探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

石黒忠悳とその父の墓

2012-02-07 23:52:16 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
11月に開催された谷中霊園巡墓会(後篇)で解説させて頂いた人物に石黒忠悳がいます。
石黒忠悳は3代目の陸軍軍医総監ですが、森鴎外との確執の話しなどから、あまり人気が無い人物かと思います。私が石黒忠悳に興味を持ったのは3年前、本屋でふとある本を見つけたことによります。岩波文庫の青帯のコーナーを眺めていると『懐旧九十年 石黒忠悳著』という背表紙が目に入りました。随分とシブい本を復刊するものだと思い、そのままなんとなく購入しました。読み始めてみるとなかなか面白く、忠悳が生涯で出会った人々、川路聖謨、佐久間象山、松本良順、西郷隆盛、山県有朋、後藤新平、大倉喜八郎、三遊亭円朝、中江兆民、李鴻章など幕末維新を彩った様々な人物のことが語られていました。もちろん回顧録なので、自分の記憶を美化している部分もあるでしょうが、信念を持って幕末から昭和を生きた男の生涯には打たれるものがありました。また、若い時分に亡くした両親への思いなどはやはり普遍的なものだと思いました。

そういった事があって、谷中霊園巡墓会では石黒忠悳を取り上げることにしました。
『懐旧九十年』には忠悳の父平野良忠、母いねは本国である越後片貝村池津真福寺に葬り、良忠の灰の一部を浅草新寺町吉祥院に埋葬したとありました。
父平野良忠は元々越後の石黒氏の出ですが、江戸に出て幕府役人の平野家の養子となりました。一人息子の忠悳は父の没後、越後の石黒家を継ぐことになり、平野家は絶えてしまったことになります。
そこで、谷中霊園巡墓会の前に浅草新寺町吉祥院に現在でもその墓があるのかを確かめに行きました。

寺務所を訪れると若い御住職が対応してくれました。
御住職のご好意で過去帳を調べて頂き、内容を写したものを頂きました。
それによれば、昭和二年四月十日 谷中霊園に改葬されたとありました。
谷中霊園の石黒家の墓には右側面に[昭和二年三月 石黒忠悳立之]とありますので、忠悳が谷中霊園に石黒家の墓を新設した翌月に合葬した事が分かりました。



良忠の法名は[教阿義本信士]とありました。
『懐旧九十年』には折々に早く亡くした父の事が回顧されています。忠悳は父の教えを守り、生涯酒と煙草は嗜まなかったそうです。
父と死別して70年以上が経っていた昭和2年。この時、忠悳は何を思ったのでしょうか。
今、良忠と忠悳は同じ墓に眠っています。そのことを教えて頂いた吉祥院の御住職様に改めて感謝致します。
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佐藤尚中実父の墓

2012-02-06 21:57:07 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
11月に開催された谷中霊園巡墓会(後篇)では私が東京順天堂の創設者佐藤尚中の解説をさせて頂きました。5月の前篇の時には尚中の養父で佐倉順天堂の創設者佐藤泰然の解説もしました。佐藤一族には松本良順、林菫、林研海、榎本武揚など魅力的な人物が大勢います。

私がこの佐藤一族に興味を持ったのは88年に放送された日本テレビ年末時代劇スペシャル『五稜郭』を見てからです。主人公は榎本武揚(里見浩太郎)なのですが、妻の祖父である佐藤泰然(森繁久弥)など佐藤家の人達が大勢出て、物語の重要な部分を担います。最後の方では佐藤泰然が木戸孝允に榎本達の助命嘆願を直談判しに行くというオマケもありました。

年末時代劇スペシャル「五稜郭」番宣


尚中は何故か出てきませんでしたが、それ以来、私は都内近郊の佐藤家の人々の墓所を訪ねて廻りましたが、昨年の春に訪れた佐倉順天堂記念館で、学芸員の方に紹介された『順天堂史』の中に尚中の実父山口甫僊の墓所の所在が記されているのを見つけて、谷中霊園巡墓会(後篇)の前の10月22日に訪れることにしました。

尚中の実父山口甫僊は下総小見川藩の藩医であり、墓所は千葉県小見川の善光寺にあります。
小見川へは私の住んでいた川崎から電車で3時間程かかります。
この日は午前10時前に家を出ました。その直前まで大雨が降っていましたが、午後は晴れるという予報でしたので、そんなに気にせずに成田まで着きました。しかしそこで大雨の影響で銚子線が50分遅れているというアナウンスが入りました。銚子線は昼間の時間帯は1時間に1本程度のローカル線です。仕方なく50分待つことにして、その間に数年ぶりに成田山新勝寺を参詣しました。
結局1時間遅れで電車が発車し、小見川に着いたのは午後3時前でした。家を出て5時間経っていましいた。
気を取り直して、まずは本願寺で小見川藩主内田正学夫人の墓を見ました。

そして、甫僊の墓がある善光寺近くにある佐藤尚中生誕の地へ行きました。
この地は甫僊の屋敷があった所で現在は公園になっています。
公園内には[大學大丞大博士 大典醫贈従五位 佐藤尚中先生誕生地]と刻まれた石碑と産湯の井戸がありました。



そして善光寺へ。
本堂の左側の墓地には歌舞伎役者松本幸四郎の墓があり、山口家の墓所は本堂の左前側の墓域にあります。
山口家歴代の墓が並ぶ墓域の真ん中に甫僊の墓がありました。



正面には[廣濟院行江醫隠老機居士 淑陽院□練松巖妙遊清大姉]と甫僊夫婦の法名が刻まれ、右側面には次のような撰文が刻まれていました。

先生諱絅字尚絅號?江漁長稱甫僊常
陸北城東平君長子出□下総山口氏以
醫為業兼善書法吟詩嘉永三年庚戊正
月十六日病終享年六十二

甫僊は元々潮来の北城家の出身です。
佐倉順天堂記念館の学芸員の方にご教示頂いたのですが、尚中以降も佐藤家は養子によって継承されて行きますが、実際はこの北城家の縁者との姻戚関係によって繋がっているとのことでした。記念館より頂いた系図を基に様々資料から佐藤家の系図を作ると泰然の血筋は松本家・林家に受け継がれ、佐藤本家は尚中を中心に実家の山口・北城家の縁者によって形成されていることが分かりました。この系図は巡墓会にて配布いたしました。

機会があれば潮来の北城家の墓所、京都にある尚中実子百太郎の墓所、泰然の父藤佐の出身地である山形の遊佐升川町へも行って見たいと思っています。
コメント (2)
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全国歴史研究会新年会

2012-02-04 23:34:09 | イベント
会員のカネコです。
今日は五反田東興ホテルで開催された全国歴史研究会新年会へ出席しました。
この新年会には3年連続で出席しており、恒例行事となりつつあります。
新年会は13:30から開始され、来賓、出席者の紹介があり、当会でもお世話になっている吉成主幹からの挨拶がありました。



今年の歴研全国大会が白河で行われるということもあり、大会事務局長の安司さんより挨拶がありました。安司さんには当会メンバーもお世話になっています。
この白河大会の名誉顧問には白河藩主阿部家22代ご当主阿部正靖さんが委嘱され、委嘱式が行われました。



阿部さんには昨年の史遊会青山霊園巡墓会で初めてお会いしてから色々とお世話になっています。

この後は講演会で、まずは今年の全国大会にちなみ松尾光先生による『奥州白河の古代』が講演されました。
歌に詠まれた白河や、古代白河を中心とした奥州の部民の構成、郡家と関所といった内容で、詳細なレジュメを頂きました。私としては最近、姓や家系に興味があったので、部民の話に興味を持ちました。現在の福島県一帯には阿倍臣氏の部民が数多く分布していたことが分かりました。江戸後期に白河を治めたのが、阿部家だったというのも偶然ではない何かを感じました。
その次ぎは昨年に続いて実演が行われました。昨年は髪結いでしたが、今年は鉄砲隊です。
「松江城姉さま鉄砲隊」の本間恵美子隊長と栗田隊士、矢野隊士による火縄銃の演武が行われました。とは言え、屋内ですので発砲はありませんでした。





実際はこんな感じです。

松江城鉄砲隊演舞


実際の鉄砲隊の演武は火薬を使うこともあり、警察からの制約が多く苦労も多いそうです。武者行列などに参加するのもNGとのことです。
現在、松江城の鉄砲隊は17名の隊員がいて、その中の7名が女性ということでした。来年の大河ドラマの主人公山本八重の話にも触れられました。
会場にいた皆さんはこの鉄砲隊に興味津々で、熱心に質疑応答をしていました。

この新年会では歴研のイベントや出版物のチラシが配られますが、当会主催の青山霊園巡墓会の告知チラシも配布して頂きました。今年もまた多くの方にご参加して頂きたいと思っております。
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品川宿の寺々

2012-02-02 22:42:10 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
12月に川崎から北品川に引っ越しました。
北品川は旧東海道の宿場、品川宿があった所で、今でもその名残を感じさせる所があります。
北品川といってもそのエリアは広く1~2丁目が旧宿場町で庶民的な町。3~6丁目は御殿山と呼ばれるエリアになっていて、高級住宅地が建ち並ぶ町になっています。
御殿山方面には東海寺とその子院など格式の高い寺院があり、そこには肥後熊本藩主細川家や豊前中津藩主奥平家などの大名家の墓が多く建てられています。
また、東海寺大山墓地には東海寺を開いた沢庵宗彭はじめ、賀茂真淵・渋川春海(写真)・服部南郭・本居内遠などの学者や井上勝・米田虎雄といった華族家の墓など名墓が数多く存在しています。渋川春海については今年、映画になるそうで、この墓を訪れる人も増えるかも知れません。



一方、北品川1~2丁目から南品川にかけての旧東海道沿いにも数多くの寺院が建ち並んでいますが、そこには宿場町の商家をはじめとする庶民達の墓があります。
私は以前、東海寺周辺の大名・旗本・華族・学者達の墓を巡ったことがありましたが、旧東海道沿いの寺々にはあまり行ったことがありませんでした。
引っ越しが少し落ち着いたお正月にその寺々を巡りました。

旧東海道沿いの寺院の中でも規模が大きいのは南品川2丁目にある天妙国寺です。
ここには伊藤一刀斎、「斬られ与三郎」のモデルとなった芳村伊三郎、浪曲師の桃中軒雲右衛門といった著名人の墓があり、まずはそれらの墓を巡りました。
墓地の左最奥には旗本羽太家の墓域があります。
歴代当主の墓は夫婦の法名が刻まれ、その上に代数が刻まれていました。
後年建てられた墓碑には初代勘兵衛正弘以来の法名が刻まれていました。
この家は『寛政譜』によれば甲府宰相綱重の家臣となった後、家宣が将軍になった際に旗本となった旨が記されていました。
墓地中程にも羽太家の墓がもう1基あり、[羽太家累世之墓]と刻まれた合葬墓となっています。右側面の碑文によれば、先の羽太家同様、甲府宰相家の家臣より旗本となった羽太正平家の墓のようです。

南品川4丁目の本光寺は特に前情報が無くぶらりと立ち寄ったのですが、旗本らしき古い墓碑を見つけたので、碑文を見てみると鎌倉時代の武将佐原十郎左衛門尉義連の名があり、その後は三浦作右衛門を世襲する人物達の名が刻まれていました。相模の三浦氏の流れを汲む人物が遠祖の名を刻んだものでしょう。
施主は阿部了翁正義、佐原作右衛門義虎と刻まれていましたが、『寛政譜』に佐原作右衛門義虎の名を見出すことは出来ませんでした。
碑文が摩耗して読み取れない部分があったので、また近いうちに調査したいと思います。

本光寺の向かいにある海蔵寺は映画『幕末太陽傳』のラストシーンに出てくる墓地のモデルと言われています。ここは「投げ込み寺」と言われ、品川宿の遊女達が葬られた寺です。
昨年末から『幕末太陽傳』のデジタル修復版が上映されたこともあり、現在、旧東海道の商店街には下のようなタペストリーが飾られています。



本光寺から第一京浜を挟んで向かい側にある妙蓮寺は丸橋忠弥の墓があることで知られています。
さらに第一京浜を品川駅方面に向かうと品川神社本殿裏側に板垣退助の墓があります。この墓は元々東海寺の塔頭高源寺の敷地となっていましたが、高源寺が関東大震災後に世田谷烏山へ移転した後も残り、品川神社の境内地として残ったものです。

さらに南品川を立会川方面に向かうと岩倉具視、松平慶永などの墓がることで知られる海晏寺(非公開)や山内容堂の墓がある下総山などがあります。
これからも合間を見つけて、一つ一つの寺院を巡って新しい発見をして行きたいと思います。
コメント (3)
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