梅之芝居日記

歌舞伎俳優の修行をはじめてから15年がたちました。
日々の舞台の記録、お芝居ばなし等、お楽しみ下さい。

歌舞伎座で謡曲

2008年05月08日 | 芝居
今月の昼の部では、お能の謡をいいとこ取りで3番聴くことができます。

1、『船弁慶』
『義経千本桜 渡海屋』では、渡海屋銀平が本性をあらわし、それまでの船頭姿をガラリと改めて、白装束に白糸威の鎧、銀の烏帽子に白柄の薙刀をかいこんだ、凛々しき平知盛となって上手の障子屋体に登場するおりに、
「そもそもこれは 桓武天皇九代の後胤 平知盛が幽霊なり」

2、『田村』
その後、義経襲撃の成就を願い、知盛が門出を祝って舞うところで、
「あれを見よ 不思議やな 味方の軍兵の旗の上に 千手観音の光を放って虚空に飛行し 雨霰と降りかかって 鬼神の上に乱れ落つれば 悉く矢先にかかって 鬼神は残らず討たれにけり」

3、『夜討曽我』
『極付幡随院長兵衛』の「湯殿の場」、水野十郎左衛門と長兵衛との立廻りで、
「今は時致も 運槻弓の 力も落ちて 誠の女ぞと油断して通るを やり過ごし押しならべ むんずと組めば…」
を立廻りのキマリまで聴かせ、幕切れは、
「その時大勢折り重なって 千筋の縄をかけまくも かたじけなくも君の御前に 追ったて行くこそ めでたけれ」
と段切れまで謡います。

知盛の出に、知盛が後シテである『船弁慶』を使うのは、そのものズバリですが、出陣に先立つ舞の地に『田村』を使うのは、これが<勝ち修羅>能だからで、武将(の霊)がシテとなる<修羅もの>の中でも、これが戦いに勝った武将(ここでは坂上田村麻呂)が、その華々しい戦の有様を語っているからなのです。
一方「湯殿の場」での『夜討曽我』は、曽我兄弟の敵討ちの模様を描いた作品。奮闘の末、敵方に捕らえられる曽我五郎と、敵の屋敷の中で一人命を失う長兵衛の哀れな境遇が重なっております。

お芝居の状況にぴったり合った選曲と申せましょうが、歌舞伎でお能の謡を聴かせる時は、たいていの場合が長唄の唄方さんと、お囃子によって演奏されますが、先に挙げた「渡海屋」での「そもそもこれは…」は、知盛をなさる役者によっては、義太夫の語りになることもございます。
今月は長唄さんのご担当ですが、知盛が登場する上手の障子屋体の裏で謡われているのですね(お囃子さんも一緒)。知盛自身が謡っているということなのでしょうか? 調べてみようと思っております。