探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

1月24日 生実町重俊院調査

2010-01-30 23:08:26 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
1月24日に千葉県千葉市生実町に行って参りました。
ここにある重俊院は、生実藩森川家の菩提寺です。
江戸時代のだいたいの藩を転封が多かったので菩提所を移った先で造ったりして
歴代藩主の墓は、結構バラバラになっています。
この森川家は、江戸時代に一度も移封されなかった珍しい藩なので
菩提寺は、江戸の菩提寺を除けば、一か所のみです。
この森川家の歴代の墓碑は、重俊院境内に入って本堂左脇の奥にあります。
ここの墓地は、ちょっとした高台にあり、生実城の土塁再利用したものだと言われています。
墓地に入ってすぐは、開基で初代森川重俊夫妻と2代重政夫妻などの墓碑があり、
墓地右奥と森川重俊夫妻の真裏辺りが歴代の墓碑です。
今回の目当ては、明治後の墓碑でした。
明治後の墓碑は、森川恒子爵と夫人、その継嗣の合祀墓でした。
歴代の墓碑の並ぶ中にも最後の藩主の森川俊方の墓碑がありました。
墓碑の形態は、板碑の発展型の駒形碑です。
大名家の墓型としてはとても珍しい分類で、これだけ一か所に一族の墓碑が残っているの
は稀有だと思われます。
ちなみに東京の菩提寺として目黒区祐天寺があります。
ここは、合祀墓で「森川家之墓」と墓誌に子女と明治以後の当主が彫ってあり、
明治以後の当主夫妻は分骨が埋葬されているそうです。
久しぶりにとても幽玄な大名墓所を見ることが出来てとても満足出来ました。
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1月16日 静岡市② 玄忠寺 宝台院別院

2010-01-29 00:07:49 | 会員の調査報告
わがふるさとにはまだまだ今まで気づかなかった、忘れ去られつつある墓がたくさんあります。

玄忠寺にはいくつか幕臣の墓がある中で、青木昆陽の子孫で幕臣青木栄次郎の墓が本堂左手の墓域の最も上座に位置しています。

菱形の「青木家之墓」と刻まれた墓碑の裏面に「先祖(戒名略)姓青木、名敦書、字厚甫、号昆陽」とあり、代々の法名が刻まれています。また、「明治四十年四月三十日」という没年から6代栄次郎忠恕の戒名は「静心院殿浄誉義道居士」であることがわかります。旧幕時代には講武所奉行支配でした。

碑の前には「青木家先祖各霊位菩提」と刻まれた新しい五輪塔が建てられ、現在もなおご子孫により大切に供養されていることがうかがえます。(=写真)



青木昆陽とは、8代将軍吉宗に命じられ小石川でサツマイモの栽培を行った人物です。昆陽自身の墓は碑面に「武州下目黒村に葬る」とあるように東京は目黒不動(滝泉寺)にあるようですが、いまだ拝見に及ばざるところです。

宗派は浄土宗、山号は寿富山。(葵区大鋸町〔おおがまち〕4-1)

久能山東照宮の麓西側に位置する宝台院別院は、家康の側室西郷局(秀忠母)の墓があることで有名な宝台院(静岡市葵区常磐町)により昭和60年に合併され、元は照久寺といいました。

久能山総門番で幕臣の榊原照久を開基としていることにちなみます。徳川家康股肱の臣、四天王の一人 榊原康政の兄清政の嫡男が照久です。父が久能山の警備を命ぜられ家康が東照大権現となって久能に1年葬られ、日光へ移った後も代々久能山東照宮を守ってきました。

ここには常磐町の宝台院から移された「戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑」がひっそりと建てられており、碑面はただ単に「明治元戊辰年」と「六月六日 村上求馬」を筆頭に上中下三段にわたり計116名の人物の名が刻まれているに過ぎません。その中の中段右から23番目に「五月六日 矢田賢之助」の名前がありました。

新撰組に在籍し、流山以後永倉新八と行動をともにした人物かあるいはただの同姓同名か--116名の所属とともに考証はこれからです。

同慰霊碑は東照宮に向かって建つ照久の五輪塔墓と同じく本堂の背後に位置する墓域の最も高いところにあります。

一転、海側に眼をやると、駿河湾から伊豆、御前崎のあたりまで静岡の大きさを一度に体験できる素晴らしい場所となっています。

宗派は浄土宗、山号は金 米山。(駿河区安居291)
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1月4日、1月17日 静岡市① 臨済寺 蓮永寺

2010-01-27 20:01:22 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

静岡の実家に帰省した際に幕臣の墓をいくつか詣でましたのでここに紹介致します。

まずは臨済寺。宗派は臨済宗妙心寺派、山号は天龍山。今川義元の実兄氏輝の法号をとったこの寺は、幼きころ徳川家康が人質となっていた場所であり、現在も臨済宗妙心寺派の修業道場となっています。

本堂左手に位置する墓域には、今川氏輝の五輪塔墓のほか中世では一時駿河国主となった中村一氏の五輪塔墓が墓域の最も高い場所にあります。そこから静岡市街が一望でき見応えがあります。

近代では、墓域中央に柵に囲まれた初代静岡県知事 関口隆吉の墓があります。

氏輝や一氏まで高い位置ではありませんが、本堂裏手の茶室を遠望できる場所に旧幕臣、宮崎県知事 永峰弥吉の墓があります。箱館戦争に旧幕府軍として参戦、実妹が同戦争に参加した川村録四郎に嫁いでいます。



この墓碑は高さが2メートルはあり、なんとも貴重なのは、題字が榎本武揚(=写真)、撰文が勝海舟、撰文書が大鳥圭介であることです。
(葵区大岩7-1)

徳川家康の側室お万の方(法号養珠院、紀州初代藩主頼宣・水戸初代藩主頼房の母)が建立した蓮永寺には、同供養塔のほか、勝海舟の母信子・同妹順子(佐久間象山室)の墓、感臨丸で渡米した小杉雅之進の実兄直吉、彰義隊伴門五郎など、人口に膾炙していると否とにかかわらず幕臣の墓が目白押しです。宗派は日蓮宗、山号は貞松山。

境内は静岡育ちの筆者がボーイスカウトの集会で使った懐かしい場所でもあります。

本堂裏手の墓域を山側へ向かってやや登っていくと中心にお万の方供養塔、右手に山を背後にして勝信子・順子母子の墓があります。

しかし勝家の墓をよく見ると、墓碑正面には信子・順子の戒名のほか「英徳院殿夢酔日正居士」、左面には「先考(亡き父)諱惟寅」から始まる事績が刻まれています。

墓の建立が明治4年(1871)、海舟の父小吉の逝去は嘉永3年(1850)ですから、当然埋葬墓とは言い難いものの、これは海舟の父勝小吉の供養墓ではないかと思います。

当初は、牛込赤城下(現在の新宿区赤城元町)清隆寺に葬られ、のちに港区の青山墓地に改葬されたとされています。

現地案内版には「勝信子・順子の墓」と紹介しているに過ぎません。いま一度このお墓の意味するところを考えてみるべきかもしれません。

なお、小杉直吉と伴門五郎の墓はいずれも本堂裏手の墓域から手すりのあるゆるやかな階段を愛宕山方面へ登った墓域にあります。
(葵区沓谷2-7-1)
-つづく-
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1月23日 正受院・西光庵・常円寺・西方寺・正春寺調査

2010-01-23 22:02:00 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
今日は新宿区・杉並区の寺院調査をしました。

まず新宿2丁目の正受院で大佗坊先生の「会津いん東京」を参考に会津藩主松平容保の初葬地跡地の確認をしました。
「会津いん東京」によると鐘楼の裏あたりにあったそうで、松平家墓地の跡地の一部を会津藩士野村家に譲ったそうで、野村家の墓を確認しました。

新宿1丁目の西光庵では尾張徳川家、高須松平家、明治天皇典侍園祥子の再調査をしました。
尾張徳川家の墓は墓地最奥に14代慶勝(写真)とその夫人(二本松藩主丹羽長富の女)、16代義宜、分家の義怒の墓が並んでます。
義怒の墓は[徳川氏之墓]と刻まれ、昭和天皇の侍従長を務めた徳川義寛侍従長の名も横の墓誌に刻まれています。


西新宿の常円寺では南町奉行を務めた筒井政憲や公家の唐橋家の墓を調査しました。
筒井政憲は剥離が激しく、刻銘の確認はほどんど出来ませんでした。

杉並西方寺では山城屋和助等を調査をしました。

最後は初台正春寺で、大老土井利勝の養父土井利昌の供養塔を調査しました。
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12月13日、1月9日 宗源寺・宗参寺・浄輪寺・緑雲寺

2010-01-20 00:32:40 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。旧年中は拙い文をお読みくださり、誠に感謝申し上げます。本年も随時アップしていきたいと思いますので、引き続きご愛顧よろしくお願い致します。

年末から年始にかけて、寒空と日照時間の短さをものともせず探墓にいそしんで参りました。

まずは幕府最後の海軍総裁、矢田堀景蔵の墓がある宗源寺。宗派は浄土宗、山号は十劫山。

場所は早稲田通りから細い道を北に入ったところにあります。向かい側に塀に囲まれた墓域があり、西側の塀を背中にして矢田堀夫妻の墓は建っています。

正面に本人の戒名「函陵院殿航誉孟軫居士」が右側に、左側には妻の法号「霽月院殿韜誉自覚大姉」が刻まれています。右面には「明治二十年(1887)十二月十八日俗称矢田堀鴻」、左面には「嘉永五年歳次壬子正月二十七日(1852.2.16)矢田堀氏」とあることから、婿であることが判ります。

実をいえば、矢田堀は幕臣荒井家の出身で父は荒井精兵衛道貞、兄二人のうち上が荒井郁之助の実父顕道。次兄がやはり養子に行った成瀬善四郎正典です。

縁筋に松本良順、田辺太一、安藤太郎がいます。(新宿区早稲田町82)

再び早稲田通りに戻り南側に面しているのが(入口は外苑東通り側)宗参寺。宗派は曹洞宗、山号は雲居山。ここに埋もれたる有名なる人物は兵学家 山鹿素行。墓域の中心に石を積んでやや高くなった場所に一族と思しき人たちに囲まれて眠っています。

会津出身で、播州赤穂藩主浅野内匠頭のブレインとして、また創始せる山鹿流兵学はかの吉田松陰が9歳のとき君主毛利侯松平大膳大夫に講義したるもの。そのような時代にまたがる活躍をした山鹿素行は戒名を「月海院殿瑚光浄珊居士」といい、貞享2年9月26日(1685.10.23)に没しました。

同寺には、この近辺の地名となっている牛込氏の墓もあり、江戸時代初期のものを復元したものとなっています。
位置は山鹿家墓域の南側のさらに高くなったところです。(新宿区弁天町1)

外苑東通りを牛込柳町方面ヘ行き、以前紹介しました浄輪寺の和算家 関孝和の墓を再び訪れました。法号は「法行院殿宗達日心居士」、墓碑正面にはこのほかに「宝永五年戊子十月二十四日卒」(1708.12.5)などとあります。宗派は日蓮宗、山号は常栄山。(新宿区弁天町95)

同じ外苑東通りの西側に緑雲寺があります。宗派は真宗大谷派、山号は瞻光山。外苑東通りに面して石柱が建っており、入口は道を1本入ったところですが、そこまでの間が塀に囲まれた墓域となっています。

ここには、当会会長釣洋一先生が最近ふとしたことから見つけられた幕臣久須美祐利の墓があります。墓域に入って中央の通路のやや奥寄りの右手に横長の墓碑があり「久須美一家之墓」と刻まれているのがそうです。(=写真)



久須美は幕末には講武所奉行支配、歩兵差図役頭取などを経て、明治には陸軍少尉、陸軍省へ出仕。最後の箱館奉行杉浦梅譚の親戚でもあります。(新宿区原町1-30)
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