探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

6月20日 沖田総司の菩提寺

2010-06-29 23:41:54 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。6月20日、元麻布にある浄土宗大向山三光院 専称寺にて毎年恒例の総司忌がありました。

普段は公開されていない新撰組沖田総司の墓を拝める年に1度のチャンスです。

早速行ってみると墓域の塀伝いに墓参の行列ができていました。境内へ入るのは実に20年ぶりです。

沖田の墓もさることながら、総司の墓碑の左側に建つ沖田芳次郎の墓。
(=写真)



総司の実姉ミツの嫡男で、新徴組三村伊賀右衛門の切腹をわずか14歳で介錯した人物です。

三村の息子将太郎は、芳次郎の妹久満を娶ることが決まっていたため、伊賀右衛門は芳次郎の義理おじ--そのため、この切腹劇を子母澤寛が「をぢ様お手が」というタイトルの短編にしています。(『剣客物語』所収)

--伊賀右衛門は芳次郎が介錯するに際し「ここだぞ」と首に手を当てたところが、どういうわけか手が離れない。そこで伊賀右衛門は「手も一緒に切れ!」と言い放って芳次郎は見事介錯を成功させた--と、こんな内容であります。

芳次郎の没年月日は明治二十八年(1895)一月二十六日、法号は徳輔院宗賢謙譲居士、東京府士族勲八等、行年四十三歳と墓碑の右側に刻まれています。

建之は左面に刻まれた長男重治によることがわかります。

さて、総司の墓と背中合わせに建っている「笹原家之墓」という墓碑があります。実はこの墓は出羽長瀞藩士笹原嘉門家のもので、その息 熊作は総司を看取った植木屋平五郎の娘とうと結婚しています。(=写真)



さらにもうひとつ笹原家の墓を2、3列後ろへ行くと新徴組三宅捨五郎の小さな墓碑が建っています。(=写真)



三宅は永井備前守の臣三宅仙左衛門の息子。どのようないきさつかわかりませんが、沖田家の過去帳にこの人物の名前が載っていることは、釣洋一先生の『新選組再掘記』により確認できます。

碑面によると慶応二年五月二十九日(1866.7.11)没、法号勇進院顕誉励猛居士。総司が京都にいた時分ですから、新徴組で義兄林太郎との関係からこの寺に葬られたのではないかと推測できます。

いずれにせよ、総司に関わる事柄は、いつも雲をつかむようではっきりとしたことがわかりません。それが故に歴史探究の途は険しく、また興味が尽きないわけです。
(港区元麻布3-1-37)
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5月4日 江東区調査

2010-06-28 01:16:07 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
5月4日は江東区の寺院を調査しました。
奇しくも森重さんが下記の書き込みをした頃に行っていました。

黒駒勝蔵の墓について

まず白河の霊巌寺に行きました。
ここには松平定信はじめ大名家数家の墓があるため、過去数回来たことがありましたが、今回は大名家以外の墓碑も含め再調査しました。
伊勢桑名藩主松平家(写真)、摂津尼崎藩主松平家、伊予今治藩主松平家、越後高田藩主榊原家、近江膳所藩主本多家、伊勢神戸藩主本多家、丹後峯山藩主京極家の大名墓は松平定信の墓域とは別の一般墓地の壁際に並んでいます。



その他には書家永井素岳、桑名藩士森陳明、福井藩士松田東吉郎、旗本松平外記の墓を見ました。

霊巌寺から道を挟んで反対側の雄松院では芭蕉門人の俳人度会園女の墓を見ました。

霊巌寺正面入口の向かい側にある長専院では越後高田藩主榊原政倫の墓(写真)を見ました。これは霊巌寺にあった旧石を移したもののようです。



平野には寺院が密集している区域があって、それらの数軒の寺院の墓地が固まってあります。
玉泉院墓地では画家橋本雅邦(写真)、第6代横綱阿武松緑之助の墓を見ました。



本立院墓地では間宮林蔵の養子鉄次郎以降の間宮家の墓を見ました。
間宮林蔵の墓は近くに別域にあります。

浄心寺では宇和島藩主伊達家の子女墓、旗本小堀家、茶人小堀蓬雪、工学者梶島二郎の墓を見ました。

深川の心行寺では周防岩国藩主吉川家の子女墓、仙台藩医工藤平助の墓を見ました。

増林寺では書家・武芸家三井親和、奥医師石坂宗哲の墓を見ました。
この増林寺には勝海舟の従兄弟で剣豪の男谷精一郎が葬られた寺であり、正面に[男谷家之墓]と刻まれている墓が精一郎の墓とする資料も見られます。しかしながら、精一郎の墓はこの寺には現存していないという事も聞かれるため確認しに行きました。側面には[舊幕臣男谷直中二男男谷銑二郎]と刻まれており、同じ幕臣でも精一郎とは別の系統であることが分かりました。
ちなみに精一郎の子忠友の墓は谷中霊園にありますが、その墓域には精一郎の墓はありません。
コメント (8)
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5月22日 岩槻調査

2010-06-25 01:24:23 | 会員の調査報告
会員のカネコです。

5月22日(土) は岩槻市内を調査しました。
岩槻藩は高力家、青山家、阿部家、板倉家、戸田家、松平(藤井)家、小笠原家、永井家、大岡家と藩主が目まぐるしく替わった藩でもあり、その中の数家の墓が市内の寺院にあります。

まず、芳林寺で戦国期の城主太田氏資の墓を見ました。
右隣には最近建てられた太田道灌の供養塔もあります。
氏資墓の左側には高力清長の子正長の墓があります。
双方とも同型の覆堂が建てられています。
境内はよく整備されていて、道灌の騎馬像や氏資像もありました。

浄安寺では阿部家の墓(写真)を見ました。



初代正次、3代定高、殉死した家臣小倉政光、少し離れて、定高生母の墓があります。大名家にふさわしい。大きな五輪塔と宝篋印塔でした。
正次の墓は先に書きましたが芝安蓮社にもあります。

浄安寺では高力清長、松平忠輝の子徳松丸とその生母竹の局、藩校遷喬館を開いた儒学者児玉南柯の墓を見ました。高力家と松平家は並んで建立されていました。江戸初期の墓らしく小じんまりとした墓碑でした。

最後は竜門寺で大岡家の墓を見ました。
初代忠光(写真)、[大岡子爵家之墓]と刻まれた合祀墓、子女墓2基がありました。



墓域には入れませんが、墓域を囲むように拝観道があるので、碑銘を確認することが出来ました。忠光の墓は正面に[得祥院殿義山天忠大居士]左側面に[武州岩槻城主從四品前雲州太守大岡氏藤原忠光之墓]と刻まれていました。
他には自由民権運動家の後藤富哉、岩槻藩士で維新後に医家となった丸山家の墓などを見ました。

岩槻は小藩でしたが、現在でも城下町の雰囲気を大切にしていてとてもいい街だと思いました。
コメント (2)
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釣洋一先生の喜寿を祝う会

2010-06-24 22:35:47 | イベント
会員のカネコです。

6月19日(土)、当会の会長釣洋一先生の喜寿を祝う会がアルカディア市ヶ谷にて開かれました。

釣先生のこれまでの人生は波瀾万丈でした。
若い時は北海道で日活の支配人などをしていましたが、30代で新選組に目覚めデビュー作『新選組再堀記』を出したのは38歳の時でした。その後も職を転々としながら新選組を追求する旅を続け、数々の著書を出されました。
他にも近年では鬼平で知られる火付盗賊改の研究や、暦の研究でも名を挙げています。特に鬼平に関しては今年で17回を迎える鬼平忌を主催しており、今週27日に開催されます。

鬼平忌

先生の大きな功績は新選組の末端の隊士に至まで詳細に子孫の行方や墓を調査した事で、それまでの文献重視の研究方法とは違ったアプローチはその後の研究者に大きな影響を与えました。

そんな釣先生が今年の6月19日の誕生日で喜寿を迎えられました。
この日は100人近くの人がお祝いに駆けつけました。
当会のカトケンさん、カワチさんも同席しました。

挨拶では新人物往来社前社長大出先生、鬼平こと長谷川平蔵の本家のご子孫、写真師内田九一のご子孫、当会でも世話になっている古写真研究家の森重先生、京都旧前川邸の田野さんなどが壇上に立たれました。



天然理心流の演武もありました。



個人的には超フェイバリット時代劇である日テレ年末時代劇スペシャル『五稜郭』にも登場する古屋作左衛門(竜雷太が演じていました)のご子孫にご挨拶できたのも嬉しかったです。
また、新選組の墓碑研究で知られる大阪の久保先生ともお会いできたことも嬉しい出来事でした。

当会メンバーもお世話になっていて最近、日本左衛門についての著書を出された元刑事の富田先生のマッジクショーもありました。



最後に先生からの挨拶がありました。



この日あったワールカップにちなみ「サッカーの嫌いな作家です」という挨拶から始まりました。
面白かったのが今まで「有言実行」と言うより「公言実行」で生きていたというお話しです。色んな人に公言して自分を追い込むことで色んなことを達成してきたという事でした。一人でコツコツと努力するのは苦手だという事でした。
何かその事に共感を覚えました。
期限とかゴールがないと人間楽な方に向かってしまうものです。
先生が初めて作品を出したのが38歳。特に大学の史学科を出た訳ではなくコネがあった訳でもありません。在野の研究者として始まり、今や多くの人からリスペクトされる存在となりました。
そんな先生の姿は我々若手の在野研究者に勇気を与えてくれます。
いつまでも我々を導く存在であって欲しいと思いました。
先生のこれからますますのご活躍をお祈りします。
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6月5日 目黒瀧泉寺・芝安蓮社調査

2010-06-24 21:59:15 | 会員の調査報告
会員のカネコです。

6月5日(日)に目黒不動として知られる瀧泉寺と芝にある安蓮社の調査をしました。
瀧泉寺の墓地は2ヶ所に分かれており、林試の森公園に隣接する墓地に2.26事件で刑死した思想家北一輝とアジア主義を唱えた思想家大川周明の墓があります。

墓地正面入口を真っ直ぐ丘上に上がっていくと左側に北一輝の墓があります。
正面に[北一輝先生之墓]と刻まれており、側面には夫人と養子の北大輝の名も刻まれていました。
その向かい側の2列目の大川周明の墓があります(写真)。
[大川周明 仝 兼子 之墓]と刻まれており側面には[永照院殿禅海周明大居士]という法名が刻まれていました。



もう一つの墓地は本堂の裏側の小道を行き、本堂から向かって右奥にあります。
ここには甘藷先生こと青木昆陽の墓があります(写真)。正面に[甘藷先生墓]と刻まれています。両側には一族の墓が10基程並んでいます。



尚、昆陽の子孫に墓については1月29日のカトケンさんの記事に紹介されています。

1月16日 静岡市② 玄忠寺 宝台院別院

この後、芝に向かい、増上寺の子院安蓮社を調査しました。
入口すぐに竹中重固建立の第二次長州征伐で戦死した幕府軍兵士の墓があります。
正面に[海陸軍士戦死之墓]と刻まれ、裏面には勝海舟による追悼文が刻まれています。
他にも里見浩太郎の『八百八町夢日記』で知られる北町奉行榊原主計頭忠之や岩槻藩主阿部正次、大奥老女飛鳥井局等を調査しました。
以前は古河藩主で大老の土井利勝の墓もありましたが、平成初年に古河正定寺に改葬儀されています。正定寺には元からこの寺にある利勝の墓とともに2基の利勝墓が並んでいます。
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