会員のカトケンです。6月20日、元麻布にある浄土宗大向山三光院 専称寺にて毎年恒例の総司忌がありました。
普段は公開されていない新撰組沖田総司の墓を拝める年に1度のチャンスです。
早速行ってみると墓域の塀伝いに墓参の行列ができていました。境内へ入るのは実に20年ぶりです。
沖田の墓もさることながら、総司の墓碑の左側に建つ沖田芳次郎の墓。
(=写真)
総司の実姉ミツの嫡男で、新徴組三村伊賀右衛門の切腹をわずか14歳で介錯した人物です。
三村の息子将太郎は、芳次郎の妹久満を娶ることが決まっていたため、伊賀右衛門は芳次郎の義理おじ--そのため、この切腹劇を子母澤寛が「をぢ様お手が」というタイトルの短編にしています。(『剣客物語』所収)
--伊賀右衛門は芳次郎が介錯するに際し「ここだぞ」と首に手を当てたところが、どういうわけか手が離れない。そこで伊賀右衛門は「手も一緒に切れ!」と言い放って芳次郎は見事介錯を成功させた--と、こんな内容であります。
芳次郎の没年月日は明治二十八年(1895)一月二十六日、法号は徳輔院宗賢謙譲居士、東京府士族勲八等、行年四十三歳と墓碑の右側に刻まれています。
建之は左面に刻まれた長男重治によることがわかります。
さて、総司の墓と背中合わせに建っている「笹原家之墓」という墓碑があります。実はこの墓は出羽長瀞藩士笹原嘉門家のもので、その息 熊作は総司を看取った植木屋平五郎の娘とうと結婚しています。(=写真)
さらにもうひとつ笹原家の墓を2、3列後ろへ行くと新徴組三宅捨五郎の小さな墓碑が建っています。(=写真)
三宅は永井備前守の臣三宅仙左衛門の息子。どのようないきさつかわかりませんが、沖田家の過去帳にこの人物の名前が載っていることは、釣洋一先生の『新選組再掘記』により確認できます。
碑面によると慶応二年五月二十九日(1866.7.11)没、法号勇進院顕誉励猛居士。総司が京都にいた時分ですから、新徴組で義兄林太郎との関係からこの寺に葬られたのではないかと推測できます。
いずれにせよ、総司に関わる事柄は、いつも雲をつかむようではっきりとしたことがわかりません。それが故に歴史探究の途は険しく、また興味が尽きないわけです。
(港区元麻布3-1-37)
普段は公開されていない新撰組沖田総司の墓を拝める年に1度のチャンスです。
早速行ってみると墓域の塀伝いに墓参の行列ができていました。境内へ入るのは実に20年ぶりです。
沖田の墓もさることながら、総司の墓碑の左側に建つ沖田芳次郎の墓。
(=写真)
総司の実姉ミツの嫡男で、新徴組三村伊賀右衛門の切腹をわずか14歳で介錯した人物です。
三村の息子将太郎は、芳次郎の妹久満を娶ることが決まっていたため、伊賀右衛門は芳次郎の義理おじ--そのため、この切腹劇を子母澤寛が「をぢ様お手が」というタイトルの短編にしています。(『剣客物語』所収)
--伊賀右衛門は芳次郎が介錯するに際し「ここだぞ」と首に手を当てたところが、どういうわけか手が離れない。そこで伊賀右衛門は「手も一緒に切れ!」と言い放って芳次郎は見事介錯を成功させた--と、こんな内容であります。
芳次郎の没年月日は明治二十八年(1895)一月二十六日、法号は徳輔院宗賢謙譲居士、東京府士族勲八等、行年四十三歳と墓碑の右側に刻まれています。
建之は左面に刻まれた長男重治によることがわかります。
さて、総司の墓と背中合わせに建っている「笹原家之墓」という墓碑があります。実はこの墓は出羽長瀞藩士笹原嘉門家のもので、その息 熊作は総司を看取った植木屋平五郎の娘とうと結婚しています。(=写真)
さらにもうひとつ笹原家の墓を2、3列後ろへ行くと新徴組三宅捨五郎の小さな墓碑が建っています。(=写真)
三宅は永井備前守の臣三宅仙左衛門の息子。どのようないきさつかわかりませんが、沖田家の過去帳にこの人物の名前が載っていることは、釣洋一先生の『新選組再掘記』により確認できます。
碑面によると慶応二年五月二十九日(1866.7.11)没、法号勇進院顕誉励猛居士。総司が京都にいた時分ですから、新徴組で義兄林太郎との関係からこの寺に葬られたのではないかと推測できます。
いずれにせよ、総司に関わる事柄は、いつも雲をつかむようではっきりとしたことがわかりません。それが故に歴史探究の途は険しく、また興味が尽きないわけです。
(港区元麻布3-1-37)