会員のカトケンです。
来たる今月28日に開催する染井霊園巡墓会にて小弟が紹介する、浦賀奉行所与力香山栄左衛門の石碑が浦賀にあるというので、そこまで足を伸ばしてきました。
場所は、京急浦賀駅から15分ほど久里浜方面に歩いた西叶神社になります。階段を昇って社殿の左手に1mに満たない高さの自然石が目的の碑でした。(=写真。明治13年〔1880〕2月建之)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/fa/5261e323320d44ec237232ca1d748c9e.jpg)
昭洞が栄左衛門の雅号になります。
文面を追っていくと、栄左衛門の履歴が語られる根拠は、おおよそここに集約されているように思いました。
実父和歌山藩士刈谷君允、生まれは遠州新居(いまの静岡県)。息子は長男永隆、次男実造が内藤家へ養子に、三男は芳雨。妻岡田氏、同じ浦賀奉行所与力岡田井蔵の妹で、姉は中島三郎助に嫁いでいます。
今回、改めて中島氏との関係を調べてみると、中島家の墓が昭和五年(1930)に染井霊園に改葬されていることがわかりました。
染井の香山家墓の右隣にある「中島家之墓」が裏面に「昭和五年六月建之」とあることから、この墓が中島三郎助家の墓であることが判明したのです。
残念ながら、中島三郎助そのものの墓がある浦賀の東林寺や岡田井蔵の墓がある顕正寺を訪れることはできませんでしたが、機会があればまた浦賀に再挑戦したいと思います。
次に、同じ浦賀奉行所与力で小弟が『歴史研究』誌上「掃苔行脚②」として書いた佐々倉桐太郎の先祖の墓がある常福寺を訪れました。(=写真は本堂右手奥、佐々倉家神野家墓所)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/dd/0d2ca4ddd46346b2b23f0435a3164022.jpg)
具体的な血脈はまだ調査中ですが、ここで判ったことは、佐々倉家が本国丹波、生国武蔵であること、同じ並びに墓碑がある神野家と親戚であることの2点です。
佐々倉は長崎海軍伝習所で航海術を学び、咸臨丸にて渡米。帰国後、築地の海軍操練所で教鞭をとりましたが、肺の病により幕府瓦解時に活躍できず、息子松太郎を箱館の戦にやっただけでした。
幕府瓦解後は、再び仕事に復帰、海軍兵学寮で後進の育成に当たりました。
この佐々倉の功績は、何と言っても同じ浦賀奉行所与力中島家が箱館の役で当主三郎助はじめ、二人の息子を失った後、三男与曽八をして中島家を存続せしめたことに尽きます。
ここに我々は、浦賀奉行所与力たちの絆の強さを感じ取ることができるのです。
最後に、地元の郷土資料館の役割を果たしている浦賀文化センター(浦賀コミュニティセンター分館)にて、香山の石碑について大変親切に教えていただきました。深くお礼申し上げます。
なお、館内には中島三郎助コーナーがあり、手紙や写真の複製が展示され、階段には愛宕山公園にある中島三郎助顕彰碑の拓本が吊り下げられています(田辺太一撰)。
○西叶神社(神奈川県横須賀市西浦賀2-1)
○常福寺(同2-16)
@いずれも京浜急行浦賀線終点 浦賀駅下車徒歩15~20分
来たる今月28日に開催する染井霊園巡墓会にて小弟が紹介する、浦賀奉行所与力香山栄左衛門の石碑が浦賀にあるというので、そこまで足を伸ばしてきました。
場所は、京急浦賀駅から15分ほど久里浜方面に歩いた西叶神社になります。階段を昇って社殿の左手に1mに満たない高さの自然石が目的の碑でした。(=写真。明治13年〔1880〕2月建之)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/fa/5261e323320d44ec237232ca1d748c9e.jpg)
昭洞が栄左衛門の雅号になります。
文面を追っていくと、栄左衛門の履歴が語られる根拠は、おおよそここに集約されているように思いました。
実父和歌山藩士刈谷君允、生まれは遠州新居(いまの静岡県)。息子は長男永隆、次男実造が内藤家へ養子に、三男は芳雨。妻岡田氏、同じ浦賀奉行所与力岡田井蔵の妹で、姉は中島三郎助に嫁いでいます。
今回、改めて中島氏との関係を調べてみると、中島家の墓が昭和五年(1930)に染井霊園に改葬されていることがわかりました。
染井の香山家墓の右隣にある「中島家之墓」が裏面に「昭和五年六月建之」とあることから、この墓が中島三郎助家の墓であることが判明したのです。
残念ながら、中島三郎助そのものの墓がある浦賀の東林寺や岡田井蔵の墓がある顕正寺を訪れることはできませんでしたが、機会があればまた浦賀に再挑戦したいと思います。
次に、同じ浦賀奉行所与力で小弟が『歴史研究』誌上「掃苔行脚②」として書いた佐々倉桐太郎の先祖の墓がある常福寺を訪れました。(=写真は本堂右手奥、佐々倉家神野家墓所)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/dd/0d2ca4ddd46346b2b23f0435a3164022.jpg)
具体的な血脈はまだ調査中ですが、ここで判ったことは、佐々倉家が本国丹波、生国武蔵であること、同じ並びに墓碑がある神野家と親戚であることの2点です。
佐々倉は長崎海軍伝習所で航海術を学び、咸臨丸にて渡米。帰国後、築地の海軍操練所で教鞭をとりましたが、肺の病により幕府瓦解時に活躍できず、息子松太郎を箱館の戦にやっただけでした。
幕府瓦解後は、再び仕事に復帰、海軍兵学寮で後進の育成に当たりました。
この佐々倉の功績は、何と言っても同じ浦賀奉行所与力中島家が箱館の役で当主三郎助はじめ、二人の息子を失った後、三男与曽八をして中島家を存続せしめたことに尽きます。
ここに我々は、浦賀奉行所与力たちの絆の強さを感じ取ることができるのです。
最後に、地元の郷土資料館の役割を果たしている浦賀文化センター(浦賀コミュニティセンター分館)にて、香山の石碑について大変親切に教えていただきました。深くお礼申し上げます。
なお、館内には中島三郎助コーナーがあり、手紙や写真の複製が展示され、階段には愛宕山公園にある中島三郎助顕彰碑の拓本が吊り下げられています(田辺太一撰)。
○西叶神社(神奈川県横須賀市西浦賀2-1)
○常福寺(同2-16)
@いずれも京浜急行浦賀線終点 浦賀駅下車徒歩15~20分
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