁重にご案内いただいた先生の宿題の確認だ。

早速報告の手紙を書かねばならないが、写真がフイルムだけにいつ出来上がるか。な~んて、結局スマホで撮ってもプリントの仕方が解らないだけであるのだが。

高松でお話しした内容を思い出しながら手紙の文面から書き出そう。いろんな場所をめぐっていただいたお礼として。

そして締めくくりはずいぶんご無沙汰した雑司ヶ谷霊園。副都心線ができたお陰で「北参道」から一本で行けるのだ(雑司ヶ谷下車)。

探したいものはあるのだが、やはり思い入れのある場所ばかり訪れてしまう。小川笙船はもちろんのこと、坂崎紫瀾、岩瀬忠震、小栗上野介。

道路沿いにある土岐家之墓の墓誌を初めて見た。かなり詳しく刻まれている。これもいずれ先祖研究の一環とならう。やや家紋が本当に桔梗かと疑いたくなるものだったが。横に一柳家の墓があったのも何かの縁かもしれない。

今日は成島柳北家の墓を集中調査。やはり、解読困難なくずし字(ひらがな)と闘う破目になったがそれも一興。墓に刻まれた字句を整理して残しておきたいものだ。

夢中になって蚊には刺されるは、汗だくになるはで散々な目に遭いながら、それでも良い汗をかいたと池袋駅までの道を軽やかに、帰途についた。

ただ一つ、以前クロサカ幹事に教わった無量院から移した墓群のエリアといわれる場所が見つからなかったのは悔しいが、これも次回の宿題としやう。
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いよいよこれからが新学期!

2017-09-07 00:20:29 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。土曜は常連客Mさんと日暮里で飲むことにしていたので、約束の時間ギリギリまで谷中を廻った。

いつもの千駄木で降り、三崎坂を昇っていく。谷中にも外国人観光客が増えてきたようだ。「圓朝まつり」の幟がはたはたと音をたてていたので、もしやと期待して全生庵をのぞいたら、すでに前日に寄席が終了していた。掲示板をこまめにチェックしていればよかったと悔やむ。

気を取り直して豆大福なんぞ食らいながら電車で調べてきた谷中霊園の第一目的地へ。

幕臣小花作助の墓。小笠原開拓の先駆者で明治政府でも引き続き小笠原に携わった人物。

よく来ていた界隈からやや壁寄りだったため今まで気づかなかったのだろう。東京都による看板も立っていた。(乙3号3側)

ここまで来たらと昨年麟祥院の巡墓会オフ会にて両親の墓とともに紹介した杉浦愛蔵家の墓が、なんと更地になっていたーーこれも悔やまれて仕方ないが、紹介しておいて良かったと思った。(乙3号7側)

昨年の段階で、麟祥院の墓を御遺族が守られている形跡があったので、まだ麟祥院を確かめていないが、何処かお参りしやすい場所へ移したのかもしれない。

ここでも真の目的を忘れず、奥宮慥斎の墓がかつて草茫茫だったのがきれいにされていることに気づきつつ、乙5号3側を目指す。

慶喜公のかかりつけ医師石川良信の墓だ(=写真)。ぐるぐる廻ったあげくようやく見つけるが、高松凌雲や土佐の松岡毅軒の背中合せだった。この人も幕府時代のみならず、墓碑にあるとおり「陸軍軍医監」として明治でも活躍した。高松で追いかけてきた柏原学而の師でもある。仙台の人。桜所とも称する。



慶喜公の墓とやや離れてはいるが、臨める位置に立っているのは偶然ではなかろう。

ここに来たついでにと訪れたのは、この秋「大圓寺・豪徳寺巡墓会」で御案内する大圓寺の勘定奉行土方勝政に関連して、その息子浦賀奉行土方雲山の墓に寄る。読むのに難儀する墓碑だ。(乙9号2側)

そこから五重塔跡の公園南側にある林研海の墓などを見て引き揚げた。

その後待ち合わせ場所へ行き、一献傾けながら歴史談義に花が咲いたことは言うまでもない。

日曜はかつて一度も訪れたことのない大塚先儒墓所に足を運んだ。柴野栗山の故郷高松に行きながら、墓を訪ねていなかった。

ここは吹上稲荷神社で鍵を借りないと入れない。さすがにこの時期は蚊が多く、草も脛の高さまで生い茂り、見たい墓碑に限って蜘蛛の巣が張られ難儀したが、室鳩巣・木下順庵・尾藤二洲・古賀精里。そしてようやくにして栗山柴野彦輔(=写真)



これでようやく夏休み完結です!やはり、シコクは志國と云ふべし!

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