探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

韮山、芝新銭座、日本の近代化について

2017-12-25 23:45:42 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

先週末に静岡へ帰ったついでに今や反射炉が世界遺産となった韮山を訪れた。江川坦庵の菩提寺 本立寺に代官の家来たちの墓を探すためだ。

古写真研究家M氏の助言で一度来たときに見なかった区域に足を運んでみた。新墓の裏手を藪の方へ進んでみると、前回見つけられなかった望月大象や八田篤蔵の墓があった。

望月は鈴藤勇次郎らとともに長崎海軍伝習生となった千葉小見川出身の郷士。もちろん、そこまで行かなくても幕府瓦解時の方向をめぐって松岡正平と対峙した江川家の家老クラス柏木忠俊の墓がある。坦庵女、河瀬真孝妻の墓も本堂右手の登ったところにあった。

江川邸の横にあった郷土資料館は今年閉鎖。大仁の図書館の2階に移ったが、坦庵の史料はほとんどなかった。



(写真=静岡県伊豆の国市観光文化部世界遺産課発行のパンフレットより)

韮山や大仁、伊豆長岡は今は伊豆の国市になってしまい、昭和育ちの静岡県人にはどうしても田方郡がつかないとしっくりこない。同郡の名は現在、函南町に残るのみとなっている。

土曜日は江戸の江川屋敷とその鉄砲調練場跡を訪ねてJR浜松町駅で降りた。古地図を見ると、増上寺の山門からまっすぐ海側へ来たところが調練場の始まりで、ちょうど紀州藩邸のあった旧芝離宮恩賜庭園の入口がある。ここから浜離宮の間に鉄砲調練場があったようだ。



(写真=万延2年(1861)芝口南西久保愛宕下の図の一部。鉄砲調練場の北に「江川太郎左衛門」その西に「新銭座丁」とある。)

江川屋敷は今のイタリア公園辺りになるだろうか。江川門下の鈴藤が住まいとした芝新銭座の名前がJRのガード下にかろうじて残っていた。残念ながら江川ゆかりの場所を示す案内板は作られていないようで、見当たらなかった。

JRのガードを内陸側にくぐって少し行くと福沢近藤両翁記念碑がある。慶應義塾と攻玉社が一時置かれた場所で、港区のエコプラザの前に建っている。両黌とも今もなお教育機関として人材を輩出しており、学祖への敬慕がこうした案内を残す行為に現われているのだろう。

江川のこともせっかく反射炉が近代産業の分野で世界遺産になってはみたものの、それを進めた人物たちに光を当てなければ、明日を担う人物は出て来まい。

江戸時代が終わらぬうちに科学に目覚めた先人たちーーこの助走がなければ近代国家日本が果たしてあり得たかどうか。いち早く反射炉を造った幕府や佐賀藩の人たちについて、もっと詳しく知らなければこの証明はでき兼ねるというものだ。

帰りに新橋に出る途中、イタリア街を散策。欧州の雰囲気はJRAのビルがピカイチ。モメント汐留のツリーもなかなか素敵だが、階段下から見上げた橋の街灯がフランスっぽかった。

もう8年欧州に足を運んでいないが、日本にいながらにして少しヨーロッパを味わえて帰途に着いたーー
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伯母の7回忌 静岡市にて先祖の墓を案内

2017-12-06 00:09:39 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

土曜の夜、静岡の実家に帰った。日曜に伯母の7回忌があるからだ。

母がいつもの如く車で迎えに来てくれて、後部座席に荷物を積もうとしたら、甥と姪の熱烈な歓迎を受けて驚かされた。

何でも姉が飲み会だとかで母が子供たちを預かり、今日は泊まっていくという。

賑やかな土曜になったーー

翌朝、朝っぱら早くから起こされる。これも賑やかで笑いが止まらない。甥のホットケーキがきれいに焼けて、母と遅くまで何やら話していた姉がムリヤリ起こされて、8時前には飯を食わされた。

お寺に集まるのが11時だったから、姉はそれまでに子供たちを清水まで送って戻って来なきゃならないから、てんてこ舞いだったろう。

なんとか無事間に合い、横浜の叔母夫妻や市内にいる叔父も皆揃った。

伯母の菩提寺は義伯父の実家の墓がある沓谷の蓮永寺。

ここには我が高祖父森川雅四郎とその甥 曲直瀬正好の墓がある。

ちょうど勝海舟の両親と妹の墓碑のすぐ左上だ。伯母の墓に線香をあげたあと、少し離れているが、高祖父らの墓のあるところまで行ってみようとなった。

一同士族墓地へ向かう。森川の墓で私たちとこの人物の関係を説明した。皆と血がつながった人の墓がここにあるとは知らなかったようで、叔母や叔父から見たら祖母の父であること、囲碁と槍を得意としたことが碑面に刻まれていることを説明した。

墓が土台から外されて下に置かれた状態が長く続いているため、いつか皆で修復できたら良いなと思った。

墓参前の読経のあと、ご住職に4年前この寺院で東軍慰霊祭を行ったお礼をさせてもらった。

前日、浦賀でその時静岡まで来てくださった中島三郎助のご子孫や北海道からいらした方にお目にかかっていたので、大変喜ばれていたことをお話させてもらった。「またいつでも使ってください」とおっしゃられた。

本堂に向かう途中、勝海舟の書が掛けられており、この寺の住職が海外布教に努めたことを勝が誉め称えた書だという説明を当時、ご住職がしてくださったことを思い出し、感慨深いものがあった。

寺を後にして伯母が晩年を過ごした部屋で静岡名物がちりばめられた弁当をつつきながら、思い出話に花が咲いた。やはり笑いが絶えず、また明日から仕事をがんばろうと思い直し、静岡を後にした。



(写真=我が先祖が仕えて幕臣になるきっかけになった第6代将軍家宣の肖像。山梨県立博物館の企画展看板より)
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多摩地域へ来た意味

2017-12-02 01:26:52 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

毎年11月はじめの時期は、東京都文化財ウィークで日頃非公開のものが見られる。だが、今住んでいるところへ越してきて数年、忙しくてじっくり見たためしがなかった。

しっかり計画を立てて
11/3に多摩地域の3ヶ所を一気に回った。

○1つ目は国立市谷保の本田家
土方歳三の親戚で書家や医者が出た家である。

国立駅からバスに乗って向かう。この日は一橋大学のある通りに出店がたくさん出ていた。谷保天満宮の次のバス停を降りて、いつもは閉じられてある薬医門をくぐるとボランティアの方が親切に案内してくれた。(=写真)



本田家は寛永年間にこの谷保に将軍の馬乗り役を果たすために越してきた。名主として代官が寄る応接間につながる玄関と住まいとの玄関(土間)が別になった造りで、土方歳三が手習いをした3畳間もあって、普段石ばかり見ているので建物の造りや残っているものにより年代が判るというのは発見であった。

また、今は枯れてしまった大木(隣にそれを受け継いだ新しい木が6-7mの高さまで伸びている。)が当時川を隔てた石田村(日野市石田)から見えたというのは、土方家と本田家の距離がいかに近いかを感じさせるのに十分であった。

そこからバスに乗って聖蹟桜ヶ丘へ。乗り換えて
○2つ目の旧多摩聖蹟記念館に向かった。田中光顕が明治天皇を顕彰するために建てた洋館である(=写真)。ここでは水戸浪士らの書簡が展示され、明治の元勲たちの彫像のパネル(向かえの六賢堂に納められていて実見はできないが)もあって、面白かった。



この聖蹟桜ヶ丘の地(多摩市連光寺)は元々近藤勇たちの後援者富澤政恕家の土地であり、日野の佐藤家と同様、明治天皇行幸の休憩地でもある。その富澤家は今、パルテノン多摩に移されていて、いつでも見学ができるからありがたい。

そこから今度はバスで京王永山駅に向かい、橋本まで行き、JRに乗り換えて1つ目の相原で降りる。ここは近藤勇の養父周斎のふるさと町田市小山で、勇はその実家の島崎を一時名乗っていた。

ここに
○3つ目の天然理心流の門人青木家が公開されている。普段は病院を営んでおり、中には入れない。茅葺きの美しい家がまだ関東に残っているかと思うと感慨深いものがある(=写真)。



最後にそこから至近距離の青木勘太郎らが建てた「近藤先生碑(=三助、勇の養祖父)」(=写真)のある清水寺に寄って再び相原駅へ戻り、この日の行程を終えた。



大学生の時分、高知から静岡に戻って国鉄マンだった父に切符をつくってもらい東海道線に乗って茅ヶ崎で相模線に乗り、八王子の1つ手前片倉で京王線に乗り換えて高幡不動で行われる歳三忌に参加した。ちょうど土方の銅像ができる前の年だった。

その時、釣先生のご挨拶がちょうど唐津の箱館新選組隊士の墓がたくさん見つかったばかりで、高揚感溢れるお話ぶりであったことを今でも鮮明に覚えている。当時、若輩の小弟にはとてもお声かけなどできるはずもなかった。

この散策でそんなことを思い出し、まだまだ新選組の背景を知るには志半ばであると思い直した。課題は多いーー
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